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その12


 その日の午後おそく、もう夕刻にもちかい時間帯に、マリサ・コスタは、指定されたホテルのロビーに立ち、窓の向こうの大通りを見ていた。


 すると、フロント向こうの扉がひらき、奥からひとりの女性が現われた。彼女は、マリサの方へと歩み寄り、「うん。ステキね」と彼女のドレスを誉めてくれた。天台烏山の秘書、黒髪小柄のジャンヌ・ダルクだった。


 彼女はグレーのスーツ姿で、高いヒールを履き、背筋を伸ばして胸をはっていた。手には先ほどホテルの者から渡されたばかりの長細いルームキーを持っていた。


「どう?」彼女は続けた。「気に入ってくれたかしら?」マリサのドレスは、彼女が選び部下に運ばせたものだった。


「ここの1019号室よ」が、しかし彼女は、マリサの答えは待たずにそのキーを彼女にわたした。「お相手の方は、後ほど来られます」


 それから彼女は、そのつかれた黒いひとみを数秒、大通りの方へと向けた。通りの向こうでは、太った男がひとり、到底ひとりでは食べきれないであろう誕生ケーキを片手に、ひとり、ひとり暮らしの家へと帰っているところだった。


 彼女――黒髪のジャンヌ・ダルクは、そんな男の、重い足取りに舌打ちひとつをしてから、「ああ、そうそう、それからね」と言って、ちいさなブザーのような物をマリサに渡した。


「お相手の、山岸富士夫さんの性格からしてそんなことはないかと想うけれど」それでももしも、“そんなこと”になった場合は、そのボタンを押しなさい、と。「私と、私の部下が、彼を取り押さえますから」と。


「あの……」マリサは訊いた。やはりそれでも、困惑した声で、「いったい私は、なぜここに?」――“そんなこと”のために呼ばれたのではないのか? と。


「はっ!」とジャンヌ・ダルクはわらったが、「あ、いや、ごめんなさい」とすぐにそれを取り消した。「私はもちろん、天台もそんなことは望んでおりません」――ただおふたりで会って、お話をして頂きたいだけ、と。


「お話?」マリサは訊き返した。


「そう。お話」ジャンヌは答えた。


「どんなお話を?」彼とは初対面なのに?


「なんでも構わないわ」きっと、会話は弾むはずよ。「食事とお酒は、ルームサービスに持って行かせます」


「はあ」


「どうにも片付かない顔ね」


「ええ、それは、やはり」


「ま、仕方ないでしょうがね」


 彼女は小さくそう呟くと、マリサの指にそっと触れ、「それでもやはり」とふたたび彼女のドレスを誉めた。


 彼女が選んだこのドレスは、限りなく黒にちかい青のショートドレスで、例の彼女の小さな事務所には、これによく似たドレスの少女、その肖像画が、一枚しずかに掛けられていた。もちろんマリサは忘れていたが、あれを買って来たのは、天台烏山本人であった。


「それでもやはり」女性はくり返した。「会話は弾むはずよ、あなた達ふたりのね」なんだかすこし、うらやましそうに。そうして――、


     *


 まったく全然うらやましくないどころか、ちょっとした恐怖を感じるくらいに、この日の『シグナレス』も、満員御礼笹持ってこい状態であった。


 いや、正確には、佐倉八千代と木花エマのふたりがバイトにはいる直前までは、鳴かず飛ばずの閑古鳥状態であったそうなのだが、彼女らふたりが店に出た瞬間、



 カラカラカラン。

 カラカラカラン。

 カラカラカラカラカラカラカラン。



 と、出口扉のカウベルはけたたましく鳴り響き、


「あ、ねえ、八千代ちゃん。新しくはじめた“アボカド・サーモン・サンド”と“だし巻き卵サンド”二個ずつお願い」とか、


「すみませーん。八人なんだけど入れますかー?」とか、


『あ、もしもし? ざるそば2つとカツ丼1つ、それにカツカレー丼のBセッ……え? そちら『そば清』さんじゃないの?』みたいな?


 昨日に引き続いて八千代&エマのふたり組みは、どう考えてもその時給では割に合わない量のお客さんをさばき、パンを切り、ハムを乗せ、コーヒーを淹れ、運び、愛想をふりまいては、間違い電話や親とはぐれた女の子の相手なんかをしたりしていた。


 もちろん。さすがの八千代ちゃんも昨日のアホみたいなアホ忙しさにはこりごりしていたので、今日は別に昨日みたいに、


「これはもうもう、たっくさんのお客さんに(新作メニューを)食べてもらわなければ!」


 みたいな余計な電波・念波は出していなかったのだが、それでも、昨日うっかり出しちゃったそれらの余韻と口コミ効果は、拡散し続け増殖し続けたのだろう、今日も今日とて青い扉の『シグナレス』は、美味しそうな匂いと湯気と、楽しそうなお客さまの笑い声とお喋りとで満員御礼笹持ってこい! なのであった。であったがその代わり、


「ねえねえ、エマちゃん、どうする? 捜査? いつがいいかなあ?」


「え? あ、そうねえ、ごめん、その前にこれ、6番さんに持ってって」


「あ、うん、ごめん。だけどやっぱりはやい方がいいと想――」


 ジリリリリリ、

 ジリリリリリ。


「はいはーい。もしもし『シグナレス』で――って、あ、いえ、ですから、ここは『そば清』さんじゃないって何度言えば――」


 あのー、すみませーん。


「あ、はーい。コーヒーお代わりですよねー、すっぐ行っきまーす!!」


 と、例の捜査――八千代ちゃんが夢で見たルートをふたりで歩いてみようってプラン――をいつ実行するか? についての話し合いもままならない状況なのであった。


「だけど、やっぱり、なんだか、はやい方がいいとは想うんだけどなあ……」


 という八千代ちゃんの予言と言うか妙な胸さわぎもおざなりなまま。そうして――、


     *


 そうしてこちらは、ジャンヌ・ダルクの予言、いや預言が当たったワケでもないのだろうが、マリサ・コスタと山岸富士夫の会話は弾んでいた。


「天台さんに呼ばれたはずですが?」


 1019号室の扉が開かれ、マリサをはじめて見たとき富士夫は、当然ながら、強烈な違和感を感じ、妹・まひろの忠告が当たったのかと、すぐさまその場を離れようとした。したのだが、


「すみません。天台さんは急な用事が出来たそうで――」


 と、流暢な日本語で応えるこの外国の女性に、その声に――と言うよりは、その背後に聞こえる合わせ鏡のような反響音に――足を止めると彼女を見詰め、


「遅れはするが、かならず行く。とのことでしたので、ぜひ中でお待ちください」


 と言う彼女に促されるまま、部屋の中へと入って行くことになった。下心がちらとでもなかったかと言えば嘘になるが、それでも、それ以上に、奇妙な懐かしさを彼女に感じながら。


 そうしてまた、ここで急いで補足しておくが、前にも書いたとおり、マリサ・コスタの髪は深いマルーンのブルネットであったが、不思議なことに、このときの富士夫には、そんな彼女の髪の毛が、アッシュに近いシルバーブロンドに見えていたのも、また間違いようのない事実であった。そうして――、


     *


「なるほど。それは賢い甥御さんだ」


「きっと妹に似たのでしょうが、私も主人も、彼には驚かされることが多く――山岸さん、お子さまは?」


「ああ、富士夫とお呼び下さい――小学校の男の子と、幼稚園に通う女の子がひとりずつ。こちらはとても、聡明とは言えないヤツらですが」


「でも、かわいい盛りなんじゃありません?」


「いやいや、下はまだしも、上のほうはどんどん生意気になっていましてね――見ます? 写真?」


 くり返しになるが、山岸富士夫とマリサ・コスタの会話は弾んでいた。不思議なことに、互いの家族の写真を見せ合い、連絡先の交換をするほどまでに。


「あら、息子さんもかわいらしいじゃないですか、もちろん娘さんも」


「そちらこそ。なるほどこれは、利発そうな甥御さんだ。きっと将来が楽しみでしょう」


「私は、彼が仕合せになってくれるならそれこそ普通の仕合せでいいと想っているんですが、夫は「こいつはきっと大物になるぞ!」って、変なプレッシャーばかりかけていまして」


「男親――あ、いや、男はどうしても、そういう視点で男の子を見てしまいますからね」


 山岸富士夫の目はちいさく、ほお骨は高く、長くゴツゴツとした顔の下には大きな口が付いていた。決して不器量とは言わないが、それでもいわゆる美形からはほど遠く、そうしてやはりその顔に、マリサ・コスタは見覚えがなかった。まったく。


「こちら、奥さま?」


「ええ。もちろんマリサさんには敵いませんが、なかなかの美人でしょう?」


「ええ、とっても。かわいらしい方」


「出来た女房ですよ、本当にね」


 が、しかしそれでも、この男と会ってからこっち、マリサ・コスタは、奇妙な既視感、決して現実になったことのない過去のようなものを同時に感じていた。


「女房、美紀って言うんですがね」富士夫は続けた。


 それはひょっとすると、天台烏山のあの秘書が、天台に命じられるがまま、ふたりの食事やお酒になにかしら薬のようなものを混ぜていたためかも知れないが、


「女房がね」


「美紀がですね」


「あいつと初めて会ったのはですね」


 と、息子や娘の話題は次第にうすれ、会話はもっぱら、彼と彼の妻・美紀の話になっていった。とうとうマリサは訊いた。不意に。一種、嫉妬のようなものを感じながら、


「お好きなんですね、奥さまのこと」


 会話が、途切れた。


 富士夫は、自身の会話が、初対面の人に対してあまりにもあけすけになり過ぎていたことを反省し、またマリサは、最後の質問が、あまりにも不躾であったことを反省した。天台烏山は何故、私たちを会わせたのだろうか?


「ええ、それはもう」


 しばらくして富士夫が言った。しぼり出すように。どれだけ自分が彼女を愛し、そうして彼女にどれほどの責任を感じているのかを。


「じつは、あいつは――」


 富士夫は続けた。それでも言葉を濁しつつ。彼の妻・美紀がとある病気に罹っていることを。そうしてそれが、治る見込みのない病気であることを。そうして更には、彼女が病気に罹ったのは、ひょっとすると自分になにか落ち度があったためではないか? と。病院の結果や洗面台の端に置かれた彼女の飲み薬を見るたびにそう想ってしまうことを。なぜか、この初対面の女性に対して、しかし彼女なら、自分の話を親身になって聴いてくれるだろうと、漠然とした確信を持って。


「富士夫さん――」


 ふるえる彼の肩にマリサの右手が置かれた。が、これもひょっとすると、彼らの食事に混ぜ込まれたなにか薬のようなものが影響していたのかも知れないし、またあるいは、窓にうつったマリサの髪が、アッシュに近いシルバーブロンドのように見えていたことと何か関係があるのかも知れなかった。そうして――、


     *


「あれ?」


 と丁度そのころ、富士夫の妹・山岸まひろは、彼女が住むマンションの止まったエレベーターの中にいた。


 いや、正確には、止まったのは時間の方だったのだが、止まった時間の中で、その時間停止から解放されている彼女にとっては、上階行きのエレベーターが急に止まってしまったように感じられたのであった。


「なんだ?」と彼女はつぶやき、目的階のボタンを何度か押した。が、「ボタンが効いてない?」


 そのため彼女は、すこし躊躇ってから、受話器マークの付いた非常ボタンを押そうとしたのだが、そこに、


 ドッゴ!


 とエレベーターの上でナニカとナニカ、重たい空気と別のなにかがぶつかり合うような音がして、かと想えば続けて、


 ドッス!


 とその屋根部分に、なにか肉の塊のようなもの、なにかひょろっとした成人男性のようなものが落ちて来て、彼女の乗ったエレベーターを小さく揺らすのであった。



(続く)


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