第2話 『星屑荘』の扉と、白き少女の契約
「これから私たちのペンション物語が始まるんだね」
都内のアパートを引き払い、荷物を段ボール箱に詰め込んでから数日。
私──白瀬唯衣は、長年勤めた商社の経理事務を円満退職し、清里高原へと向かう電車の中で小さく息をついた。
隣の席では、千咲さんが自分が愛用していた包丁セットを収めたアタッシュケースを膝に抱えながら、静かにうなずいている。彼女もまた、都内のイタリアンレストランのスーシェフという立場をスパッと手放してきた。
さらに、柚希はあちこちに掛け持ちしていた深夜のアルバイトをすべて辞め、雫ちゃんに至っては、納期が迫っていた面倒なシステム開発の案件を鬼のような集中力で徹夜で片付け、「しばらく行方不明になります」とクライアントに通告してこの旅に合流していた。
そして、六月初旬の土曜日。
雲ひとつない青空の下、私たち幼馴染み四人は、山梨県北杜市の清里高原エリアにあるペンション『星屑荘』の敷地に足を踏み入れていた。
ここは、牧歌的な風景と美しい星空が広がる、日本におけるペンション文化の発祥地の一つだ。観光地として非常に洗練されており、休日には多くの観光客がドライブやピクニックに訪れる。祖父がまだ元気に切り盛りしていた黄金期には、こだわりのコーヒーや、ここでしか食べられない極上のジビエ料理が味わえる隠れ家カフェとして、地元の人や感度の高い観光客の間でちょっとした噂になっていた場所だった。
目の前に佇む『星屑荘』は、年季が入っていながらも、祖父が大切に手入れを続けてきた温かみのある本格的なログハウス調の建物だ。三角屋根の下には、アンティーク調の看板が風に揺れている。その一角には、一般客も気軽に立ち寄れるストラン『瞬き』が併設されていた。
「うーん、空気が美味しいね! 東京のあのモワッとした排気ガスの匂いが嘘みたい!」
柚希は両手を大きく広げ、胸いっぱいに清里の涼やかな空気を吸い込んで満面の笑みを浮かべる。
「いいところよね。緑に囲まれていて、時がゆっくり流れているみたい。静かで、心が落ち着くわ」
千咲さんも、深緑の木々や遠くに見える八ヶ岳の山並みを眺めながら、ふっと柔らかく微笑んだ。
「ここが、私たちの新しい拠点……。ここから、私たちの華麗なサクセスストーリーと、労働からの完全勝利の歴史が始まるんですね」
雫ちゃんはペンションの外観をデジタル一眼レフのカメラでパシャリと撮影しながら、野心的な眼差しを光らせている。
私たちはさっそく大きなトランクケースをゴロゴロと引っ張り、木の軋む温かい音がするエントランスから中へと足を踏み入れた。
中は、祖父が遺した懐かしい木の香りと、どこか懐かしいスパイスの香りが混ざり合っている。まずは荷物をそれぞれの部屋に置き、今日からの生活と営業に向けて大掃除を始めようということになった。
「まずは一通り、館内のホコリを払っていこうか。私は従業員用のプライベートスペースからやるね」
「私は厨房のチェックと掃除をするわ。プロの視点で徹底的にピカピカに磨き上げないと、料理の味に響くからね」
「じゃあ、私は客室のベッドメイキングと窓拭きね!」
それぞれが手分けして動き出す中、私は一階の奥にあるプライベートスペースの物置部屋のドアノブに手をかけた。ここはかつて、祖父が私的な趣味のものを詰め込んでいた、いわば立ち入り禁止のバックヤードである。
「あれ、ここ、鍵が開かない……と思ったら、引っかかってるだけか」
少し力を入れてガタガタと扉を押すと、重苦しい音を立ててその部屋の扉が開き、薄暗い空間に一筋の光が差し込んだ。
中に入ると、そこには埃っぽい空気の中に、骨董品集めが趣味だった祖父が生前あちこちから買い集めてきたガラクタや美術品、古い本などが山のように積み上げられていた。古い壺、錆びた西洋の甲冑のレプリカ、よく分からない奇妙な形の木彫りの置物──。
そのガラクタの山の一番奥、薄暗い壁際に、異様な存在感を放つ『それ』があった。
「……なに、これ?」
思わず、私は足を止めた。
それは、まるでそこに壁など存在せず、ぽっかりと抜き出すように設置されている、木製の凝った装飾が施された扉だった。
アンティークの高級家具のような蔦のレリーフが彫刻されているが、よく見るとその表面はほんのりと淡く、青白い光の粒子を帯びて脈打っているように見える。建物の一階の、しかもただの物置の壁から、不自然に、まるで異世界への入り口のように突き出しているのだ。
「みんな、ちょっと来て! ここ、変なものがあるんだけど……!」
私の声を聞きつけて、掃除の手を止めた千咲さん、雫ちゃん、柚希の三人が物置部屋の入口にぞろぞろと集まってきた。
「なに? お祖父ちゃんのへそくりでも見つけたの?」
柚希がひょいと首を突っ込んできたが、その視線が目の前の扉に捉えられた瞬間、ピタリと動きを止めた。
「……なにこれ。すごい、気味が悪いというか、ファンタジーのセットみたい」
「ただの木工細工にしては、使われている素材の質感が異常ですね。樹齢何百年……それになにか特殊な力のようなものを感じます」
雫ちゃんは眼鏡を押し上げ、まるで珍しいバグを見つけたような好奇の目を向けた。
「おじい様、生前にこんなもの骨董市で買ってきたのかしら……? でも、妙に引き込まれるような美しさがあるわね」
千咲さんも、すっと一歩近づいてその扉の表面をじっと観察している。
好奇心に負けた私は、吸い寄せられるようにそっと右手を伸ばし、その冷んやりとした木製のドアノブに触れてみた。
瞬間。
世界から音が消えた。
物置部屋の薄暗い景色が一瞬で霧散し、私たちの足元から天井まで、すべてが果てしない
真っ白い空間へと塗り替わった。驚く暇すらない。私たちの体はふわりと宙に浮くような感覚に包まれ、次の瞬間、目の前に光の粒子が収束していく。
「ようこそ、迷い子たち。待ち遠しかったよ!」
澄み切った、鈴を転がすような少女の声が、白い空間に響き渡った。
光が晴れた私たちの目の前にいたのは、身長が腰ほどの高さしかない、背中に色鮮やかなアゲハ蝶のような透明な羽を生やした小さな少女だった。彼女は、星屑がふんだんに散りばめられた神秘的なワンピースに身を包み、ふわりふわりと空中に浮遊しながら、私たちを面白そうに見下ろしている。
「な……っ、なにこの子!? 妖精さん……?!」
柚希が目を丸くして後ろに飛び退き、千咲さんも咄嗟に私を庇うように一歩前に出て身構えた。
「あなた、いったい……?」
「ふふん、驚くのも無理はないね。ボクの名前はステラ。この場所の管理をする、ダンジョンマスターさ!」
ステラと名乗った小柄な少女は、背中のアゲハ蝶の羽根をパタパタと優雅にときながら、誇らしげに胸を張った。
「ダンジョンマスター……?」
私は呆然と呟いた。ゲームやライトノベルの知識ならかろうじてあるけれど、まさか実家の物置の扉の向こうがそんなファンタジーの直売所になっているなんて、現実感がなさすぎて頭が追いつかない。
「異世界の女神みたいな存在、ってところかな? まあ、細かいことは気にしなくていいの! あの古い扉を開けたってことは、君たちがこのダンジョンの新しい挑戦者としての資格を満たしたってことさ。だから、特別にこのダンジョンに入場する許可を与えてあげる!」
ステラはパチンと指を鳴らした。すると、私たちの足元に魔法陣のような光の輪が浮かび上がり、心地よい温かさが体を包み込む。
「さあ、この扉の奥に広がる階層には、いろんなモンスターがウヨウヨしているからね! 存分にモンスターをバンバン狩っちゃってよ!」
「モ、モンスターって言われても……私たち、か弱い乙女だよ!?」
柚希が自分の腕を抱えながら、戸惑いを色濃く滲ませた表情で叫んだ。
妹が言う通り、私たちは都会で経理をしたり、料理を作ったり、プログラミングをしていた普通の女の子たちだ。突然モンスターを狩れと言われても、武器の持ち方すら分からない。
けれど、ステラはケラケラと可愛らしく笑った。
「心配いらないって! ボクと正式に契約を結んだ者には、特別な特権を授けることになっているのさ。具体的には、個人の『ステータス』と、特殊な能力が得られる『スキル』をプレゼントするよ! そのスキルを使ってモンスターを倒し、レベルアップしてステータスをガンガン上げていくんだ。慣れればスポーツ感覚で楽しいよ!」
ステラが空中で手を振ると、私たちの目の前にそれぞれ半透明の青い光のパネルがフワッと浮かび上がった。そこには、私たちの名前や体力などが数値化されたもの、初期スキルらしき項目がずらりと並んでいる。
「なっ……これ、私のローカル開発環境のデバッグ画面みたい……! すごい、本当にファンタジーのシステムが物理的に実装されている……!」
雫ちゃんは、目の前のステータスウィンドウに夢中になり、目をキラキラと輝かせながら猛烈な勢いで指を動かして詳細を確かめている。もう怖さのかけらもないらしい。
「それだけじゃないよ」
と、ステラは得意げに胸を張る。
「このダンジョンには、『ダンジョンポイント(DP)』っていうシステムがあってね。モンスターを討伐したり、素材を回収したりすると、どんどんポイントがたまっていくんだ。今回は特別に、初めて扉を開けた記念の初期ボーナスとして、『100DP』を最初にあげるよ! さて、このポイントを使って、なにかリクエストはないかい? どんなモンスターが出現してほしいとか、こういう便利なアイテムが欲しいとか、君たちの望みを叶えてあげるけど?」
ステラの言葉に、四人は顔を見合わせた。
ダンジョン、モンスター、そしてポイント。現実離れした話だが、目の前には紛れもない奇跡の証拠が浮かんでいる。
すると、一番最初に口を開いた雫ちゃんが、驚くことをのたまった。
「……ねえ、ステラさん。モンスターって、その……食用に適した肉とか、美味しい野菜を落としたりする個体も作れるんですか?」
「は?」
と、ステラがキョトンとした顔をする。
「私たちがこれから経営しようとしているペンション『星屑荘』や、レストラン『瞬き』の経営を少しでも楽にするために……というか、圧倒的な利益率を叩き出すために、利用できるものは徹底的に利用しないとダメなんですよ。ですから、食材になるモンスターや、高品質な作物が育つフロアを希望したいのですが」
雫ちゃんは全く怯むことなく、冷静かつ極めて合理的なビジネスの目をステラに向けた。
「雫ちゃん!? あなた、まさかモンスターのお肉をお客さんに食べさせるつもりでいるの!?」
と私が慌てて突っ込む。
そんなふうに動揺する私に、雫ちゃんは眼鏡をキラリと光らせて言い放った。
「当然です。ダンジョンという奇跡に直面しても、私たちは生活がかかっているんですから、感嘆している暇はありませんよ。現実的で何が悪いんですか」
雫ちゃんのあまりのしたたかさに、ステラも少し気圧されたように「へ、へえ……最近の人間は肝が座ってるねえ……」と冷や汗をかいている。
「あはは、いいじゃんいいじゃん! 私も大賛成かなー!」
と、今度は柚希が手を挙げて割り込んできた。
「ダンジョンでスキル使ってモンスター倒すなんて、まるで異世界転生もののラノベやオンラインゲームの主人公そのものじゃん! そんなのテンション上がるに決まってるでしょ! ねえ、お肉とか野菜が取れるなら、千咲さんの料理の腕前と合わせたら最強のペンションとレストランが作れるよ!」
妹の柚希まで目を輝かせて乗り気になってしまった。我が妹ながら、こういう時の順応性の高さと図太さは大物すぎる。
「ふふっ……面白いじゃない」
そして、これまで静かに事態を見守っていた千咲さんが、ふっと艶やかな笑みを浮かべた。彼女は自分のしなやかな腕を軽く回し、戦闘態勢をとるように肩を鳴らす。
「私には、学生時代に本格的に剣道で全国大会まで目指して鍛えた腕前があるわ。せっかくの美味しい食材が向こうから襲い掛かってきてくれるなら、その腕を存分に生かして、私が一刀両断してあげる」
プロの料理人であり、元剣道少女の千咲さんの目が、獲物を狙うハンターのように鋭く光った。まさか千咲さんまでここまで戦闘狂の素質があったとは、幼馴染みの私ですらも知らなかった。
「皆……すっかり乗り気じゃない……」
私が気圧されていると、ステラは満足そうにニコニコと笑顔を浮かべた。
「いいね、いいね! そういうガッツのある挑戦者大好きだよ! じゃあ、君たちの初期ボーナスDPを使って、食用に向いた美味な魔獣や野菜と果物、ハーブなんかが生息する『豊穣の森』を構築してあげるね! ちなみに、ボクがナビゲーターとしていつでも側に付き添ってあげるから安心して!」
そう言うと、ステラはふわっと光の粒に包まれ、手のひらに乗るほどの小さな、まるで宝石のように輝く妖精の姿へと変化した。彼女は私の肩にピタッと止まり、「よろしくね、マスター!」とウインクしてみせる。
「あ、そうだ。忘れるところだったけど、ダンジョン内にいる間は、外の世界の『時間の経過が止まる』仕様になっているからね。どれだけ長時間探索しても、現実世界に戻った時には1秒も経っていないのさ。だから、夜中のこっそり副業にも最適だよ!」
「時間の経過が……止まる……? それって、タイムロスなしで無限に仕入れやレベリングができるってことですか……?」
雫ちゃんが眼鏡の奥の瞳を期待に輝かせる。その表情は、最高のおもちゃを見つけた子供のようだった。
そして、ステラがパチンと指を鳴らすと、物置部屋の片隅に立てかけてあったガラクタの中から、一振りの本物の日本刀がゴトリと転がり出た。
「ほら、おじい様のコレクションの中にあった魔力を帯びた業物さ。ちゃんとした登録証付きのね。千咲、それを護身用に持っていくといいよ」
「これは……いい刀ね。バランスも素晴らしいわ」
千咲さんがその日本刀の柄を握り、スッと鮮やかな手つきで抜刀してみせる。冷たい刃が物置の薄明かりを反射して、鋭い光を放った。
「よし……!」
私は大きく息を吸い込み、目の前で静かに青い光を放つあの重厚な扉を見据えた。
祖父から引き継いだペンション『星屑荘』を再び活気のある宿に甦らせるため。
そして、私たちが自分たちの手で最高の暮らしを掴み取るため。
この扉の向こうへ、未知なる冒険を求めて踏み出す──。
「皆、準備はいい?」
「いつでもOKだよ!」
問いかけると、柚希が笑顔で答え、千咲さんは静かに刀を納め、雫ちゃんは手際よくステータスウィンドウを閉じながら「さあ、労働の効率化を始めましょう」と不敵に微笑んだ。
私はしっかりと息を整え、皆の先頭に立って、その異世界の扉に手をかけ、一気に押し開いた。




