5-5.アリゲーリには戻らない
白濁としたうねりが空に浮かんでいる。地面は底抜けて存在しない。見覚えのある世界だ。過去と未来に繋がりがない。
俺はどうしてここにいる。俺は、俺で、俺だけど、俺の過去は? 思い出せない。過去なんてあったのか? なら、未来は?
手を見た。そこに手はなかった。手ってなんだ?
目の前に誰かがいた。見覚えのある姿だ。これは俺の姿だ。黒い岩石が人型をなしたような形。黒い光沢のある鎧に似ている。血潮の代わりに岩漿が通った肉体。
肉体に意識がない。意識とは俺だからだ。俺がここにあるのなら、体はそこにある。
帰る必要がある。還る必要がある。違う、俺の意思じゃない。
俺の意思はどこにある。今も、昔も、どこにもない。俺は探しに来たんだ。人間界へ。
そうだ、ここは人間界ではない。魔界だ。思い出した。第三魔界だ。それは違う。
「アリゲーリ」
誰かが誰かを呼んだ。
「貴方にもついに死が訪れたのですね。さ、こちらへ」
無数の手が俺を招いた。それよりも気なるのが、ミランダたちのことだ。
意識が断続して繋がらない。記憶の糸を辿れない。
俺はミランダに会いたかった。キャリバンって誰だ。エーリアルはどこにいる。
アントニウス、嗚呼、お前はどうして俺に刃向かう。いいぜ、お前がそのつもりなら、俺に断る道理はない。
破壊の意思。俺の意思ではない。探究の意思。俺の意思ではない。ありとあらゆる意思に触れてきた。俺の意思だけがない。
「おい、しゃんとしや」
聞き知った声がした。はっきりとしたシコラクスの姿が目の前にある。
「妾が誰かわかるかえ」
「シコラクス」
「よろしい」
「なんでお前がここにいる?」
「おや、そんなこともあやしうなったか。そも、おまえはここがどこかわかっているのか」
「ここは……人間界?」
「間違ってはいない」
「馬鹿言え、魔界だろう」
「誤ってはいない」
「わけがわからん。俺は誰だ?」
「おまえはアリゲーリ。もしくは間央隆志じゃ」
名前を聞いて、やっと思い出すことが出来た。俺はヴェルギリに魂を食わせた。ヴェルギリは人間界に着いたあと、器用に俺の魂だけを吐き出したのだ。
「第一魔界、ここは第一魔界だな」
「正解、と言っても良いじゃろうな。おまえにとってはあの世じゃろうか」
シコラクスは長い髪の一房を、指にくるりと巻いた。
「なにをやっとるんじゃ、おまえ」
「なにって、なにが」
「人間になって、自分の生まれてきた意味を探すんじゃなかったのかえ」
「そうだよ」
「死んどる場合か」
「誰だっていつだって死ぬときは死ぬ」
「死んで良いときと悪いときがあろう」
「そうは言ってもだな――」
「第一、最近のおまえはなんじゃ。親のすねをかじって。妾の娘でももう少し自立しとるぞ」
「俺だって、好きでそうしてるんじゃない」
「お前の本質を、アントニウスは見つけたぞ」
「なに?」
「自分よりも他人の方が自分を知るというのもよくある話じゃ。特におまえの場合はな。おまえがおまえであるが故に、おまえは自分がわからない」
日光と潮の匂いが、理性と現実を噛み合わなくさせる。俺は渚に立っていた。渚は境界だ。世界の開始線だ。波に動く線引きなのだ。その境目に立つ俺はいったい何者だろう。
「おいシコラクス?」
なにかを見失った。
「隆志、この前のテストはどうだった」
「満点だったよ」
トーチャンに訊かれた。
「やっぱり凄いな、隆志は」
「トーチャンの息子だからね」
そういえば昔はなんでもできた。今じゃあやる気も起きない。
雨で視界が悪くなってきた。キャリバンと戦った日もこんな雨だった。雨の所為だ。雨の所為だから仕方ない。
トラックが俺に突っ込んでくる。いや、嘘だ。俺はあの日は家にいた。轢かれたのはトーチャンだ。
「誰、その人?」
「いま働いている場所で一緒でね、それで、私、その人と……」
ハムレットか、俺は。父を殺したのが叔父でなくて良かった。
「おまえは望まれなくなったな」
シコラクスが言った。
「こんなやり方じゃあ誰もなにもわからない」
「そうじゃな。だからおまえは戻るべきじゃ。今の居場所へ」
戻ろう。
「どうすれば戻れる?」
「自力では無理じゃろう。何者かに引き上げてもらうか、人間を捨てて悪魔に戻れ。悪魔としてのおまえなら、自力で上の魔界に戻れよう」
「俺は人間として戻る」
「……今は妾の所為でもあるが、それにしても悲しい奴よの、おまえ」
気が付くと魔界で一番高い山に居た。頂上にエーリアルが突き刺さっている。俺の片手にはヴェルギリ。昔の一場面だ。
空から降ってきたエーリアルが、突き刺さっているエーリアルを叩き切った。
「アリゲーリぃ!」
少女の姿に変身する。
「迎えが来たようじゃの」
シコラクスは泡になった。
「エーリアル、どうしてここに」
「エーリアルはどこにでもいけます。そもそもここはエーリアルの造られた場所です」
抱き付いてきたエーリアルを受け止める。頭を撫でた。
「ちゃんと正気を保っていますか、アリゲーリ?」
「瘴気?」
「あ、ダメだこりゃ」
エーリアルは俺の手を握った。
「エーリアルに付いてきてください。アリゲーリの体まで案内します」
小舟に乗って、マグマの海を進む。エーリアルは口笛を吹く。音が出ていない。いずれ見えてくるのは、俺の悪魔としての体だった。
「違う、エーリアル、そっちじゃない」
「エーリアルは剣です。アリゲーリの体の違いなんてよくわかりません。だけど、あっちの体の方が調子良いでしょう。絶対」
「すまないがそれじゃ駄目なんだ。人間界の方に案内してくれ。最近使ってた体の方だ」
「ぶー」
エーリアルが唇を尖らせる。マグマの海に手を入れた。パシャパシャと透き通った水を掻くと、小舟は向きを変えた。
「途中は泳ぎになりますよ」
「わかった」
小舟はそのうち、エーリアルの体重に耐えきれなくなって沈んだ。
「エーリアルは女童でも振れる魔法の……」
「はいはい」
しばらく泳いでいくと、洞窟があった。洞窟を歩く。真っ暗で、天地左右、見渡す限り真っ黒だ。地面を歩いているのかすらも怪しく感じる。
「隆志」
後ろから幼馴染の声がした。立ち止まる。昔からあいつは苦手だった。あいつと二人きりでいるとなにもできなくなるのだ。
「アリゲーリ」
ぐい、とエーリアルが俺の手を引く。
「あれはアリゲーリの欠片です。本物じゃありませんから、無視して平気です。むしろ振り向かない方が良いです」
「ああ」
体が微動だにしない。
「どこ行くの?」
声が出ない。
「アリゲーリ、アリゲーリ!」
「ねえ、隆志」
「隆志さま!」
ずっと前の方から声がした。聞き覚えのある声だ。
「む、阿婆擦れ」
「行くぞ、エーリアル」
「うい」
俺は真っ暗闇の洞窟を抜けた。
目を開けると、俺の部屋の床だった。顔に床がへばりついている。脇腹が痛む。体が重い。
「隆志さま! 隆志さま!」
俺の肩に手が触れている。声はミランダのもの。段々と状況が分かってきた。
「アリゲーリ、起きてください、ほら」
脇腹の辺りを踏まれる。
「エーリアル、お前、蹴りやがったな」
俺は起き上がった。体がだるい。ちっさいG第五形態みたいな姿のヴェルギリが近寄って来た。触手を伸ばして、恐る恐る俺の手に触れる。撫でてやると、「ピキー」と鳴いて喜んだ。
何気なくミランダを見る。ぎょっとした。
「ミランダ、片目が――」
抱き付かれて、言葉を続け損ねた。
「……心配かけたか?」
ミランダは頷いた。
「すまなかった」
今度は首を振った。
「私が悪いんです。私が原因です」
「そんなことはない」




