その11
『伊、礼。石、橋伊、礼。伊礼――』
と頭の中の声とイメージは溢れ続け流れ続けていた。
『お、前た、ちがお、前たち、の世、界が、どう、な、ってもいい、のか?』
と響き、貼り付き、浸透しながら。それら声とイメージの合間に、あるいは同時に、彼らホモ・サピエンスの世界の歴史と未来と現在のビジョンをランダム的かつ乱痴気騒ぎ的に石橋伊礼に見せながら。
そこは、どこかの修道院のようにも見えたし、彼の住むマンションの寝室のようにも見えたし、またあるいは、彼が生まれる以前、まるで母親の胎内……いや、入る前に居た草原の景色のようにも見えたのだが――いや、それでもやはり結局そこは、彼の住むマンションの寝室だったわけだけれども、彼はベッドから転げ落ちていた。ドッシン。と。
そう。彼の、石橋伊礼の身体は、相も変わらず、燃えさかる石炭のように熱を蓄えていたが、落っこちたばかりの床は冷たく、こちらも相も変わらず、どこかで大きな犬は吠え、フクロウとちいさな子どもの投げキッスは、その天井から降り注いでいた。彼は、石橋伊礼は、上半身だけで起き上がると、ベッド脇のナイトテーブルへと手を伸ばした。何故ならそこに、彼のノートはあったから。いつも不用意に送られてくる、どこかの誰かのメッセージ、それらをいつでも、書き止め繋ぎ止めておくためのノートが――「せめて、忘れる前に」
身体が発する熱と、この惑星の重力の呪縛に抗いながら石橋伊礼は、今度は身体全体で起き上がると、ノートを手に取り、また床へと倒れ込んだ――「消されて、たまるか」
ふたたびどこかで、からだの大きな犬が吠え、森フクロウとちいさな子どものくすくす笑いが、天井の、存在しないラウド・スピーカーから、混ざり合い溶け合いひびき渡り合いながら堕ちて来た。どこかで誰かが話していた。
*
「なあ、おい、神が死んだって?」
「ああ、残念なことに、昨夜おそく」
「死因は? 死因は分かっているのか?」
「ああ」
「いったい、なにが神を殺したんだ?」
「どうやら、信じられなくなったらしい」
「誰が? なにを?」
「神が、神の存在を」
*
「ふざけるな」彼は想った。朦朧とする意識の中で、「お前がお前を消したとしても」お前の作った我々は、この地獄を生きて行くんだ――「消されて、たまるか」
そう。絶望はある。どんな時、どんな所にでも。が、しかし、それでも希望はある。どんな時、どんな所にでも。世界の終わりや、終わりすら見えない暗闇の中でも。石橋伊礼は想った。そうしてそれは、その希望は、天に坐しますあのクソ野郎が作りやがった、我々ひとの形をしているハズなのだ――と。そうしてそれは、確かに彼が考えるとおりであった。
彼は書いた。朦朧とする意識の中で。床に突っ伏し、ふるえる手と心で、重力の恩寵に逆らいながら。あふれ出し、ながれ続ける預言とイメージの洪水の中を泳ぎつづけ、溺れつづけながら。
わぉおぉおぉぉおぉぉォオオオオオ――――――ン。
みたび、からだの大きな犬が吠えた。どこかで。が、しかし、
「“犬は吠える、がキャラバンは進む。”」
混沌とした音と言葉と時間と空間の洪水の中、石橋伊礼は、そのイメージをつかみ取った。たしかに。やはり、それは確かにひとの形をしていた。一瞬、例の赤毛のウェイトレスかと想ったが、「いや、ちがう」これはまた、別の少女だ。背が低く、すこしやせている。だけれど誰よりも明るく笑って、あかるい窓の方を眺めている。
「この子を探すのか?」伊礼は訊いた。誰に? もちろん応えはなかった。「せめて、なにか手掛かりを」ひかりで顔がよく見えない。
ひかり、で顔がよく見えない。
あふれる言葉と音と時間の乱舞のなか、青い衣の司祭が言った。
『祝い』と、年老いたその声で。『ひかり』そうして、『お願いです』と、少年のようなその声で、『彼女を救けてやって下さい。』と。そうして――、
*
祝部ひかりが通う学校では今まさに、新たな恋の予感ってやつが芽生えつつあった。
そうして、この新しい恋の予感ってやつは、耳年増で、自分たちはそれに落ちる予定もなければ見込みもないうら若き女子生徒たちにとっては、つねに興味と憶測の対象であるわけだけれど、今回、風見千尋(筋肉バカこと内海祥平の釣り目ダウナー幼なじみ)がもたらした情報は、とくに彼女たちの興味と憶測を刺激することとなった。
『祥平の恋のライバルは、どうやらひとりではなさそうだ』そう彼女は言った。と言うか流した。ブラスバンド部のグループチャットに、『バーガーショップの彼のほか、先名さんも参戦したっぽい』と。
キャーッ!!!!!
と、ブラスバンド部女子部員53名は同時に声を上げた。もちろん。授業中だったし、隠れてスマホを見ていることがバレたら面倒なので、それは声にはならない声だったけれど。
『なになになになに? 先名さんって先名かすみさん? あのスラッと背のたかい?』
『そうそうそうそう。こんど浩子のクラスでジュリエットやる子!』
『うん? なんでその子が祥平くんの恋のライバルになるわけ?』
『ばっかねー、あんた。祥平くんが好きな子を、その先名さんって子も好きってことじゃない』
『あー、そう言えば先名さんとひかりちゃん、同じ中学で仲良かったって聞いた』
『え? え? なに? なに? そっち展開ってこと?』
『ちょっと浩子! そこんとこどうなのよ!実際。クラスでのあのふたりの様子は!』
『え? でもあのふたり、どっちかって言うと距離がある感――』
『いやいやいやいや、浩子さん。ほら、この前イッシーが配役の件でさー』
『あー、なんか先名さんロミオで祝部さんジュリエットにしたいって言ってたわね』
なーにー!!!!!
と、ブラスバンド部女子部員53名は同時に声を上げた。ふたたび。何人かはイスから立ち上がりそうになったが、引き続き授業は継続中だったからそれは抑え、また、隠れスマホの真っ最中だったので、それはやっぱり、声にはならない声だったけれども。
『もーう。なによイッシ―、分かってんじゃない!』
ちなみに。この「イッシ―」とは、ひかり達のクラスの担任、石田文子先生〔32歳、腐女子(百合もいけるよ)、独身、彼氏に振られたばかり〕のことを指します。はい。
『たしかにねー、千尋にはわるいけど祥平くんのロミオはちがうと想ってたのよねー、なんかねー、こうねー、イッメージがねー』
『そうそうそうそう。かっこいいしさわやかだし、顔だけ見たらドストライクなんだけど、ラブロマンス向きじゃないのよねー、祥平くん。千尋にはわるいけど』
『なんでわたしに悪いんだよ』
『で? で? つまりは? 祝部さん中心の三角関係ってこと?』
『いや、バーガーショップの彼がいるから四角関係では御座らぬか?』
『おー、モッテモテじゃん。祝部さん』
『で? で? 祝部さん的には誰が本命とかあるの? 浩子』
『いや、彼女、そういう話あんましないし……』
『え、でも、バーガーショップの彼氏さんなんじゃないの? 昨日の写真見るかぎりでは』
『たしかに。祥平くんには千尋がいるし、祝部さんとは合わない気がするんだよなあ』
『だったら、その彼と先名さんの一騎打ちで御座るか?』
『まーねー、祥平くんならふられても千尋がなぐさめてやれるし』
『おいこら、勝手にわたしを入れるな』
『ふむ。すると我らはどちらを応援すればよいで御座るか?』
うん?
と、ここでブラスバンド部女子部員53名は同時にスマホを打つ手を止めた。ある者は天井向こうの空を見上げ、ある者は腕を組んで足も組み、ある者はまるで3251を37で割ろうとしている初学者のような顔をしていた。そうしてそのため、彼女たちの教師はみな一様に、
「うん? なんだか今日は、妙に静かだな」
と、不思議な感じに襲われることになるわけだが、それもつかの間、その沈黙は、ひとりの部員が、
『あの……さ』と勇気あるチャットをしたことで破られることになる。『わたしは……かすみさんかな? 女の子だけど』
だっよねーーーー!!!!
と、ブラスバンド部女子部員53名は同時に声を上げた。みたび。何人かは実際イスの上でぴょんぴょん跳ねたが、それでもやっぱり授業は継続、スマホを没収されたら元も子もないので、それはやっぱり、声にはならない声だったけれども。それでもやっぱり、
『だっよねーーーー!!!!』と。
なんだかんだで常識が邪魔をしちゃうお年頃ではありますが、それでもやっぱり、
『おんなの子どうしの何がわるいのよ!』とか、
『ぽっと出の他校男子にうちの女子を取られてたまりますか!』とか、
『かすみ×ひかりでロミジュリ見てえ~~』とか、
まあ、そんなこんなをつぶやきながら、結果、ブラスバンド部女子部員53名は、かすみ×ひかりの仲を取り持つため、奮闘努力の真っ最中を開始するになるのでありました。もちろん! 当事者たちのお気持なんかは無視したまま――って、大丈夫かな? こいつら。
(続く)




