バイト巫女と警察の仕事④
古雅に言われるまま走れば、悲鳴を聞いたらしい人が集まって、入口を塞いでいる状態だった。
「職員が足を滑らせて転んだだけなので大丈夫ですから」
職員らしい人が説明しているのを聞いて、私はチラッと古雅を見る。本当にただ人が転んだだけならば、古雅が私を促すとは思えないのだけど……。
「どいてください」
医療器具の乗った台を押す女性に言われ、私は慌てて脇による。ナース服を着ていないけれど、たぶん看護師だろう。
確か老人ホームには持病を持つ人が多いので、看護師がいるものだと聞いたことがある。
多分転んだことで怪我人が出たのだろうけれど……。
生きている怪我人に対して私ができることはないし、逆にここに居たら邪魔だ。どういうつもりで古雅は私を呼んだのだろう。どうするべきかと思ったところで、猛スピードで黒いものがこっちに来た。
「ひゃっ」
反射的に目を閉じ腕を前に出してガードをするが、衝撃はない。代わりに詰めたいものが私をすり抜けていく。
その瞬間、目を閉じているはずなのに、何故か映像が見えた。
白黒な映像はまるで映画をのぞいているようだった。現実から遠い光景に感じる。
その映像の先には男性と風呂場が見えた。男性は特に服は脱いでいない。そんな中黒い影が男性の足を引っかけて転ばせた。あっと思った時には、男性は手すりに頭を打った状態で湯舟に倒れこんだ。
突如起こった事故の様子は怖かった。このままでは死んでしまうのではないか? そんな恐怖だ。
でも怖いはずなのに、心の中に別の感情が湧く。
アア、ムネガスクーー。
『パンッ』
大きな音が耳元でなったことで、私は目を開けた。
えっ?
あれ?
『華那子、黒いの追いかけるぞ』
「えっ。ちょっと」
まるで寝起きのように頭が働いていないけれど、私は古雅に言われるままに再び移動する。
今の白昼夢は、ほんの数秒の出来事だったのだろう。人だかりは相変わらずで、私は逆走するような形だ。
古雅は再び木下さんがいた部屋へと入っていくので、私もそれに続いた。
愛理さんは慌ただしく走る私を唖然とした様子で見ていた。……絶対奇行をしているように見えるよね。何しろ、黒い影も古雅も誰にも見えていないのだ。
そんな中、古雅はある一室に入ってしまって、私はその前で流石に足を止めた。古雅がすり抜けて行った先には扉がある。個室を仕切る扉だ。つまり部外者が勝手に入ってはいけない場所である。
でも古雅が追いかけると言ったのなら、私も入らないといけない。
「あ、あの。木下さん。すみません。このお部屋、入っても大丈夫ですか?」
「えっ?」
「いや、その。えっと、幽霊が、入っていきまして……念のため確認したいというか……」
あれは悪鬼ではなかった。
となると、幽霊なのだろうと思うけれど、どんな幽霊と言われても顔が思い浮かばない。黒い影のようにしか私には見えなかった。
そして、先ほど見た白昼夢を思い返すと、たぶんこの幽霊が男性の職員を湯船に突き落としたのだろうけれど……。あれ? でも最初に聞いた叫び声は女の人だったよね?
「……ちょっと待ってね」
少し考えたが愛理さんは頷いてくれた。彼女が職員に声をかけて立ずれてくれている間、私はじっと部屋の扉を見る。
他の部屋には名札が出ているのに、この部屋には名札がない。なので、たぶん空き室だろう。透視能力なんてない私には、中がどうなっているか分からない。
「華那子ちゃん、中に入ってもいいそうよ」
「ありがとうございます」
了承が得られたので、私は急いで扉を開けた。特に鍵などはついていない横開きの扉なので、簡単にスライドする。
部屋の中には、黒い人型のような影と古雅がいた。
シーツの張られていないベッドと洗面台以外何もない殺風景な部屋だ。それなのに、うまく見えないけれど、他にもいろいろな物が置いてあるようにも見えた。黒い影はまるでベッドに腰かける様にたたずんでいる。
『華那子。この成功体験はよくない。変質する前に祓うから、部屋の中に入ってから、いつも通り呼んでやれ』
「成功体験?」
『復讐の成功体験。かなり記憶が薄れてしまった朧気なものの集合体だけれど、【できる】と認識させることはよくない』
復讐?
それってやっぱり、さっき男の人を風呂に突き落としたアレだろうか?
よく分からないけれど、古雅がよくないと言うのならばよくないのだろう。
「……後で、ちゃんと説明してよ」
そういってから私は目を閉じ、心を落ち着かせる。
そしてもう一度目を開けて、柏手を打った。
「鬼さんこちら、手の鳴るほうへ――」
その瞬間、沢山の目が私の方を向いたのに気が付いて、ぞわりと鳥肌が立つ。
黒い影だったので、一人の幽霊がこの部屋の中にいるのだと思っていた。それなのに、沢山の目を感じると言うことは、一人だけではないのだ。そういえば古雅も集合体とか言っていた。
元は気づかなかったのだから、たぶん意識して視ようとしない限り見えないような、空気に近い存在だ。そんな消えかけな幽霊が、何故かここに集まっている。
その理由も分からないけれど、古雅が言う通り、私もこの状態がいいとは思えなかった。
だからためらわず、もう一度呼ぶ。
すると目がこっちへ寄ってきているのを感じた。
『駄目だよ。凄く綺麗だろうけれど、アイドルはおさわり厳禁。いえーす、ロリータ、のー、タッチ!』
いや。アイドルでもロリータでもないのだけど。そもそもそれ、何処で覚えたの……。
古雅の意味の分からない言葉に、私の力ががくっと抜けたところで、古雅は手に持っていた神々しい鉄パイプを一閃させた。次の瞬間黒い影は霧散し、部屋の中は最初からあった、ベッドと洗面台だけが残された。視線ももう感じない。
「……ねえ。古雅、今のって本当に幽霊?」
幽霊と言うのは、死んだ人がそのままこの世に残っているものだ。地縛霊やら浮遊霊やら色々種類はあるみたいだけど、顔のない朧気なものが沢山いるというのはあまり見かけない。
『幽霊というより、思念体に近いな。誰という明確な顔がないけれど、みんな同じようなことを思っていたから、その寄せ集めでできた存在っていう感じかな。これが強くなると、妖怪とか、今時だと都市伝説みたいになってくる』
「寄せ集めって、そんなことあるの?」
『あるある。霊魂とも言えない思念状態だと、他者との境がさらにあいまいだから、似たもの同士が集まるんだ。そして吹き溜まりみたいなところに溜まる。集まった者は同調し、境がなく、ひっぱられやすい。今回はまだ変質前だから楽に消せたけれど、これが変質して、強い方向性を持つとかなり厄介になる。特に今回みたいな、正義の鉄槌的な復讐は最悪だ』
「正義? 人を殺すような行為が?」
復讐もかねているなら、変なことでもない?
でもそれは本当に正義と言っていいのだろうか?
『昔からあるだろう? 皆大好きだぞ? 勧善懲悪な話は。時代劇なんてそういうものだろ。いまでいうと、えーと、ざまぁ系的な話とか?』
「ねぇ、何処でそういう情報仕入れてくるの」
ざまぁって……。
私についてきてふらふらしているからそういう話とか見たりするのだろうけど、神様の口からざまぁ系……。なんだか変な感じだ。
『色々と調べてるんだよ。情報は常にあっぷでーとしないとな。まあ、話は戻るけど、正義は正しいからためらいがない。それが成功すれば次もする。だから、ああいう成功体験はよくないんだ』
「ねえ、華那子ちゃん。誰と話しているの?」
古雅に色々聞いていると、唐突に声をかけられて、私はびくっとして扉の方を振り返える。
そこには訝し気な顔で私を見る、愛理さんと職員がいた。