第16話:覚醒
ついに――イブリスと、相対した。
けれど。
その背後に立つ“それ”を見た瞬間、思い知らされる。
――勝てない。
悪魔、アテルラナ。
ただそこにいるだけで、空気が、重く歪む。
次の瞬間には、もう遅かった。
三人まとめて叩き伏せられ、あたしたちは地面に転がっていた。
身体が、動かない。
指一本すら、言うことをきかない。
「殺せ――アテルラナ」
淡々とした声。
たった一言で、すべてが終わる。
悪魔が腕を振る。
空間ごと削り取るような、鎌状の斬撃。
逃げ場なんて、どこにもない。
――動け。
――動け、動け、動け……!
頭の中で叫ぶのに、身体はぴくりとも動かない。
迫る刃。
首筋に触れる、死の気配。
――間に合わない。
そう思った、その時だった。
ドクン――
心臓が、跳ねた。
「……おきろ……」
誰かの声が、聞こえた気がした。
次の瞬間。
あたしの身体は、弾かれたように跳ね起きていた。
考えるより先に、手が動く。
振り下ろされた斬撃を――
素手で、受け止めていた。
ギギギ……と、空気が軋む。
ありえない。
それでも――止まっている。
あの一撃が。
斬撃は、砕け散った。
「……は?」
イブリスの声が、遠くに聞こえた。
どうでもいい。
今はただ――はっきりと分かる。
身体の奥で、何かが噴き出している。
熱でも、光でもない。
もっと、生々しい“力”。
ゆっくりと、息を吸う。
自然と、足が開く。
腰が落ちる。
両の拳が、正中に収まる。
【三戦の構え】。
構えた瞬間、世界の音が遠のいた。
――静かだ。
いや、違う。
あたし以外が、遅い。
アテルラナが動く。
一瞬で距離を詰めてくる。
けれど――
遅い。
「――はっ」
拳を突き出す。
「グッ……!?」
巨体が、宙を舞った。
何十メートルも先へと吹き飛び、地面を抉りながら転がる。
――すべて、見えている。
魔力の流れも。
力の起点も。
どこに触れれば崩れるのかも。
「……面白いね」
背後で、コモエディアの声がした。
やけに、冷たい。
あたしはゆっくりと顔を上げる。
イブリスを見る。
その表情に――初めて、戸惑いが浮かんでいた。
「何が起きてるか……分からないわよね?」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「……死にたくないって、思った」
それだけ。
ただ、それだけのはずなのに――
辿り着いていた。
この領域に。
身体の奥で渦巻く力が、答える。
――限界を越えろ、と。
「この力……そうね」
小さく息を吐く。
「“ゾーン”って呼ぶことにするわ」
地面を蹴る。
景色が弾ける。
一瞬で間合いを詰める。
「あんた達から見れば、人間なんてちっぽけかもしれない」
迎え撃つアテルラナの拳。
魔力で強化された一撃。
けれど。
わずかに身体をずらすだけで、軌道は逸れる。
「それでも」
踏み込む。
腰を回す。
全身を連動させて、拳を突き出す。
「それでも、人間は――生きてるの!」
衝撃。
拳が、めり込む。
止まらない。
そのまま、奥へ。
さらに奥へ。
「人の心の強さを――なめるなッ!!」
全てを乗せた一撃。
骨を砕き、肉を貫き――
あたしの拳は、悪魔の胸を突き破った。
沈黙。
そして。
巨体が、崩れ落ちる。
遅れて、呼吸が戻ってくる。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
終わった――そう思った。
ゆっくりと腕を引き抜く。
悪魔の身体が、砂のように崩れていく。
手の中に残ったのは、小さな核。
「……生きてる」
実感が、遅れて押し寄せる。
――勝った。
そう思った、次の瞬間。
視界が、揺れた。
膝が、崩れる。
――まずい。
力が、急速に抜けていく。
「……嘘だろ」
イブリスの声。
さっきまでの余裕はない。
「アテルラナが……やられた?」
けれど、その目がすぐに変わる。
「――危険だ」
拳に、炎が宿る。
「ここで潰す!」
踏み込まれる。
速い――見えない。
避けられない。
「――ッ!」
直撃。
身体が宙を舞い、地面を何度も転がる。
息が、詰まる。
動けない。
立たなきゃ。
立たなきゃ――
「今度こそ終わりだ」
イブリスが迫る。
それでも。
あたしは、歯を食いしばる。
「……戦う……」
震える脚で、立ち上がる。
「……あたし一人でも……!」
踏み込む。
残った力を、全部込める。
拳を――
叩き込む。
――はずだった。
止まった。
目の前で。
見えない何かに、阻まれている。
「……効かねえよ」
イブリスが、静かに言った。
「オレは元天使だ」
拳が、届いているはずなのに。
何も壊せない。
「【神偽の境界】――人間ごときじゃ、触れることすらできねえ領域だ」
終わった。
そう思った瞬間。
腕を、掴まれる。
「逃がさねえ」
振り上げられる、灼熱の手。
終わる。
今度こそ。
目を、閉じた。
――その時。
「――チリアット」
小さな声。
一瞬だけ、目を開く。
視線が、合った。
コモエディアと。
次の瞬間。
衝撃。
胸に、激痛。
「……え?」
視界が、揺れる。
血が、溢れる。
身体が、吹き飛ばされる。
「コモ……エディア……?」
そんなはず、ない。
さっきまで、隣にいたはずの仲間。
その目は。
冷たく、凍りついていた。
「動きを止めてくれて助かったよ」
淡々とした声。
「借りは返さないとね」
何が起きたのか、頭が拒絶する。
視界の端で、二人が去っていく。
「こいつは?」
「そのうち死ぬ。核をやってる」
遠ざかっていく声。
コモエディアが、ほんの一瞬だけ振り返る。
その時。
笑みが、消えた。
口が、わずかに動く。
――ごめん。
音にならない。
「……ふざけ……ないで……」
もう、声も出ない。
意識が、沈んでいく。
暗く。
冷たい底へ。
――そこで、すべてが途切れた。
*
「――ねえ! あそこ、人が倒れてる!」
少年の声。
ブレーキ音。
スクーターが急停止する。
「本当だ……急ぐよ!」
白衣の女性が飛び降りる。
駆け寄り、状態を確認する。
「ひどい……全身損傷、出血多量……この子は――」
ミストの胸を見る。
「……貫通してる。まだ息はある、急いで!」
「はい!」
「出血多い! 圧迫続けて!」
手際よく止血処置が始まる。
「脈、弱いです!」
「落とすな! 気道確保、輸液準備!」
女性はミストの手を握る。
その指先が、かすかに震えているのを感じた。
「……この子、まだ戦うつもりだ」
小さく、呟く。
「なら――」
顔を上げる。
「絶対に死なせない!」
医療テントが展開される。
「準備完了!」
「……始めるよ」
それは――
命を繋ぐための、もう一つの戦いだった。
第一章 悪魔との出会い 完
――第二章へ続く




