エレーヌ3
前回登場しました『時読み』については、短編「凡愚王子と時読みの魔女」においても出てきますので、よかったらそちらもよろしくお願いします。
一番初めのエレーヌは、聡明なファティアのことをこころから慕っていて、姉という存在が大好きで仕方なかった。
あのとき、私たちは姉妹ながら、いつでも一緒にいられたわけではない。悪天候に加え、現国王が即位以後、国税の率は跳ね上がったこともあり、領地の経営状況は芳しくなかった。不作に継ぐ不作や租税の引き上げに、どんどん領民の生活の質が困窮していった。それに我が家の家計も火の車であった。
そんなゴシントン家の長女であるファティアは、なんの対策も取らないままの無能な父から、きわめて厳しい状況のまま、ゴシントン家の当主およびハザール地方領主の地位を引き継がねばならなかった。
本来なら、男子の生まれぬ家では、長女に適当な男を婿入りさせて、養子となったその男に当主を任せるのが通例である。しかし領主の立場や、子爵位は魅力的であれども、このような困窮極まる状態では、誰も我が子爵家に婿入りなどしてくれぬであろう。況してや、姉の容色では、きっとまともな聖婚相手はいまいと、早々に勝手に見切りをつけていた父の方針により、姉自身が将来当主になるよう、姉は幼い頃から厳しい教育を受けてきた。
二女の、それも身目のよかった私は、外の、できるだけ条件のいい男に嫁ぐことで、我が家や我が領地の援助を得ることが役目であった。そして、生まれた男子のひとりを、姉の次の当主として寄越すこと、というのが我が家の方針だったのである。
外に嫁いでいく女としての教育と、将来ハザールと子爵家を背負って立つ次期当主のための教育とでは、その内容は大きく異なった。姉は、一年のほとんど王都の別宅にて過ごした。厳しい財政状況の中、なんとか引き寄せた伝手で招いた有名な先生のもとで、経済学や経営学などを筆頭に、果ては帝王学まで、およそ貴族の淑女の教育とは掛け離れた、貴族の子弟のような教育を受けていた。
一方で、私は生まれつき身体が弱かったこともあって、穏やかな気候の領地ハザール地方にある本宅にて、外国語や我が国の歴史など基礎的な学問に加えて、刺繍や音楽などを嗜みながら、現当主である父と、美しいものが好きな母に、文字通り猫可愛がりされて育っていた。
私は、時々しか会うことのできない、穏やかで心やさしい、でもきちんと私のことを考えて、私のことを諭したり叱ってくれる姉のことが、心から大好きだった。姉はとてもやさしいひとだが、惰性の愛情を気まぐれに投げ渡すようないい加減なひとではない。家族として、ゴシントン家の中では姉だけが、私にとって唯一本当の家族であった。
「ねえさま! ねぇ、ねえさま! 夏季には、今度こそハザールに来てくださるでしょう? それでね、いっしょ遠乗りをしましょう? おべんきょうも大事だけれど、でもやっぱりたまには遊ばなくては!」
「まあ……エレーヌったら。私もエレーヌといっしょにいって遠乗りしたいわ。湿度の低いハザールの風は、とても爽やかだから、きっときもちがいいのでしょうね」
羨ましいわ……とファティアが穏やかに微笑む。私は大好きな姉にもっと、もっと喜んでほしくて、楽しんでほしくて、傍にいてほしくて、色々な提案をして、姉の気を惹きまくった。
「それに、ちょうど水祭りも近いのです! ハザールの細工飴は、とてもおいしくて、美しいのですよ! ねえさまにも、今年こそぜひ食べていただきたいの……!!」
「……細工飴……そうね、最近は砂糖の値段が高騰しているから……ますます水祭りくらいでしか、食べられなくなるわね……」
「……水祭りは、我が領地の、最後の砦なのです。だから……だから、ねえさまも」
「あなたは、やさしい子ね、エレーヌ」
「いいえ、本当におやさしいのは、ねえさまの方です」
姉が、力なく笑う。私は姉のそのやさしい微笑みが、とても悲しかった。姉は、頑張っていた。終わりの見えない将来のこと、その重責。ハザールだけでなく、またこの国全体には、禍々しい不吉なものが常に上空を旋回していた。ハザールも、この国も、限界はとうに越しているような気がした。いつ破裂しても、いつ破滅してもおかしくはない。でも、まだその時ではない。そして、その時がいつ訪れるかもわからないままでもある。
「ねえさま、きっと、きっと……! 今年のハザールの水祭り、いっしょにあの美しい細工飴を食べましょうね! ねえさまに、白薔薇の形の細工飴を、プレゼントしたいから!」
「ええ! とても、楽しみにしているわ、エレーヌ」
「約束よ、約束ですからね!!」
それは、はじめのエレーヌ、12歳の春のことだった。
率直に言えば、その約束は叶えられなかった。そして、この先も、叶えられることなく、すべてのエレーヌの生涯は終わる。大好きな姉も、大切な約束も、たったひとつの願いも、何もこの手には残らないまま。すべては姉と、そしてこの国の未来のため。
はじめのエレーヌが13歳を迎えた初夏に、嫁ぐ予定のなかった14歳の姉は、50半ばの商人の男と急遽婚約が決まり、その年の冬にはその男と結婚した。五番目の妻として、若き姉は父よりもさらにふたまわり年上の男に嫁いでいった。
男は見るに堪えないほどに不潔で、べたべたぬるぬるとした巨大を揺らしながら早足で歩く醜男で、ねばねばとした視線を姉だけでなく、私にも向けてきては、ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべていた。まだ14の姉と、13になったばかりの私を、ひどくいやらしい性的な目で常に追いかけていた。瞳の中に、隠しきれない暴力的な性欲と、貪欲な権力への執着を宿していた。私の、世界で一番嫌いな人種の男だった。
姉はそんな男に文句ひとつ言わず、嫁いで行った。
聖婚式直前、決して望んでいたような相手では決してない男に、嫁がねばならない姉に、なんて声を掛けるべきか分からず、悔しさと悲しさと寂しさと、そしてどうしようもない無力な自分への怒りで、私はただ泣くことしかできなかった。
それでも、純白の美しいドレスを着た姉は、私のために、ささやかに微笑む。姉はやさしかった。どこまでもやさしく、だからこそ不幸であった。
嫁ぐ予定のなかった姉に、突如持ち込まれた縁談。それも、ずっと年の離れた、貴族でもない男。しかし貴族でこそないが、かなりの大きな商会をかかえた裕福だけが取り柄の男。しかも、婿養子に我が家に入るでもない。貴族の身分も、我が領地も、男にとっては必要でも何でもないのだ。
男が要求したのは、姉の嫁入りと、そして我が領地にあるメレリーフ鉱山に関する権力すべてである。
男が何を目的にしたいのかは明らかだった。けれど、あの男に、姉を、そして鉱山を引き渡すそとが、どんなに恐ろしい災厄をもたらすことになるか、そのときの私はまだ知らなかった。大好きな姉の笑顔が曇らないことを、ただ祈るばかりであった。
「ねえさま……どうかご健勝で」
「ありがとう、エレーヌ。あなたも」
姉はいつでも笑顔で、いつでもやさしいひとだった。けれど、そのときばかりはひどく寂しそうで、表情を翳らせていた。
内容の良し悪しはどうであれ、せっかくの聖婚式にもかかわらず、遠くで激しい落雷の音がした。土砂降りのような雨が降り、悲鳴のような雷が鳴っていた。その日は、姉の未来と、ひいてはこの国の将来を暗示させるような、ひどい天気だった。
父も、母も、流されるばかりで、何もしない。姉のことを、助けてはくれない。姉が不幸になることも、彼らにはどうでもよくて、自分たちが楽な方へ、楽な方へ流されていくばかり。せっかく、後継者として厳しく教育されてきた姉をあっさり手放す軽率さ。本来なら、私の方があの男に嫁いで行けばよかったのだが、両親はなんとなく意味もなく信じていた。容色の美しい私は、もっと、もっと高い身分の殿方を掴めると思っている。だからこそ、私にはまだ婚約者さえ決まっておらず、出し惜しみされていた。
あの男は、本当なら私の方がよかったらしいのだが、あの男は若い女であれば、多少の美醜にはこだわらんのだと、侍従に漏らしていたのを聞いたことがあった。こんな男に、大切にしていた姉を奪われることが、私には我慢ならなかった。けれど、どうすることもできなかった。そのときの私には、力もなく、覚悟もなく、知恵もなかった。
この国は、悪名高き残虐王ネロと、その息子である王太子ジョンのおかげで、破滅の道へと着実に歩んでいた。各地で悪天候による凶作続きなのにもかかわらず、租税は跳ね上がり、偏った物不足で物価は高騰していた。また血の気の多い王のせいで隣国とは冷戦状態に陥っており、隣国との国境では常に緊張していた。王に従順な貴族たちは私腹を肥やしている一方で、王や王太子を諌めた厳正な文官たちは粛清されつつあるとも聞く。
私は、美しいかたちをしている私は、その腐敗している王侯貴族のどれかにおそらく嫁がされる。両親はそれを望んでいた。自分たちの立ち位置が危ぶまむように。姉も、私も分かっていた。私たちには自由はなく、幸福は望めない。未来もない。あるのは、屈辱と、不幸だ。この先には一体何があるというのだろう。しあわせになりたいと、願うことさえ許されないのだろうか。このいとおしい姉を、しあわせにしてあげることさえできないのだろうか。
遠くの場所で、悲鳴のような激しい音の、雷が生まれては、また死んでいった。
姉が、力なく微笑む。
ねぇ、きっとしあわせになるのよ。
それが、姉がはじめの私に遺した、最後の言葉であった。