1-4.貴方しか見たくない
街灯の落とす蛍光に蛾が群がっている。夜の街を徘徊する。ミランダはいったい、どこまで飛ばされてしまったのか。
「エーリアル、どうにかしてミランダを探知できないか?」
「無理です」
「魔界からずっと俺を看視していたんじゃないのか」
「いましたよ。しかしアリゲーリだって、右を見ながら左を見るなんて出来ないでしょう。そういうことです」
「今もなにか視てんのか」
「エーリアルはいつでもアリゲーリのことを見守っています」
「怒るぞ」
渋るエーリアルに、ミランダの居場所を探知させる。エーリアルの刀身に、公園の光景が映った。シーソー、ブランコ、ジャングルジム、砂場……。ミランダは砂場に倒れていた。
「どこの公園か分かるか?」
「ここから北西の位置にあります」
「古藤公園か」
場所が分かった。公園に向けて歩き出す。エーリアルが変身して、少女の姿になった。俺の前に立って、手を差し出してきた。
「どうかしたか」
「夜のお散歩です」
づい、と開いた手を突き出す。剣が化けたと思えないような、小さく可愛らしい手が街灯の下に曝け出される。俺はその手をそっと握った。エーリアルは確かめるような力で握り返した。手を繋いだままエーリアルと歩く。早くミランダの許へ行きたい気持ちはあるが、エーリアルが過ごした月日を思うと、これくらいはと思ってしまう。
「エーリアル、ちゃんと前を見て歩け」
「エーリアルは剣です。剣が見るものは、使い手と使い手に相対するものだけです」
「横ばっかり見てると躓くぞ」
早速、け躓いたエーリアルが転んだ。
「言わんこっちゃねえ」
「起こしてください」
「しょうがねえな」
起こそうと手を引っ張った。しかし、エーリアルがその場で踏ん張って堪えている。
「おいエーリアル」
「アリゲーリが貧弱なだけです。エーリアルは女童でも軽々振れる魔法の剣です」
「なんのつもりだ」
「早く起こしてください」
「正直に話さないと置いていくぞ」
「やれるものなら」
それでは、と置いて行こうとしたが、エーリアルが俺の手を離さない。引き剥がそうとすると、万力のような力で握り締めてくる。どうしてもミランダのところへ行かせないつもりらしい。
「あの女、嫌いです。自分の都合のためにアリゲーリを利用しようとして、挙句に上手くいかなかったからと襲ってくる。アリゲーリがあの女を斬るつもりならばこの手を離します」
「ミランダを斬るつもりはない」
「では一生この手を離しません。エーリアルは幸せ」
「俺は意地でも行くからな」
踏ん張るエーリアルを引き摺って歩く。傍から見たらどういう図なんだろう、これ。だいぶ時間が掛かったが、古藤公園に辿り着いた。
「隆志さま」
傷だらけになったミランダが、公園の暗がりに立っていた。紅い瞳が闇に輝いている。照準を絞るように目が細められた。手に持った鞭を構えるが、足元がふらついている。まともな一撃を放つのも難しいだろう。
「これ以上やるつもりはないぞ」
「ならば隆志さまが死ぬだけです」
「その状態でなにができる」
夜の公園で、鞭を構えた傷だらけの美女と、少女に手を掴まれて引き摺る男が向かい合う。俺はエーリアルを使おうとして、思い止まった。その内心を読み取ったのか、ミランダが踏み込んだ。振り下ろした腕はしかし、力強くはなかった。踏み込んだ足も、膝から力を失って、体を前のめりに倒してしまう。俺は咄嗟に腕を伸ばして、ミランダを受け止めた。ミランダは疲れきっているのか、俺に受け止められても抵抗はしなかった。
「どうしてそこまでする? わけを話せ」
ミランダは俺の肩を強く掴んだ。俺の耳元に口を近づける。そして噛み付くように、けれどか細い声で言った。
「魔界の、平和のため……」
「それだけか?」
「……………………」
ミランダの体からゆっくりと力が抜ける。ミランダの顔をこちらに向けさせた。表情に敵意はなく、紅の瞳も、いつの間にか深い黒色に戻っていた。
何もかも受け入れて諦めてしまったかのような表情が、哀憐の気持ちを揺り動かす。気付けばエーリアルに掴まれた手が自由になっていた。俺はそっと、ミランダの頭を撫でた。
ミランダは桃色の唇に、微かな笑みの色を見せて、ゆっくりと目を閉じた。静かに瞼が落ちると、涙が溢れて、頬を流れた。
「姉さん……」
呟いて、ミランダが完全に脱力してしまう。気を失ったようだ。本来なら立つことも難しかったのだろう。俺はミランダを抱き上げた。
公園を出ようと踵を返す。しかしすぐに立ち止まった。俺の前に、立ちはだかる少女がいた。エーリアルだ。街灯の光を背に、影が伸びている。薄暗く見える表情と、紫色に微光を発する体。真っ直ぐに俺を見詰める目は、険しい。
「どうするつもりです、アリゲーリ」
「別に、家に連れ帰るだけだ」
「その女は今すぐ殺してください」
「退け、エーリアル」
エーリアルと睨み合う。冷える夜の空気の中、瞬間的に氷点下を過ぎたような心地がした。エーリアルが剣に変身し、突っ込んできた。身を返して避ける。狙いは明らかにミランダだった。ミランダを担ぎ直して、駆け出した。
「待ちなさい、アリゲーリ!」
すぐさま進路を翻してエーリアルが飛んでくる。迫りくる追撃を寸でのところで避けながら、俺は街を走った。しかしミランダを抱えながらエーリアルを撒くのはほぼ不可能だ。エーリアルとて、ミランダを俺が抱えている以上、本気は出せないだろうが……。
しゃにむに走っていると、鈍色のレインコートを着た人物が俺の向かいから歩いてきた。ここは一本道だ。横に避けようにも道はなく、しかし立ち止まればエーリアルの斬撃を喰らってしまう。
「おい逃げろ!」
そう言うしかなかった。しかしレインコートの人物は、まるで聞こえていないかのように、そのままの調子で近付いてくる。そして、俺とその人物がすれ違ってしまった。
俺は慌てて踏み止まった。そして振り返る。エーリアルの斬撃を受けていないことを祈って。激しい金属音が鳴った。
「なっ!」
俺は言葉を失った。エーリアルが、見えない壁にぶつかったみたいに、弾かれていた。レインコートの人物は消えていた。本領を発揮していないとはいえエーリアル。それを弾くなど、そうそう出来るものではない。そうでなくとも人間には。いや、人間ではなかったのか。しかし悪魔だとして、どうしてこんなところに――。
それ以上を考えている暇はなかった。遠くに弾かれたエーリアルが戻ってくる。俺はまた走り出した。
「隆志、さま」
「すまんな、起こしたか」
うっすらと意識を取り戻したミランダ。背後でエーリアルが一閃した。前のめりに避けて、転びそうになる。
「弱り切っているところ悪いが、空間に穴を開けられるか。何処へでもいい。何処か別の場所に通じる穴だ」
ミランダは微かに頷いた。上がり切らない腕を上げ、前方に手を翳す。先の景色が屈折した。そこに飛び込む。
「閉じろ!」
ミランダへ声を掛け、振り向いた。後ろにある景色は、見慣れた本棚。空間の穴は閉じられており、そしてここは俺の部屋だった。
ミランダを布団の上に寝かす。傷だらけで血の滲む肢体は痛ましかった。自分でやったこととはいえ。
「なぜ」
「ん?」
ミランダが涙声を上げた。目に滲む涙は、きっと悔し涙だろう。
「なぜ貴方は私を殺してくれなかったのです。あまつさえ、私を護るようなことを……」
「お前と会えて嬉しかったからだ」
ミランダは黙って俺を見ていた。なんのことか分かっていない顔をしている。俺はおかしくなって、ミランダの頭をなるだけ優しく撫でた。
「自宅警備の仕事は孤独なんだ。誰かがやって来る時は大抵、平穏を脅かすからだ。お前もその例に漏れないが、お前は他の奴と少し違った。心の底から対当以上に接してくれた。動機はどうあれ本当の意味で真正面から俺と向き合おうとしてくれた。だから、俺はお前を失いたくはなかったんだ」
ミランダはやっぱりよく分からないという表情で、けれどおかしそうに微笑した。そして俄かに顔を苦痛に歪め、咳込んだ。血を噴き出した。
「ミランダ、なにか治療の手段は持っていないのか」
「瘴気が、もっと濃ければ……」
瘴気は悪魔の力の根源となる。確かに瘴気があれば回復もするだろう。しかし人間界で、しかも人の住む場所は清浄に保たれることが多いため、瘴気は溜まりにくい。俺も瘴気を操ることが出来るとはいえ、生み出すことはできない。
「魔界に帰ることはできないのか」
「もう、力が……」
燃料切れか。どうする、なにか方法はないか。とにかく人間の手段ででも応急手当か。ミランダの体を見回した。
思わず生唾を呑み込んだ。ミランダの白磁の肢体を覆っていた服は無残な襤褸と変わり果て、かなりあられもない格好になっていた。安定しない呼吸のために、存在感を主張するように上下動してしまう胸の隆起。締まりのある胴回りと、丸々とした臀部。そこから生えるすらりとした陶磁のような脚。血に塗れているのを差し引いても、男としての本能をくすぐるものがあった。悪魔の姿形には意味がある。知性を象徴したり、暴力や恐怖を象徴したり。そして妖艶な女の姿が象徴するものは……。
「ミランダ、先に謝っておく」
ミランダは疑問を目で訴えた。まともに受け答えする余力もないのだろう。涙の滲んだ目。半開きになった口。
俺はミランダの唇を奪った。
「ん!? っふ、んぅ……」
突然のことに驚いたミランダだったが、抵抗らしい抵抗はなかった。なすがままだ。だけどそうじゃない。
「ん! ん!」
「ん?」
全く分かっていないようなので、俺は一旦、唇を離した。
「おまえ淫魔の自覚あんのか!」
「へ?」
悪魔の姿形には意味がある。妖艶な女の姿が象徴するものは、特に男性に対しての淫魔の性質。男の精気を奪い己の糧とする。夢に現れる夢魔の形態が一般的だし、本来ならもっと実際的な行為をするのが悪魔としては正当だろうが、時間もないし、ミランダは高位悪魔だし、接吻でも精気の搾取は可能のはずだ。だというのにこいつは……。
「今度はしっかりやれよ。いつエーリアルが飛んできても不思議はないからな」
「で、でも……」
「いくぞ!」
俺は再び接吻した。始め強張っていたミランダも、次第に弛緩してきた。ゆっくりと、だが着実にミランダが精気を吸収しているのだろう。ぴりぴりとした快感が、口唇を中心に頭に響く。快楽の代償に精気を支払っているような感じだ。
ミランダの唇が柔い。良い匂いがミランダから漂ってくる。無意識に力が籠もって、手がミランダの後頭部を持ち上げるようにしていた。さらさらとした髪の感触が心地良い。
ミランダが腕を俺の首に回してきた。にゅるりと、舌が滑り込んでくる。お互いの舌の形を確かめ合うみたいに絡め合う。
「んぅ」
ちぅ、という卑猥な音が鳴った。俺は態勢を変えて、ミランダの上で四つん這いのような格好になった。ミランダを求めることに夢中になっていた。ミランダの脚が俺の腰に絡み付いた。理性が完全に崩壊する一歩手前で、俺は唇を離した。開け放しになったミランダの口の中で、粘液で光る紅い舌が突き出されていた。そこに一筋の唾液が、俺の口にまで繋がっている。
必死になって目を逸らす。目を逸らした先がミランダの胸で、慌ててその下へ。臍の辺り。そこはそこで艶めかしかった。そして、傷が塞がっていることに気が付いて、やっとしっかり理性を取り戻した。
「治ったな」
ミランダから距離を取ろうとしたが、ミランダの脚ががっちりと俺の胴を捕らえている。ミランダは恍惚とした眼差しで、じっと俺を見ていた。上気した頬は健康そうで、元気を取り戻した証だ。対して喘ぐように繰り返される呼吸は激しく運動した後の犬のようで、悩ましく病的だ。
「ミランダ、もういいだろ、離してくれ」
「た、隆志さま……」
ゆっくりと、脚を絡み付かせたまま体を起こそうとするミランダ。それを手で支えた。俺の両手はミランダの体を支えるのに使われて、俺は無防備になっていた。もっと冷静なら、そんなことはしなかったかも知れない。或いは、無意識で欲望に負けていたのかもしれない。
今度は俺がミランダに唇を奪われた。そして押し倒された。きっと心の隅で待望していた続きに、迂闊さの後悔も消し飛んでしまった。