8-4.妄想の幻靄
第二魔界の模倣空間、第二階層、それは水の世界だ。数少ない岩場は浮島のように水面上で孤立して、ただ静寂に凪いだ、時間の停止した風景を作り出している。それは計り知れないほど大きな水溜まりだった。
岩場を歩く。凸凹した岩の表面に足を取られながら、不自然に起立する広間の扉へ向かう。疲弊、疲労、困憊、体から現実感が引き離されて、差し引かれた分は重荷を背負うような苦役と入れ替わる。そんな風に進みながらも、考えざるを得ない、ミラーレのことを。残すは二層、階数にしておそらく六、だのに、唯一巡り合えない仲間……シコラクスはともかく。目下最大の敵ミラージュはミランダの姉、そしてミラーレの妹、ミラージュがミラーレに危害を加えていたとして、なにか不思議だろうか? ミラージュは死んだと、ミランダは思っていたという。生死に関わる物事、だから、浅からぬ因縁あったにしても、不思議はない。
「なあミランダ」
「なんです?」
あっけらかん、とした様子のミランダだ。「よっ」と声上げ、岩の凸から凸へ飛び移る。深刻そうに尋ねた俺が阿呆らしい。
「心配じゃないのか、ミラーレのことは」
「そうですね、あんまり」
本当に気にしていないらしいから反応に困る。
「ピキー」
ヴェルギリもなにか言いたげだ。だが鳴き声だけでは、なにも伝えようがない。
俺たちに先行して往くキャリバンが、振り返って声を上げた。
「旦那、やっぱり敵はいねえようだ」
「そうか、多分、襲撃を諦めたんじゃなく、補給をさせない算段だろうな」
距離を半分くらい潰したところで、もうもうと靄が立ち込めてきた。
「おい、視界が悪くなってきた。離れるな」
「はい」
「わかったぜ」
一塊になり歩く、腕を振ってもぶつからないよう、お互いに距離を調整しながら。その間にも靄は濃くなる。三歩と離れていないのに、ミランダもキャリバンも人影となってしまいそうだ。
「隆志さま」
「なんだ」
「見失いそうです」
「敵が仕掛けてるのかも知れん……取り合えず手でも繋ぐか?」
「咄嗟のときに危険では?」
「問題ない、ほら」
ミランダは手を握るや否や納得し、「これなら安心ですね」と言う。
「ほら、キャリバンも」
「あ、おう……」
キャリバンも手を繋ぐ。「ん?」と唸って一瞬の間。それから「ぎにゃーっ!」と叫んだ。
「どうした!?」
「敵襲ですか!」
「だ、だだ、旦那の手が! へ、変なぬるぬるした触手みたいなものに!」
俺はキャリバンに近付いた。尻餅搗いたキャリバンに手を差し示す。それは当然、普通の手だ。
「あれ?」
「さっきお前が握ったのはヴェルギリのあれだ。伸縮自在だからな。多少離れるくらいは問題ないだろ?」
「……まじでか」
「不服か」
「我慢する」
キャリバンは見るからにげんなりとした表情で、ヴェルギリと熱い握手を交わした。くすくすとした笑い声はミランダのもの。
そんなこんなで先へと進む。そのうちに靄が薄くなり、一気に晴れた。目的地、広間への扉は目と鼻の先、だったが、その前にはミラーレが佇んでいた。
「あ、姉さん」
「ミランダ、無事だった?」
「うん、姉さんは?」
「私も平気……」
不意な登場、だが想定内。キャリバンは錨を構え、ミランダの瞳は紅い。俺はヴェルギリを強く握った。
「このタイミングで現れるってことは、そして無事ってことは……。こちらとしては怪しむしかない。どうなんだ?」
俺の言葉にうつむくミラーレ。そして、顔を上げた時、その瞳はミランダと同じように、紅く染まっていた。
「先程の靄は私が現出させました。その間に、隆志様、いいえ、アリゲーリ様、の周辺に或る仕掛けを施しました。封印を解除する術です」
「封印……? なんの」
「アリドュスクロワの炎を封じた封印です。それを解放さすれば、どうなるか……今のお三方では、無事には済まないことでしょう」
俺はミランダやキャリバンと見合わせた。キャリバンは肩を竦ませ、ミランダは怒りの表情。
「動いたら解放するよな」
「然りです」
「目的は?」
「……妹」
「妹?」
「ばあっ!」
突如俺の真ん前に、おどけた顔で女が出てくる。どこから出たのか、この女悪魔、ミラージュはけらけら笑いながら俺の周りを跳ね回る。ミランダやミラーレとよく似た容姿は二人に比べ朗らかで、しかしほんの少しだけ、言い知れない澱みを身に纏っていた。なにか負の感情の澱のような、なにかを。
ひとしきり跳ね回ったミラージュは、俺の前で佇まいを正すと、脚を交差させ、スカートの裾をつまんでお辞儀した。
「ご機嫌麗しゅうございます、アリゲーリ様。申し遅れました。私、ミラーレの妹にしてミランダの姉、ミラージュにございます」
頭を上げたミラージュは莞爾と笑う。それがまるで威嚇のように感じられた。何故かというに、ミラージュの瞳は姉妹と同様、紅く染まっていたからだ。
「さて、そろそろお疲れでございましょう。この疲れる旅も終わりに――」
「お前は」
「はい?」
「お前は、アントニウスの配下なのか?」
そう訊くと、ミラージュは意外にそうに眉を顰めた。
「それは、誰の意思ですか? シコラクス? はここにいないし……」
「なにを言ってる?」
「魔剣でしょうか、ああ、そうでしょうね。その魔剣も一応、アントニウス様の知り合いですか」
なんのことを言っているのよくわからない。が、口振りからして、どうやらアントニウスの麾下には居るらしい。
「まあなんにせよ、どうでもいいです。アリゲーリ様。いやいや、間央隆志。いい加減に終わらせましょう。痛いですよ。痛々しいです。現実見ましょう?」
「は? なんなんだ、お前さっきから、なにを言っているのか全然わからん」
「だからぁ、もう悪魔ごっこなんて飽きたんですって」
「悪魔ごっこ?」
「隆志さま!」
横合いからミランダが叫ぶ。
「なにか危険な気がします、あいつの会話に乗らないでください!」
「あいつだってぇ、実の姉設定の私にそんなこと言う?」
「姉設定?」
「そ、設定、姉設定。そうでしょ?」
「旦那、俺もあいつはマジでヤバいと思うぜ。気ぃ付けろ」
「笑っちゃうよね、両手に花? 女悪魔を侍らせて、楽しかった?」
「ちょっと待て、次々喋るな、混乱しそう――」
「でもさぁ、よく考えてもみなよ? 良い歳した男がこんな痛いことやっててもいいの? 魔王とか、馬鹿じゃないの? 中学生じゃないんだし。ていうか働けよ」
「なんだ、どういう意味――」
「だからぁ! もう連載終了! 打ち切り! 完結済み! そうしようって言ってんの! あんたの妄想はこれで終わり! ニートを卒業しろって言ってんの! だいたいなんなの? 魔界だの、悪魔だの、もうたくさん! さっさと現実に戻れ、そして働け! 親のすねかじっておいていい気になるんじゃねえよ!」
「お前は、要するに、なにが、言いたいんだ……?」
「隆志さま!」
「旦那!」
「はぁ、もう……」
怠そうに、ミラージュは頭を掻きむしった。
「悪魔なんていない、全部、間央隆志っていう男の痛々しい妄想。それが真実。どう、わかった?」
「な、なにを言ってるんだ。現に今、お前も、ミランダもキャリバンもミラーレもヴェルギリも、ここにこうしているだろうが」
「だからそれが妄想って言ってんのよ」
「隆志さま、相手にしない方が良いです。心理的な動揺を狙ってるんです」
「火傷覚悟でぶっ飛ばした方が良くねえか?」
「あぁ、もう! ホントに聞き分けないわね。いいわよ、じゃあ思い出してみなさい。あんた以外に、悪魔を認識した人間はいるの?」
「そりゃあ、いるだろ。カーチャンとか、此方田とか……」
「本当に? 良く思い返してみなさい。なんなら読み返してもいいわよ」
「読み返す?」
「そう、読み返す。だって、貴方は小説の主人公だもの。読み返すのは、ええと……1-6がいいわね。いえ、読み返すのは面倒だから、ここに書き写しちゃうわ」
一先ずエーリアルを部屋に戻そう。そう考えて、階段を上ろうとした矢先、居間からカーチャンのものではない、女の声が聞こえた。
「なるほど、人間界にはこんな調味料があるんですね」
迅速に踵を返して居間に乗り込む。こちらを見遣るカーチャンと、その隣に、エプロンを身に着けたミランダがいた。
「なにしてんだ?」
「夕飯の支度に決まってるでしょ」
「人間界の料理を勉強するために見学したいと申し出たら、快く承諾してくださいました!」
「いや、そうじゃなくてだな、どうしてここにいるのかという質問を」
「なに、居ちゃ悪いの?」
「私から説明いたします」
なんだ、これどうなってる? なにが起こった、え?
「細かいことはどうでもいいのよ。ほら、良く見てみなさい。貴方の母親は、ミランダのことをちっとも認識してないでしょう? むしろ、ミランダの台詞や仕草を抜いた方が自然じゃない?」
それが、悪魔は俺の妄想だっていう根拠か?
「それだけじゃないけど……全編どこを見たって、悪魔が実在する証拠なんてないわよ。全部、貴方の妄想。どうしても気になるなら探ってみれば?」
ふざけるな、じゃあお前はなんなんだ。なんでお前は出てきた。俺の妄想が俺の妄想を終わらせようとするのか?
「そうだよ。私は多分、貴方の後ろめたさが作り出した幻覚じゃない?」
信じられんな。
「でも、周りを見てみなよ、もう誰もいないよ? いつもの、貴方の、閉め切った部屋じゃない」
俺は周りを見た。閉じたカーテンに、本棚、パソコン、布団……。
ミランダたちはどこへ行った? 魔界は?
「だ、か、らぁ! あんたの妄想だって、いい加減に認めなよ。この妄想は強制終了! あとで完結済みにしておくから! もう諦めな! ちゃんちゃん、おしまい、めでたしめでたし! 間央隆志は妄想の世界を立ち去り、ニートを辞めると決意しました! じゃ、私も消えるから」
「あ、おい!」
そう言って、ミラージュは消えた。居た気配すらなく。瞬きのような一瞬で。




