4-6.悪魔はなにで生きるか
ヴェルギリの血管みたいなあれは引っ込んで、今は俺の鳩尾あたりに眼球が突き出ているだけだ。肌も元に戻っている。
「昔はこうして、よく一緒に入ったなあ」
体に湯を掛けていく。石畳が濡れて色を暗くする。
郷愁、懐かしさ、ほんの少しの後悔、でもこれで良かったんだという納得。色々な思いが浮かんで、体に掛けた湯と流れていく。
風呂は良い。今ならなんでも許せる気がする。
「でも昔は、こんな風に一人でゆっくり風呂なんて、出来なかったな。いつも誰かがやってくるんだ」
「お背をお流し致します」
「そう、こんな風に言ってな」
背後でミラーレの気配がする。ちょっと動揺したが、なんということはない。手早く布を腰に巻いた。
「ああ、頼む」
人間になってからは一度もこんなことなかったが、悪魔の頃にはよくあったのだ。今さら驚いたりはしない。それに後ろを見なければそれで済むことだ。
「失礼します」
やにわに柔い感触が背中を撫でた。薄い布越しの感触。そして弾みの良い白い腕が俺の腕を擦り、俺の前にあったガラス瓶を掴んだ。俺の体温とは隔絶されたように冷えた体。掴んで、揉みしだきたくなるような柔らかさ。おまけに、なにやら温い蛇が這うような、艶めかしい吐息が首筋に掛かった。
ミラーレは腕を引っ込めた。ミラーレが掴んだ瓶の中身は香油だ。魔界に石鹸というのはない。砂混じりの香油を体に塗りたくり、そのうえで擦るなりして汚れを落とす。
そんなわけで、ミラーレは俺の背中に香油を塗り広げた。その手付きは愛撫のようで、ときに優しく、ときにくすぐったく、疲れが抜けていくようだった。
だが、その安らぎは長く続かなかった。さりげなく密着せられるミラーレの肉体。折々に体の前面へと回る手はくすぐるように皮膚を刺激した。単に体が当たっているだけというには、あまりに官能を揺さぶった。安らぐどころか、この体の火照りは俺のものかミラーレのものか。
「あの、ミラーレ?」
「なんでしょう」
媚びをふんだんに混ぜ込んだような声音。さっきと様子が全く違う。
「だ、大丈夫か」
「もし大丈夫ではないとしたら……隆志さまはどうなさいますか?」
ミラーレがぴっとりと俺の背中から抱き付いた。俺の心臓が跳ね上がった。肌が重なっているだけでなんかもう喜ばしい。良い匂いがしてきた。花のような匂いだ。いや、花というには些か獣じみている。嗅ぎたくなる匂い。心の源泉を沸々とさせるような匂い。
「あ、あの、ミラーレ、そういうのは、ちょっと……」
「お嫌ですか?」
「嫌というか、その、良くないというか、良いんだけど、まずいというか、そのですね……」
「でも、喜んでいらっしゃるようにお見受けしますが」
さっと、俺は前屈みになった。くす、と笑い声が聞こえた。
「しかし申し訳ありません。隆志さまが拒むのでしたら、そのように致すつもりでしたが、無理です」
悪魔の膂力で、ミラーレは俺の体を反転させ押し倒した。体に張り付いて透けていた薄い布を払い除けるようにして脱いだ。暗い瞳で俺を見下ろす笑みは酷薄ですらあった。美味そうなものを見たときに舌なめずりする癖はミランダと似ていた。俺は下からミラーレの媚態を見上げる格好になって、ああ腰広めなんだなとか、くびれてるなとか、ミランダと互角以上に実ってるなとか、冷静なつもりで眺めた。
ミラーレは荒い吐息を抑えるように、頬に手を当て自分の小指を噛んだ。白い指に皓歯が立つ。犬歯は人間のものより鋭かった。
「申し訳ありません。こんなに美味しそうなものを見るのは初めてで、ましてや、それに体を擦り付けてしまって、匂いを嗅いで……」
ごくり、とミラーレが生唾を飲み込んだ。
「この姉にしてこの妹ありか……!」
ふと、ミラーレの表情に変化が見られた。微かな動揺が瞳に走った。そして俺は悟る。俺の助かる道はここだ。俺の荒ぶる両手が桃を掴む前に、まだこの腰の素敵な出っ張りで止まっているうちに、ミラーレの理性を取り戻さなければならない!
「ミランダもどうやら俺の魂やら人間の肉体やらに当てられたらしくてな、今みたいに迫ってきたんだ」
「ミランダは、したのですか?」
「いやまさか。ミランダの本心じゃないと分かっていたからな」
「そうですか、やはり、あの子は……」
急速に理性の光を取り戻していくミラーレ。姉妹愛の力は大したもんだ。
「ミランダのことでなにかあるのか?」
「……隆志さまに申し上げるようなことではありませんが」
「教えてくれ。俺もミランダのことは、その、なんだろう……心配なんだ」
「隆志さまにまで心配を掛けさせてしまうとは、やはりあの子は愚妹ですね」
そう言って儚く微笑んだミラーレの顔には、湛えるような悲しみと溢れるような愛情があった。
「わかりました。お話し致します。決して面白い話ではありませんが、ご容赦ください」
「ああ、頼む」
「ところで、その、隆志さまがお望みでしたら、このまま続けますが……」
「いや、これは後で……じゃない。これはいいから、話だけしてくれ」
「畏まりました。その、それと、この体勢のまま話をするのでしょうか?」
「体勢?」
気付けば、俺を見下ろしていたミラーレは怯えたように丸くなって俺を見上げている。ミラーレに押し倒されていた俺はどういうわけか、ミラーレの肩の辺りに手を付いて、要するに押し倒した格好になっていた。馬鹿な。これはいったいどういうわけだ。まさか新手の悪魔かッ!?
「風呂出るわ」
「そうですか」
体を流して、俺は風呂を出、そしてベッドに腰掛けた。後から出てきたミラーレには、隣に座るよう促し、ミラーレはそのようにした。
少し濡れて艶を増した髪と、ほのかに漂う芳香ですぐに後悔した。
ミラーレが口を開いた。空気が変わった。俺の心構えが変わったのかもしれない。ミラーレの横顔はどうしても悲しくて、そして懐かしむような遠い目だった。
「私たち姉妹は、第三魔界の片隅に生まれました。高位悪魔として生まれましたが、生まれたばかりの私たちの姿は幼くて、力も見た目通りで、他の悪魔にとって、恰好の餌食でした。死ぬか生きるかの毎日で、逃げて、逃げて逃げて、とにかく逃げ続けた日々でした。そのうち、妹の一人が行方不明になりました」
「何人姉妹で生まれたんだ?」
「三人です。私が長女で、次女のミラージュ、三女のミランダ。そういう存在として生まれました」
悪魔の容姿や能力、知能に性格、それらは生まれた瞬間にほぼ全て決まっている。生まれたときから老婆の姿で、老獪な知恵すら身に付けているなんていうことだってある。中には今ミラーレが話したように、生まれて間もなくは幼い姿でいることもある。だがそれも一時的だ。悪魔は人間とは比べ物にならない速度で成長できる。ある条件を満たせば――。
「それからの私は残った妹を、ミランダだけでも守ろうとして、手当たり次第に精気を吸収して回りました。力では敵わなかったから……」
淀んだミラーレの眼が、その底知れない苦悩を暗示していた。俺には同情することすらできず、憐れむのも躊躇われ、落ち着きなく手をもじもじさせた。
「でもお陰で、妹を守れるくらいの力は手に入りました。そのうちに万魔殿に辿り着き、侍女としてここで住まわせてもらえることになりました。ただ……」
「ただ?」
「私のやり方は、ほとんどの高位悪魔にとって、高位悪魔に非ざる下劣な行いでした。私にしても、それは否めません」
「だけどそれはミランダを守るためにやったことだ。誹られる言われはない」
「優しいのですね」
どうしようもないものを見る目で、ミラーレは俺を見た。どうして、そんな目をする? きっとそれが分からないから、そんな目をされるのだろう。
「私にとって軽蔑されることは仕方のないことでした。諦めもつきます。ですが、ミランダは、ミランダは侮蔑されるような子じゃありません……! 私の所為で、ミランダまで低い扱いを受けてしまいました。始めは受ける扱いの意味も分からなかったミランダでしたが、そのうちに私の恥ずべき行いのことを全て知ってしまいました。私の知らないところで、ミランダも苛められていたかもしれません。ミランダは怒り、私と私の行いを軽蔑しました」
ミラーレの表情に、懇願の色が見えた。命乞いに見える。自分の命ではなく、他人の命を救って欲しいときの懇願。誰かを助けて欲しいときの顔。なぜ彼があるいは彼女が死なねばならないという義憤と悲痛に満ちた顔。神に異を唱える者の顔。神に逆らう者の顔。
「ミランダは淫魔の性質を色濃く持っています。それはつまり、ミランダにとっては精気が命の糧ということです。血肉よりも精気が力の源です。ですがミランダは、私の行いを軽蔑して、一切、精気を吸おうとはしませんでした。それでは悪魔としての力が上がりません。人で言うと、栄養失調のようなものでしょう。ミランダはそんな状態なのです」
その台詞とこの表情がなにを意味するか、察しない俺ではなかったが。
「……ミランダには、ミランダの考えがある」
「ですが――!」
「ミランダはお前を軽蔑してはいない」
「え?」
「二度ほど、ミランダが姉さんと言うのを聞いた。一度目は、その……瀕死のとき。二度目は、ええと、ちょっと喧嘩してな。そのとき、お前に迷惑を掛けたくないという旨の発言をしていた。それにお前のことを嘲弄されて憤っている姿も見た。ミランダはお前のことを尊敬しているよ」
息を詰まらせたようにミラーレは黙った。それからして、流れた涙を恥ずかしそうに拭った。
「嘘でも、嬉しいです」
「嘘じゃない」




