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「精霊? 可愛い黒猫だったわよ」
「黒猫? 闇の精霊って、もっと怖いものだと思ったけど……」
「そうなのよね。人は見えないもの、知らないものに恐怖を覚えるものだから。
だからこそ、こんなにもあっさり学園内にラシェル・マルセルの悪い噂をばら撒いて、孤立させることに成功したのだから」
そう。
この偶然レミが手に入れた情報をカトリーナ様へと伝える事で、物事はあっさりと動いたのだ。カトリーナ様は、この噂でラシェル様を社交界から追放させて、殿下の婚約者の座が空くと喜んだ。
そして、カトリーナ様の広い交友関係を使って、あっさりと悪い噂を流し、あっさりと殿下にバレて、あっさりと修道院行きを告げられた。
本当にあっという間の出来事に、私は何も付いていけずに終わった。
「どういう事なのよ! あなたたちは!」
「姉上、落ち着いてください」
「あなたは黙っていて頂戴! 殿下に目を付けられて、あげくに修道院行きですって!
これからこの家はどうすればいいのよ!」
目の前には、ヒステリーに泣き喚く伯母が、手を振り上げて私へと向かって来る。
それを父が止めようとなだめているが、伯母の怒りは一向に納まらないようだ。
「ウィレミナ! あなた、今笑ったわね! あんたのせいで、あんたのせいで」
「伯母様、あなたが私たちに言ったのよ?
高位貴族の令嬢と親しくしなさいって。言われたように侯爵令嬢のカトリーナ様に付き従ったまでです」
「……っ」
伯母の怒りに触れた私は、自然と震えが止まらなくなる。
何度ともなく彼女のこのヒステリーな甲高い声と共に、振り下ろされた扇子。
その痛みを思い出して、固くなってしまう。
だがレミは私とは反対に、余裕の表情で薄っすらと笑みさえ浮かべている。
そんなレミの様子に伯母は激高し、赤い羽根の付いた扇子を高く振り上げる。
あっ……。
手で庇う様子もないレミに、勝手に体が動く。
レミの前へと体を滑り込ませ、レミの体に抱き着いた私に、レミは驚愕と怯えの表情を浮かべた。
その瞬間。
「あぁっ……」
バシン、と肩に強い衝撃を受けて、思わず噛み締めた唇から声が漏れてしまう。
「ミア!」
強い痛みに体が耐え切れずに、崩れ落ちそうになる私をレミは、慌てたように支えてくれた。
伯母はそれでも怒りが納まらないのか、一度、二度、と何度も扇子を振り下ろす。
それをレミが「止めて!」と悲痛な声で止めると、私を伯母から守るように抱き締めてくれる。
「姉上、姉上。もう止めましょう!」
その時、父が伯母を抑え込みながら、声を掛けている。
父が……。母が死んでからというもの、興味さえ持ってくれていなかったと、そう思っていた父が助けてくれたの?
「……お父様」
小さく漏れた私の声から、数秒後。
「……父、だと?修道院に行くような娘が私の娘だと?――ある筈が無い」
どこまでも冷たく、低く響く声に恐る恐る後ろを振り向くと、父から向けられる憎しみの表情に「ひっ」と肩が揺れる。
父は私たちを憎んでいる。
分かっていたこと。
どんな時だって伯母を優先させる父は、伯母を悲しませ、この家の名を更に落とした私たちが憎くて仕方が無いのだろう。
それでも、期待しないようにしながらも、どこかで得ようとしていた父からの愛情。
そんなもの私たちには欠片も持ち合わせていなかった事実。
それをこの瞬間に目の当たりにした。
少しは愛されているのではないか、家族としての絆も少しはあったのではないか。
そんな思いを抱いていた自分がなんと滑稽なことだろう。
茫然と父の姿を見ている間に、レミが私を近くの椅子へと座らせると、私を守るように一歩前に出る。
父は冷静さを保とうとしているが、やはり怒りが勝っているのだろう。
かつて見たことが無い程の怒りの形相に、思わず目を背けてしまう。
「よくも我が家に泥を塗ったな。
もう二度とこの屋敷に足を踏み入れるな」
「踏み入るつもりもありません。どうぞ、この家の最後の当主としてお役目に務めてくださいませ」
「なにっ!」
父とレミのやり取りを黙って見ている他なかった私は、その後父と話す事もなく、少しの荷物と母の形見だけを持ち出して、レミと共に修道院へと向かう為に用意された馬車へと乗り込んだ。
十六年間暮らした我が家。
レミと母の思い出が沢山詰まった我が家。
もう二度と戻らないその場所が、遠くなって徐々に見えなくなるまで、涙でぼやけた瞳でただ見つめていた。
「案外、あっさりした終わりね」
レミの声に横を向くと、涙も見せずにただ前だけを見つめていた。
それでも、握りしめたその手の中に、母が私たち二人にプレゼントしてくれた金細工のペンダントが見えた。
レミも一緒なのだ。
あの家を出たかった。
だけど、母との優しい愛溢れた思い出と離れる事は胸を引き裂かれる思いなのだ。
それでも、涙を流す事が出来る私よりもレミの方がもっと、自分を押さえつけて強くあろうと無理をしている気がする。
私は、レミの手に自分の手を乗せて優しく握りしめると、一瞬顔を泣きそうな子供のように歪ませる。
だが、すぐに不器用な笑みを作り「これで良いのよ。これで、ようやく私たちは自由になれるのだもの」と上擦った声で誰に言うでもなく、自分に言い聞かせるように呟いた。




