第1話:悦楽の悪魔
ヒヤリとした冷たさが、頬に触れた。
「――えっ?」
ゆっくりと目を開ける。
「……暗い」
夜にしては、あまりにも光がない。
ふと、自分の町を思い浮かべる。
深夜でも、ネオンや街灯がどこかにある。
コンビニの明かりだって、消えることはない。
なのに、ここには――何もない。
「どこなのよ、ここ……」
体を起こし、制服の乱れを整える。
スカートのしわを伸ばしながら、周囲を見回すが――やはり何も見えない。
(落ち着け……美優)
胸の奥でざわつく不安を押し殺す。
呼吸を整え、記憶を辿る。
最後に覚えているのは――教室移動の途中。
廊下を歩いていて、友達の声が聞こえて――その次の瞬間。
「――っ!?」
その時。
視界を塗り潰す、眩い閃光。
何もかもを飲み込むような、白。
そして――
「やあやあ――お目覚めかい?」
軽やかな声が、闇を裂いた。
「……誰?」
反射的に顔を上げる。
そこにあったのは――鏡だった。
等身大の、大きな鏡。
ありえない。
こんな暗闇の中で、そこだけがくっきりと存在している。
「何……これ」
恐る恐る近づき、覗き込む。
黒髪をシニヨンに結び、セーラー服姿。
見慣れた、自分自身――
――の、はずだった。
ぐにゃり、と。
鏡の中の“あたし”が歪む。
「……は?」
そこに映っていたのは――
金髪の少年だった。
あたしより少し背が低い。
整った顔立ちに、芝居がかった笑み。
けれど、その目だけが――妙に冷たい。
その少年が、
ふわりと鏡の中から“こちら側”へ踏み出してきた。
「初めてで不安だったけど、五体満足で良かった♪」
値踏みするような視線が、頭のてっぺんから足先まで這う。
ぞわり、と背筋が粟立った。
「あなた、誰なの?」
思わず一歩踏み出す。
「――ああ! キミをここに呼んだのはぁ~」
少年は両手を広げ、大げさに間を取る。
その仕草は、まるで舞台役者。
けれど。
一瞬だけ――
表情が“消えた”。
「ジャジャーン! なんとこのボクでした!」
次の瞬間には、また笑っていた。
「あんたの仕業ね!? 何してくれてんのよ!」
怒りが込み上げる。
だが同時に、直感が告げていた。
――こいつ、危ない。
意思疎通できる相手かどうかすら、怪しい。
一瞬、影が“人の形をしていなかった”。
「……もしかして」
それでも、状況を整理する。
暗闇。
意味不明な空間。
そして、目の前の存在。
「これって――異世界転移ってやつじゃないの!?」
漫画やアニメで何度も見た“あれ”。
現実離れした結論が、逆にしっくりきた。
「アハハ! いいねぇ、その理解力!」
少年は楽しそうに笑う。
「いいから戻しなさいよ! 元の世界に!」
詰め寄る。
「残念。人間のキミは“一方通行”でしか来られないんだ」
「……は?」
「ここは“世界の狭間”に差し込んだ空間だからねぇ」
軽い口調。
なのに、その内容は容赦がない。
「終わった……」
膝から崩れ落ちる。
頭の中が真っ白になる。
家。
家族。
道場。
――明日の稽古。
先生の顔が浮かぶ。
悔しそうな、自分の顔も。
「……っ」
歯を食いしばる。
まだ、終わってない。
「……で?」
顔を上げる。
「あんた、何者なのよ」
睨みつける。
神様?
だったら――二度と神頼みはしない。
「ボクは悦楽の悪魔――コモエディア」
少年は優雅に一礼する。
「魔王軍幹部の一人さ」
「魔王軍……?」
現実感がない。
けれど、目の前の存在が“それ”を肯定していた。
「そんなのが、あたしに何の用よ!」
「ほら、ボクは答えたよ?」
にやり、と笑う。
「次はキミだ。名前、教えてよ」
「……霧崎 美優」
「霧崎か……いいね」
舌なめずりするように呟く。
「キミは今日から“ミスト”って名乗ること!」
「は? ダサっ」
即答。
だが、少年は気にしない。
「それはさておき――」
空気が変わる。
「キミには“光るもの”がある」
視線が、右手のテーピングに向く。
「何のこと?」
「とぼけても無駄だよ」
見透かすような視線。
「キミ、自分で分かってるはずだ」
ぞくり、とした。
図星だった。
黒帯を取るほどの実力――
「倒してほしい奴がいるんだ」
「自分でやりなさいよ」
即答。
「あたしの空手は、そんなことのためにあるんじゃない」
はっきり言い切る。
この拳は、守るためにあるんだ。
「いいや、キミにやってもらう」
「……誰を?」
少年は、ゆっくりと笑った。
「――ボクら魔王一味を、ね」
「……は?」
意味が分からない。
「仲間じゃないの?」
「ああ」
くすり、と笑う。
「だからこそ、面白いんだろ?」
その目は――笑っていない。
「……そうでもしないと、この世界は壊れない」
ぽつりと呟く。
その言葉だけが、やけに重かった。
「使ってみたかったんだよ! これをさ――」
見せたのは、赤黒い結晶。
脈動している。
「魔法が存在し、魔物が跋扈する世界――」
彼は目を閉じ、情景を思い浮かべている。
「エデニウム。ボク達の世界さ」
「それは……?」
掲げられた赤黒い結晶を指差す。
「“遺物”さ。前の幹部を殺して手に入れた」
「……それで戻れるの?」
「幹部クラスの魔力なら――世界くらい、越えられる」
魔力が詰まった石――魔物の核。
「ボクも含めた“魔王軍幹部”の誰かを殺せばね」
手に入れるには――命を奪わねばならない。
そう告げられた。
――でも。
「……無理」
即答。
胸が痛む。
「命を奪うなんて、できない」
「甘いね」
即座に切り捨てられる。
「この世界は戦って勝ち取る場所だ。綺麗事じゃ、生きられない」
背を向ける。
「諦めてもいいよ。その場合は――」
さよならの手振り。
「キミとはここまでだ。じゃあね」
――それが決め手だった。
「……やる」
気づけば、口にしていた。
コモエディアが振り返る。
拳を握る。
「……帰るためなら、やるしかない」
目を逸らさない。
「それで――誰を倒せばいいの?」
一瞬の沈黙。
そして――
「――イブリス」
空気が凍る。
「あいつはね」
珍しく、感情のない声。
「“ボクでも殺せなかった”相手だよ」
背筋が冷える。
「でもまぁ――」
すぐに笑う。
「キミなら、やれるかもね?」
その言葉は、期待なのか――それとも。
遺物が光る。
視界が白に染まる。
「それじゃ――ようこそ、エデニウムへ♪」
意識が途切れる。
――そして。
次に目を開けた時。
あたしは――
鬱蒼とした森の中に、立っていた。




