垢玉 「中編」
二話まで足を運んでくれて光栄です!
「それね、アカンサスっていうの」
ジッと絵を観察していると、彼女が声を掛けてくれた。物静かな声色だったが、玄関を通じて音は廊下に反響し、増幅されて聞こえた。美術館みたいだと思った。
「花言葉は芸術、芸術への愛、美を好む。私が生まれた日に、美しさの象徴としてお父さんが描いたの。これは人生で最初の誕生日プレゼントなんだ」
絵の下のボタンを彼女が押すと、濃いオレンジ色の光が下部から差し込みアカンサスを照らした。
粋な計らいだ。ついでにもう一つ、靴箱の上にあったミニプラネタリウムにも電気が通っていたらしく、天井には星空を見立てた光の点々が広がった。
「すげぇ、夜に見たら綺麗なんだろうね」
「夜まで親は帰ってこないから、それまで居る?」
思いのほか彼女は積極的なんだなぁと思って僕は驚いた。こうまで言われると逆に不安になってきて仕方がない。けど、僕がここに来た目的はただ一つだった。
彼女が作った垢玉を、一目だけでもいいから見てみたい。
当然、彼女とより親密な仲になれるに越したことはないのだが、やはりここまで来たからには垢玉を見物するしかない。電車に乗ったあたりから、僕は彼女の垢玉の存在を一度たりとも頭から離してはいない。そればかりか、より垢玉に対する期待感が膨らんでいた。
垢玉はそれくらい神秘的である。彼女の垢玉だからこそ、その神聖さにはより拍車がかかるのかも知れないし、垢玉を作った異性だからこそ、僕はより藍ちゃんを魅力的だと思うのかも知れない。
天井に浮かんだ無数の光の点々を眺めながら、僕は呟く。
「ここは、落ち着く家だね」
「広いだけよ」
と彼女はほほ笑んだ。靴を脱ぎ、廊下を渡る。砂刷りの壁を初めて見た。砂の一粒は意外と大きく、黄色い。もろく、所々に擦れて削られた跡があった。
長い廊下を僕たちは無言で渡る。洗面所の近くを通ると石鹸の匂いがしたし、和室の近くを取るとビャクダンのお香の匂いがした。深く、心地よい香り。
その香りの中に、確かに存在する垢玉の気配を僕は感じる。垢玉が近くにある。そう僕は確信したのだ。
「私の部屋は三階にあるの、階段、気を付けてね」
と彼女は言った。階段の一段一段の角に滑り止めが付いていた。
窓から差し込む日の光が雲に隠れると、辺りはちょっと薄暗くなり、足元の滑り止めが淡い緑色に光っていることに気が付いた。昼に光を吸収し、夜の暗闇の中で足元を照らすようだ。
階段をやっと上り終えると、そこは木の匂いでいっぱいだった。家の中に、森が広がっているかのような錯覚さえ覚えた。
階段を登り切ってすぐ目の前の扉の前で、彼女は立ち止った。ここが君の部屋なのか、と僕は思う。鼓動はより強いリズムを刻み始め、いよいよ垢玉の気配が強くなり、神秘と芸術の匂いがした。
彼女はドアを開ける、そのまま走って部屋の中まで入り、ベッドの横の棚の引き出しから、あるものを取り出した。ゆっくり、ゆっくり藍ちゃんは僕に近づいて、垢玉のペンダントを僕に差し出した。
時が止まったように感じた。外観はかなり凄かった。深い群青を基調とする色の中に、金色の装飾、金色の鎖、そして真ん中の垢玉。
その中心にある垢玉の存在だけが異様な光沢を見せていて、この世の物質ではないかのような表情をしていた。
「中が開けるようになっているの。開いて、明るい所に向けて、裏側ののぞき穴から見て。垢そのものが見えるよ」
金色の装飾の横側に、小さな突起がある。押すと、ペンダントは開いた。生々しい垢玉が見えた。
裏返し、のぞき穴に僕は目を近づける。窓の外の光を通し、僕はジッと眺める。見えたのは、垢だった。
背筋が凍り付くように、おぞましい程、美しかった。垢は、まるで何光年も離れた遠くの星の大気のように渦巻いている。垢は波打ち、うごめいている。生き物の反射のように、千切れたミミズの足掻きのように、垢はうねりを生じている。
「いいでしょう」
藍ちゃんは僕にそっと顔を近づけた。肌と肌が触れそうになる程、近かった。彼女の吐息が首筋に掛かる。呼吸が速くなる。美しさと興奮で手足が痺れるような感覚を得る。足の震えを抑えながら、垢玉の魅力に翻弄され、打ちのめされた。
光を受け淡く輝いている、どす黒い垢は、この世界の終焉のようだった。人間の垢はこんなにも醜悪で、おぞましく、そして悪魔的な魅力がある。
言葉を失った。
垢玉の表情は自然と網膜に焼き付いていた。今後、僕がいつどこにいて、何をしていようと、この垢の真っ黒いうねりのような姿は、決して忘れることができない。
垢の表情を見ている間、僕の魂は別の世界にあった。この場所が藍ちゃんの部屋の中で、目の前には藍ちゃんがいることなど忘れていたような気がした。
ふと気づいたとき、僕は確かな疲労感を覚えていた。少し汗ばんでいる。身体の力が抜け、筋肉が緩んだような感覚、そんな気がしていた。
「凄かった」と、僕は言う。彼女は、それは良かったね。見てくれてありがとうね、と言う。僕は、このように、最高に美しくグロテスクな物体を見せてくれた藍ちゃんに感謝を伝えた。彼女は喜んでいた。だんだんと日が落ちていく、夕日が濃く赤くなり、部屋の中は暗くなる。
僕もそのうち、作るよ、垢玉。と彼女に伝えた。近いうちに実際に垢玉を作りに行こうと思ったのだ。しかしその直後、彼女から思わぬ一言を告げられた。
「……私、垢玉の掘り師になりたいの」
薄暗い部屋の中で、彼女が放った一言は、僕の心を躍らせた。垢玉の掘り師というのは、入れ墨とは違って医師免許が必要なものではないが、代わりに掘り師たる才能が必要なのだ。
人間の垢というのは、集中力がないと、見えるものではない。それにどの掘り師も男性が多く、まだ女性の割合は少ない。掘り師の人数も社会的に見れば少ない。
修行も必要だ。その境遇の中に、彼女は自ら身を置きたいというのは余程、垢玉の存在に魅力を感じているからに他ならない。
「素晴らしい意気込みだと思う。応援しているよ」
僕は力強くそう言ってから、ほほ笑んだ。しかし彼女は、まだ何か言いたそうである。
「瀬戸くん、私が垢玉の掘り師になったら、アナタが最初のお客さんになってね」
心が温かくなった。藍ちゃんのように美しい人にそう言われると、照れくさい。僕が垢玉を作るのは、とうぶん先のことのようだ。
と思った。彼女が立派な垢玉の掘り師になったら、きっと僕は自分のことのように喜ぶだろう。いや、僕は今この瞬間から、彼女と一緒に垢玉の掘り師になる道を選んでも良いのかもしれない。
もう陽は沈んだ。僕らは部屋の電気をつけないまま、二人で向かい合ってジッとしている。
そうして、垢玉の奇跡を噛み締めている。垢玉の掘り師を自分も目指そうと思う。と彼女に伝えた。彼女は喜んでいた。暗くてよく顔が見えない。しかしこっちのほうが、何となく雰囲気があって楽しい。
垢玉を見物し終えると、僕らは再び階段を下りて一階に戻る。そろそろ両親が帰ってきそうなんだ。と彼女は言った。その前に玄関の絵、また見ていい? と僕が聞くと、彼女は喜んで、絵をライトアップしてくれた。
天井には満点の光の粒がちりばめられていた。しかし、垢玉ほどの美しさは無かった。垢玉で目が肥えてしまったんだ。と僕は内心思ったが、藍ちゃんも同じようなことを言っていた。
「垢玉を見ると、世界の本質が見えてくるような気がするんだ」
と、藍ちゃんは言った。おそらくその言葉は正しい。垢玉は人間の垢の結晶である。そして世界は人間の垢でまみれている。
垢玉を覗き見るというのは、人間の本質を覗き見るということである。残酷であり、醜悪であり、そして神秘そのものだった。
次の日は学校が休みだったので、藍ちゃんと学内で出会うということは無かった。その代わりに、僕は一人で新宿の街を歩いた。
何も考えること無く、頭を空にしてひらすら歩く。人々の声も、鳥の声も、街の雑音も、僕は全く聞こえませんよ、という雰囲気を醸し出しながら、ただ無心に歩く。それが溜まらなく心地よいものだったので、昔からの日課である。
適当なコンビニに入って、お菓子を買って、食べながら歩く。次は自動販売機で缶コーヒーを買って飲みながら歩く。これが僕のオリジナルのストレス解消法だったので、一週間に一度は、必ず都会の街を歩く。
けれども今日は、いつもとは違ったイベントが起きた。藍ちゃんから電話があったのだ。
本当に何の前触れもなく、事前のアポもなく、直接掛かってきたので、僕は少しばかり緊張した。すぐに取る。
もしもし、と明るい声で答える。僕はいつでも君からの電話を取れる準備が万端ですよ、といった声色をしながら、僕は内心、ドキドキしながら彼女の声を待つ。
「…………瀬戸くん、昨日はありがとうね」
「…………こちらこそ」
「…………いま時間大丈夫?」
「もちろん。今日は予定が無いから、五時間でも六時間でも、僕の時間は大丈夫さ」
ちょっと気取った言い方だったかも知れない。僕はできる限り彼女とお喋りをしていたかったので、少し前のめりに答えた。彼女は、良かった。と言った。
「昨日、アナタが帰った後に思い出したの。私の知り合いの知り合いが、垢玉の掘り師さんなんだ。ダメ元で聞いてみたら、ちょうと今日、その人予定が空いているんだって」
なるほど、じゃあこれから自分には、その垢玉の掘り師さんの元へ向かってほしい。と彼女は言っているのだ。ことによったら今日、垢を掘ってくれるのかも知れない。唐突なサプライズだ。
「行ってもいいの? 僕もその人の所へ」
「うん。来て」
電話越しからでも分かるが、彼女は緊張していた。理由は分からない。物事があまりにもスピーディーに進んだから、僕は彼女に嵌められているのかも知れない、と思った。
しかし彼女には僕を嵌める理由がないので、おそらく本当に、いま垢玉の掘り師が彼女の近くにいるのだろう。そうして、僕を待っている。
言われた場所まで移動するのに、そんなに時間は掛からなかった。指定された建物は、新宿三丁目の白いビルだった。
駐車場が近くにあり、タバコの煙の臭いがどこからともなくやって来た。着いたら連絡してね、と言われていたので、電話を掛けるとすぐに彼女が出た。藍ちゃんは、今から向かう。と言って切る。まもなく彼女は僕の目の前に現れた。
「ごめんね、あせらせて」と彼女は言う。僕は、全く問題ない。と伝える。
彼女は昨日見せてくれた垢玉を首から下げていた。
恐ろしい程美しく、そして醜悪な垢玉のペンダントは、そこだけ時空が歪んだように異質な雰囲気を持っていた。
突然の出来事だったので、これからどのようなことが起きるのか全く想像が付かない。
その僕の表情を読み取ったのか、エレベーターの中で彼女は説明してくれた。
「リサさんっていう女の人なんだけど、私が垢玉の掘り師をやってみたいって言ったら、じゃあ教えてあげるって言ってくれてさ、モニターになってくれそうな人は、アナタしかいないから、ちょっと急だけど呼んじゃった」
「ちょっとまって、じゃあ、僕の垢を掘ってくれるのは、そのリサさんって人じゃなくて、もしかして」
「そうそう。リサさんの指導で、私がアナタの垢玉を掘ってあげるの。もしかして嫌だった?」
彼女は少し心配そうな表情を浮かべていた。僕は、そんなこと無いよ。と否定する。君が垢を掘ってくれるのなら本望だよ。とも言った。
エレベーターが七階に到着して僕たちが下りると、すぐに濃いお香の匂いがした。独特な匂いだった。
「この匂い、多分リサさん」と彼女は言った。かなり強い、けれどもあまり気にならない香りだった。部屋の中に入ったら、より濃く香るんだろうなぁ、と僕は思う。
静かなマンションの廊下を二人で歩いて、彼女は奥の部屋で立ち止まる。
「さっきまでは、ここで話を聞いていたの。垢玉を掘り出す手順とか、いろいろ教わった。私はまだ素人だから、垢玉の掘り師になれるレベルじゃないけど。それでも大丈夫?」
「お金は、掛からない?」
確認のために一応は聞いてみたが、僕はもう施術を受けるつもりでいた。僕にとって一番の心配は、垢玉の大きさである。万が一、巨大なやつが取れてしまったら、まずいことになる。そういう事態は避けたいものだったが、掘り師が彼女で、僕はモニターで、金銭的な心配が必要ないというのは好都合であった。
「もちろん、お金なんか取らないよ。むしろ、素人の私が勝手に施術をして、申し訳なく思うくらいよ」
そう言いながらも、彼女はやはり、興奮ぎみだった。
垢玉は神秘の結晶である。
そうして、あまり世間からポジティブなイメージが持たれていない。垢玉は、入れ墨のようなものである。一度、垢玉を抽出してしまったら、もう身体からは二度と垢玉を取り出すことはできない。そうした、ある種のタブーのような行為に、一歩踏み出す期待と不安の象徴として、目の前の、扉があった。
「鳴らすね」と言い、彼女はチャイムを押す、中からは、非常に綺麗な女の人が出てきた。たぶん歳は僕たちと近い。左耳に木製の比較的大きなイヤリングをしている。おそらくこの人がリサさんである。
「おつかれー」リサさんは藍ちゃんを見ると、すぐ気さくに挨拶をした。顔の輪郭がとてもシャープで、目つきは優しかったが、その瞳の奥にはどことなく猛禽類を思い起こさせる力強さもあった。
「よく来てくれたね」
リサさんは、僕の目を見てそう言った。すぐに気が付いたが、彼女は人の目を直視しながら話ができる人のようだった。目を見て話をするのは確かに大切なことではあるが、僕はリサさんほど、それができる人に今までの人生で会ったことがない。
リサさんの細い首に、垢玉のペンダントが掛けられている。それは比較的長い黄金のチェーンで取り付けられており、白色のノースリーブのちょうど胸元のあたりに垢玉の本体がある。
色は赤かった。血のように赤く、深い黒で模様がデザインされてある。その垢玉の雰囲気はあまりにも惨たらしく、のぞき穴が表側にあり、セロファンを透かしたような赤色をしていた。日が差し込み、中身の垢玉が一瞬見えてしまった。
見えてはいけないものを見てしまったと思って、僕は目を逸らした。
訳もなく心臓の鼓動が速くなって収まらなかった。リサさんが首から下げている垢玉には、危険な魅力があった。
リサさんの垢は惨たらしく、とぐろを巻くマムシのように禍々しく、そしてどこまでも深い業のような表情をしていた。
リサさん本人が、非常に綺麗な人だったので、その美しさとのコントラストは異彩を放ち、一瞬自分が何を見ているのか分からなくなるくらい強いオーラを感じる。
世間が垢玉に対してネガティブなイメージを持つことの理由が分かった気がした。
「上がって」
軽快な口調だったが、大きく開かれた扉からはより強いお香の匂いが入り込んできて、僕の緊張は限界を迎えた。
ついに足は震えてしまい、玄関の段差につまずいた。後戻りのできないような感覚は、どこまでも危険な快楽となって僕の胸を刺激した。
ああ、僕はこれから、垢を掘り出されるんだ。
とうとう垢玉が出来上がってしまうんだ。
靴を脱ぎ、僕はリサさんの家に上がる。わりと物で溢れていて散らかっている。雑貨が多く、魔よけの道具のような奇妙な物体も多々あった。
部屋の奥に、垢玉を掘り出す施術用と思われるソファーがあった。奥の窓のカーテンが閉められていて、部屋の中は薄暗い。わずかに隙間から差し込む太陽の光子が、ソファーにちらついている。
「じゃあ、ここに寝転がってね」
カチカチカチと音を鳴らしながら、ソファーの背もたれを倒した彼女は、合図をするかのように、ぽんぽん、とその背もたれを叩き、僕に横たわるよう指示した。
「脱いで」
リサさんは、上半身裸になるよう僕に促す。緊張の中で、僕はゆっくり服を脱いだ。
「どうしよう、緊張してきた」
と藍ちゃんが言う。このような形で、垢玉を作るという夢が叶うのは嬉しいことだったが、僕はなんだか、若干の居心地の悪さのようなものを感じていた。
うつぶせになると、僕は目を閉じて深呼吸した。
ここは本当に静かな空間だと思った。目を閉じていると、いま僕がいる場所が、知らない人の家だということを、より強く感じられた。
期待と興奮で、身体全体が震えそうだったが、深呼吸を続けて、落ち着かせた。
「ちょっと触るね」
最初に感じたのは、リサさんの指先だった。




