垢玉 「後編」
最初に感じたのは、リサさんの指先だった。
細く、しかし力強い指先だった。この指先はきっと何人もの男女の垢玉を取ってきた経験があるのだ、と素人の僕でもすぐに分かった。
背中を揉みほぐすようにリサさんの指先は動いている。ちょっと、くすぐったい。心地の良い刺激が、背中を伝わる。
「そんなに大きくないよ」とリサさんは言った。彼の垢なら、君でも十分取れる。大丈夫、私が見ているから。彼女は藍ちゃんにそんな言葉を投げかけている。
後ろで、リサさんと藍ちゃんが交代する気配を感じた。もう始めていいんですか? という藍ちゃんの声が聞こえる。
僕の背中に、藍ちゃんの指が触れる。恐ろしく華奢で儚い指先。呼吸による僕の背中の、緩やかな上下の動きは、藍ちゃんの指先に伝わっているかもしれない。
少し間があって、背中にひんやりとした感触が広がった。クリームだ。垢を浮かび上がらせるための重要なクリームだ。こんな感じですか? いいよ、その調子。という彼女たちの真剣な声を僕は聞いた。
できるだけジッとして、身体の震えを抑えようとする。ソファーが体温でだんだんと温かくなってきた。みぞおちに汗が滴る感覚を覚えた。しかし、僕は動かない。動かず彼女の指先の振動を背中に感じている。
塗り広げました。あとは待つだけでしょうか? そうね、これからが本番。
僕の閉じた瞳の端に散らばっていた太陽の光子が、消えた。どうやら日は傾き始めたようである。リサさんは僕の背中にライトを当てたようだ。途端に瞼が濃いオレンジ色に染まる。「ちょっとまってね、お香が切れたみたい。今度はアロマ炊く」
部屋の匂いが一瞬で変わった。
甘く柔らかい匂いだった。ライトは白熱電球だろうか、凄く背中が熱い気がする。瞼は、まだ濃いオレンジ色の光で包まれている。垢が染み出して来るのを待つ間、もっと陽は低くなる。部屋の中の雰囲気はより暗く、艶やかに変貌した。おそらく十分も待っていないが、とても長い時間だった。
ヘラの感触があった。藍ちゃんが僕の背中に浮き上がった垢を掬い始めたのだ。
ガリっ、ガリっ、という音は非常にグロテスクな音だった。音からでも分かる。垢は醜悪な見た目をしている。おぞましい程、禍々しく、汚らしい。
藍ちゃんは、僕の垢を平気な顔で眺めているのだろうか。いや、きっと真剣な表情をしながら垢を集める作業を繰り返している。
それでも僕の醜悪さを、醜悪さとして捉えて嫌悪することなど、まるで無く、ただ黙々と作業をこなしている。
ガリッ、ガリっ、という音の中に、信じられない程の快楽がある。垢を掬い出されている間、僕の背中は、いつ跳ね上がってしまうのだろうと恐れていた。
ねぇ。ちょっといい? 同じところばかりやると、彼の肌に負担がかかる。こうして、一回でできるだけ多くの垢をかき集めるの。
ヘラが藍ちゃんの手からリサさんへと受け渡されたようである。再び、ガリっ、という音と一緒に、背中にヘラの感触があった。
それは今までの優しい手つきではなく、僕の心の中の醜悪さ全てを、殆どえぐり出されるような壮絶な感触だった。あまりの心地よさに全身の鳥肌が立つのが分かった。腫れ物を潰したとき、一瞬で膿が外に飛び出すような、あの感触に似ていた。
すごい、こんなに。
藍ちゃんの驚く声が聞こえる。相当な量の垢が取れたようである。もう一度、背中に感覚がある。僕の背中の表面の、醜い塊がごっそりと、根こそぎ剥がされた感覚が体中に伝わってきた。リサさんの施術は凄かった。油断すれば軽い悲鳴を上げてしまいそうになる程、心地よいものだった。
そしてそのヘラは藍ちゃんへ戻される。彼女の手つきは非常に優しかったが未熟だった。僕の背中の表面の垢しか、こそぎ取っていない。もっと奥に、もっと内側に、本当に醜悪な垢が存在する。その垢をえぐり取ってくれてこそ、真に凄みのある垢玉と成り得るのだ。
数回の繰り返しにより、僕の垢は殆ど失われている。その確信があった。藍ちゃんの集中している息遣いが背中に聞こえる。
「終わり」
リサさんが言う。時間は体感でいうと三十分くらいだった。僕は、ゆっくり起き上がると、リサさんは僕の目の前にペンダントを差し出した。
「おめでとう、これが君の垢玉ね」
僕の垢玉は醜悪だった。残酷なまでに醜い表情をしている。色はリサさんに似ている、紅に近い赤い色をしている。のぞき穴は後ろについていて、開くと中が見える。チェーンは霞んだ銀色をしていた。
「……ありがとう、ございます」
僕は、自分の垢の禍々しさ眺めているうちに鳥肌が立つのを感じた。あんな恐ろしい物体をリサさんは持っている。
僕のキタナラシイ垢玉を、リサさんはその美しい指先で咥えている。
「頑張ったね」
リサさんは、藍ちゃんに声を掛けている。
「ちょっと自信に繋がりました。ありがとうございます」
彼女ははしゃいでいる。僕の醜悪な垢を掻き出して、喜んでいる。マムシがとぐろを巻くように、僕の垢玉も、黒く濁って、渦を巻いている。千切れたミミズの最期の足掻きの仕草のように、苦しそうな表情をしている。
思考を抉るような得体の知れない拒絶感が僕を包んだが、それは彼女たちの前では殆ど快楽となってしまった。
今日はこれで終わり、とリサさんが言う。窓の外は紺碧に近い色をしていた。僕は全身にじっとりと汗をかいていたので、それに気が付いたリサさんは僕にタオルを渡してくれた。香水の匂いがした。
「ありがとうごさいます」
「どういたしまして」
脈拍は早かった。僕は服を着て、立ち上がる。
垢玉を首にぶら下げて、藍ちゃんと一緒に夜の歌舞伎町を足早に歩いた。
「しばらくはリサさんの元で修行を行おうと思うの。まだ、私は垢玉の掘り師として未熟だから」
彼女は生き生きとした表情だった。僕は数メートル歩く度に、首にぶら下げてある垢玉を眺めない訳にはいかなかった。
僕は自分の垢玉の魅力に取りつかれてしまった。自分の背中から取れた醜悪な塊を一目でも見ると、僕はハンマーで殴りつけられたかのような衝撃を受けたし、藍ちゃんも僕の垢玉に興味があるようだった。
それにしても、あんまりにも垢玉を眺めすぎて、前方不注意とならないように、気をつけながら僕たちは新宿の街を歩いた。駅まで行って、僕たちは別れる。藍ちゃんの女神のように綺麗な顔が、僕に微笑んでくれる。
僕はそれから、しばらくの間、垢玉のペンダントを首から外すことはしなくなった。
自分の垢の禍々しさは、日に日に増しているような気もするし、僕が首から下げていないと、だんだんと醜悪さが失われていくような気がする。またその感覚は実際のものではなくて、あくまでも自分の中の感覚、主観として確かにあった。
企業との面接のときは、さすがに外した。けれども家に帰ったらすぐ付けた。僕の心の中には、ピアスの穴のように垢玉の穴がぽっかりと開いてしまっていた。
それは垢玉を付けていないと、すぐに塞がってしまうような儚い穴だった。塞がってしまったらどうしよう。という不安感が僕を襲うたびに、必死で垢玉を握りしめた。心の穴はその都度、大きく巨大なものに変貌していた。
どちらが先に言い出したかというのは、もう覚えていないが、僕は藍ちゃんと交際を始めていた。彼女は実際、女性としても魅力のある人だった。でも彼女は垢玉を首から下げて生活はしていない。
藍ちゃんとはよく二人で静かな公園に行った。ベンチに座って、飲み物を飲むというのが、僕にとって至福の時間だった。彼女がどう思っているのか分からないが、安らいでいるような表情をしているので、おそらく嫌ではないはずだ。
彼女は、自分が掘り師としてどの程度、適性があるかリサさんに見てもらった話しをした。垢玉の掘り師になることを固く決意しているようだった。
一方の僕はというと、垢玉の掘り師になる気は全く無かった。彼女の垢玉をごくまれに眺めて、そして自分の垢玉を眺めて、街を行きかう人々の首から下を眺めて、垢玉がぶら下がっていないか確認する。垢玉は僕の生活の一部になっていた。
醜悪さに胸を突かれて、僕は垢玉のとりこになった。垢玉は、悪魔の眼球のようだった。いつでも僕のことを見ているし、僕はヤツを見ている。
「最近、瀬戸くん、素っ気なくなったよね」
と藍ちゃんに言われた。僕は、そんなことはない。と否定する。しかし、僕には思い当たる節があった。僕は彼女のことよりも、今は垢玉に興味がある。僕の思いを、彼女は見透かしているのだと思った。
藍ちゃんの家の近くの公園のベンチで、僕らは二人で飲み物を飲みながら話し合っている。夏が近いので、太陽の光は眩しく、やや暑い。
シャツに汗を感じる。花壇に咲いている花々は、若干萎れている。入道雲と一緒にひんやりと冷たい風が吹いている。砂場から煙が立つ。
目の前を、ハエが一瞬横切って視界の端に流れる。空が重みのある雲に覆われて行き悲しそうな灰色に変色を始めた。
「もうすぐ夕立が来るから、長居はできないな」
「私の家に来てよ」
静けさが公園を包み込んで離さない。
僕たちが歩いているアスファルトの道は、湿気を含んでいつもより重く黒くなっている気がする。彼女の横顔の輪郭は、画家によって描かれた有名な作品のように美しく、鮮明だった。
あれ、どうして、どうして君は垢玉を首から下げていないんだい。君は、君の醜悪さを外部に露呈しようとは思わないのかい。君は、君の身体から生まれた気色悪さを、自分の身に纏うことはしないのかい。なぜ、そんなにも垢を隠すの。垢は、凄まじく酷いが。垢は、君の肉体の一部でもあるのに。
声には出さなかった。ただ、心の中で何度も呟いた言葉は、ただ僕の胸に突き刺さって、悲しい程、僕の胸を空っぽにした。
今日は大事な話があるの。すぐ終わるんだ。でもね、悪い話じゃないのよ。別れるとかそういう重い話じゃなくて、もっと深いの。ねえ、瀬戸くんは人間の中身を覗いたことってある? ねぇ、人間の体内って神秘的じゃない? 私ね、夢を見るの。夜寝ている時に見る夢だよ。そこではね、私は広い海の真ん中に一人でボートに乗っていて、ゆっくりと波に流されているのよ。夜が来て、朝が来て、そしてまた夜がきて、でも必ず夜は明けるの。その明け方の空を見るとね、大きな内臓が浮かんでいるの。心臓とか肝臓とか、腎臓とか、腸とか、ごちゃ混ぜになったグロい塊が、ぽっかりと空に浮かんでいるんだよ。いやだ、気持ち悪いって私が叫ぶと、海から声が聞こえてくるの。
これはアナタの身体の内側に存在する大切な器官の一部なのです!
小さな雨粒が僕たちを打つ頃、彼女の家は目の前に見えてきて、僕は逃げ切ったと思った。
藍ちゃんの後ろ姿は、綺麗だけれど、何となく、ショーウインドーに展示されたマネキン人形に似ている。
雰囲気に生き様が感じられなかった。彼女の顔立ちは美しいから、どちらかというとマネキンというより、球体関節人形かもしれない。
恐ろしく造形された人形。執念で美を表現したような、何者かに作られた魂の入れ物。
彼女の家に入り、三階に上がってふと窓を眺めると外は土砂降りになっていた。
スコールだ。あの雲の中で何かが暴れているんだ。庭が波打っている。白い煙が立ち込めている。空はあまりにも濁っていて、しかしその一部には、しっかりと夕日が反射して黄金に輝いている。
きっとあの積乱雲の中には何匹もの龍がいる。僕はあの龍に食い殺されないように、ジッと身を潜めていなくてはならない。
僕は僕自身の垢玉をギュっと握りしめ、祈り、龍が過ぎ去ってくれるのを待つしかないのだ。
ねぇ、どうしてそんなに垢玉に執着するの?
気が付くと僕は本当に垢玉を握り締めていたようだ。手の平は、余程きつく握っていたためか爪が食い込んで内出血を起こしている。
紫色の三日月みたいに、くっきりと。痛みが血管に沿って流れて腕全体に広がっていく。熱を帯びたその痛みは、割れたガラスの破片のように繊細だった。
「ねぇ、そんなに汚いの?」
「違うんだよ、これは、違うんだよ。僕は、もう分からなくなったんだよ。君の垢玉は美しいけれど、僕の垢玉がどれくらい醜悪で、どれくらい綺麗なのか、その指標がぜんぜん分からないんだ」
「私は、君の垢玉……好き」
「偏見だよ。君は、僕と一緒の時間を過ごしてきたから、バイアスが掛かってそう見えるだけなんだよ」
「ねえ、だったらどうしてアナタは私の垢玉……美しいって表現してくれたの?」
「事実を言ったまでさ。美しいから美しい、それ以上に何があるんだよ」
「うそ、アナタは私の垢の汚さを見て、汚いって言わなかった」
「分からないんだ。もう、何もかも分からなくなったんだ」
目の前を、コオロギの大群が動き回るような感覚だった。頭がくらくらとする。
藍ちゃんは、僕を見透かしているんだ。僕の垢玉が全国的にどの程度の醜悪さに位置してあるのか、その指標をきっと知っているのだ。知っていて、僕にそれを気づかせようと、わざと言葉を濁して伝えようとしている。
「私も分からないの」
彼女はうつむきながら、深刻そうな表情をしながら、そう言った。
「私だって分からないよ! 最初は、アナタの気を引くためだった! 私が垢玉を作っているって知ったら、大抵の男子は、みんな複雑そうな顔をするじゃない! それで、アナタの気を引いて、特別扱いしてもらおうと思ったの!」
突然、彼女は大きな声を出したので、僕はちょっとびっくりした。僕の首から下げていた垢玉が少し振動しているように感じる。しばらくして、それは僕の手の震えであることに気が付いた。
外の騒がしさは、もうすっかり止んでいて、明るさが戻る。彼女は立ち上がり、窓を開け放った。風の匂いがした。
「私ね、垢玉と一つになろうと思うの」
「どういうこと」
藍ちゃんは、引き出しの中から、垢玉を取り出すと、黄金に輝いている空に向かってそれを高く掲げた。
夕日が反射し、醜悪さが浮き彫りになり、悪の結晶がチラチラと煌めいた。
「私ね、この世界の誰もが知らなかったような……誰もが出来なかったような偉業を、これから成し遂げるんだよ?」
とても凄いことなんだよ。と、彼女は言っている。僕たちが、たとえどれだけ壮絶な行為を行ったとしても、それは世間一般に知られることはない。どこまでも閉ざされたこの部屋で、彼女は醜悪さと一体化する。
ガチャン、という音と共に、彼女の掲げていた垢玉のペンダントが弾けた。鎖が床に散らばった。垢玉の命が尽きたのだと思った。
「見ていてね。これから私は、この子と一つになるから」
鈍い音がした。彼女は自分の垢玉にドライバーを突き立てていた。あまりの唐突な行動に、僕は何も反応することはできなかった。
ペンダントが開き、中にある垢玉の真っ黒い塊の蠢きが見えた。彼女のドライバーはなお、垢玉の留め金に突き立っている。
割れたガラスから膿のように垢玉は飛び出し、地面へと流れ出た。黒い塊は、液体のような流動性を見せながら地面へ流れる。
大量の汚物のような垢は、彼女の手に掬い取られた。
本当に一瞬の出来事だった。もう二度と元には戻らない、美しくも醜悪な垢を彼女は拾い上げ、それを口に含んだのだ。彼女の唇から、一筋の垢が血のように流れた。
藍ちゃんは自らの垢玉を口に含み咀嚼している間、ウットリとした表情になっていた。醜悪さを喰らった快感に打ちひしがれているようだった。その恍惚とした表情のまま、彼女の眼球は僕を見た。
口からダラダラと流れていく垢は、どこまでも流動的だった。真っ黒い垢は、彼女の白い服を汚しながら地面に落ちる。
「綺麗だよ」
と、僕は言う。かつて世界には、このように美しい表情をした人間など存在しない。
依然として口から垢を流している藍ちゃんに向かって、僕は再び囁く。
「綺麗だよ」
グチャグチャと生々し音を立てながら垢を咀嚼している。口いっぱいに汚物を頬張りながら彼女は僕に向かって、意見する。
「ねえ、アナタもやるのよ? アナタも綺麗になるの。ねぇ、ここにあるドライバー使ってよ。アナタの胸に掛けてある垢玉を、これで壊して、アナタも食べるの。アナタも自分自身の内側と一体になるのよ」
藍ちゃんの部屋の天井に、たくさんの内臓が張り付いている幻覚が見える。人間の内側の汚らしさが具現化している。心臓や腎臓や、胃や小腸の塊が、とぐろを巻いて空中を浮遊している。
僕はドライバーを手でつかむ。首から下げられた垢玉を取り外し、窓に掲げる。
これはアナタの身体の内側に存在する大切な器官の一部なのです!
幻聴が聞こえる。たくさんのグロテスクな臓器から、声が聞こえた気がした。女神の囁きのような、美しい音色で僕に忠告してくれている。しかし、それが例え女神の囁きだとしても、僕は僕自身の垢を喰らわずにはいられない。
藍ちゃんと約束したのだから、僕は垢を食べなくてはいけない。醜悪さと一体化してこそ、本当に綺麗になれる。内臓が浄化され、罪が滅ぼされ、天上界にいる龍たちは、僕たちの為に祝福の血を流してくれるのだ。
朦朧とする意識の中で、僕は自分自身の垢玉を壊し続けた。
「瀬戸くん……すごく綺麗よ。血みたいに床に広がっているの。とっても綺麗」
藍ちゃんは僕を褒めてくれる。僕の醜悪さを歓迎してくれている。
窓の外には虹か掛かっている。現実の世界でも、僕たちを祝福してくれている。
嵐が過ぎ去った後、外は新鮮な空気で溢れている。一匹のコガネムシが窓から入り込んできて、僕たちの周りを旋回している。
うるさい羽音は独特のリズムを刻みながら僕らを鼓舞してくれているみたいだった。
僕の垢が、彼女の部屋の床を汚らしく染めている。悲しい程、醜い真っ黒な塊は、彼女の垢と同様に、恐ろしい程、流動性を帯びていた。
僕の垢と彼女の垢は、地面で混ざってマムシのとぐろを巻いたような黒は、さらに巨大になる。僕は自分自身の垢を喰らい続ける。恐ろしくまずい味が口全体に広がったが、構わず咀嚼し嚥下する。
「ねぇ、素敵よ」
という藍ちゃんの声が聞こえる。コガネムシは依然として僕たちの周りを旋回し続けている。煩わしい。けれどこれは儀式の一つなのだ。僕らはお互いの内側の醜さを認め、それを咀嚼した。コガネムシは僕たちの内なる世界に入り込んだ……ファンタジーの化け物のように思える。
「食べてもいい?」
身を乗り出し、僕の顔の目の前まで、彼女は迫る。
「食べてもいい? コガネムシ」
「そうだよ。食べるんだよ。全て僕たちの内側にするんだよ。何もかも、僕たちの臓器として生かすんだ。それはとっても素晴らしことなんだ」
彼女は両手を広げた。女神の翼みたいに、綺麗で細い白色の手を広げ、空中を旋回するコガネムシを生きたまま捉える。
彼女の笑顔は、この世のものとは思えない程美しく、恍惚とした表情だった。
凄まじい羽音を立てながらもがいている小さな命を口に含む。その途端に音は止んだ。命が尽きたのと同時に、僕の視界にはより鮮やかに発光している虹の架け橋が映った。
虫を口に含んだ彼女の背景に、黄金の空と虹の架け橋が見える。
これはアナタの身体の内側に存在する大切な器官の一部なのです!
また幻聴が聞こえたみたいだ。僕はオカシクなってしまったのかもしれない。
藍ちゃんの口から、バラバラになったコガネムシの羽が落ちた。
小間切れになったフィルムの断片のように、目の前の光景は僕の網膜を流れる。
「ねぇ、瀬戸くん。私ね、神様の声が聴けるみたい。不思議でしょう? でもね、ほんとなの。ねぇ、アナタも聞こえるでしょ? アナタも、きっと聞こえるはず」
「もちろん聞こえるよ。きっと誰もが聞こえる声なんだ。でもね、みんなそれに気が付かないんだ。みんな忙しすぎて、内側からの声なんて聞こえないんだよ。残念なことに」
「じゃあ、耳を傾けるの。ジッとして、内側の声に従順になるの」
内側の声が聞こえる。恐ろしく、怖い顔をした何かが、僕に囁く。
コガネムシの死体は、アステカ文明の儀式の生贄となった人間のような凄みを帯びていて綺麗だった。
これはアナタの身体の内側に存在する大切な器官の一部なのです!
僕たちはいつまでも、いつまでも、こうして二人の閉じられた世界で、醜悪な内側の声を聞き続けるだろう。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。もし気が向きましたら、感想などをいただけると非常に嬉しいです!




