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その2

「いえいえ、奥さま、おかまいなく」天台烏山は言った。玄関先に立ったまま、「たまたま近くをとおったもので、ご挨拶でもと」


 彼はひとりで、背広とおなじ黒の中折れ帽をかぶっていて、その微笑みは好々爺と言ってもおかしくはなかった。彼は続けた。


「たしか明日、ご実家の方へ向かわれるとか」中折れ帽をぬぎながら、「今日の昼間、富士夫くんがたいそうさみしそうに話していましてね」


 もちろんこの日、彼らは会ってもいなければ、家族の甲府行きを富士夫は誰にも話していなかった。烏山は続けた。さらに、


「彼のような堅ぶ――あ、しつれい――冷静沈着で意志も信念もつよい男があんな顔をしたのが正直意外で、いったいどんな女性がこの男にこんな表情をさせるのだろうと、とても疑問に、不思議に想いましてね」


 とここで間をおき、さらに微笑をつよくして、


「いやいやたしかに。これは素晴らしい女性だ」ジッと美紀の顔を見て、「どことなく咲子さんにも似ている」


「おばあさまに?」おどろき美紀は訊き返した。


 が、この問いに彼は答えなかった。代わりにいよいよ目を凝らし、彼女の中の“病”を探した。


「天台さん?」彼女のとなりで富士夫が訊いた。「家内がなにか?」


「あ、いや、失礼。つい、むかしのことを」


 それから彼は、さらに微笑をつよめると、どうでもいいような世間話を二三してから帰って行った。この日の彼の、天台烏山の山岸家訪問の意味、意図、目的は、結局美紀にも富士夫にも分からなかった。が、それでも彼はこう続けた――すみませんね、


「すみませんね、奥さま。富士夫くんをお借りして」それから彼女に握手を求め、「彼にしか出来ない仕事をやって頂いているものでね」


 そうして出された彼女の右手を、やさしく、ゆっくり、両手で包み込みながら、


「いまの仕事が終わり次第、彼は貴女にお返ししますよ」そうして、「それから奥さまにも、ささやかな贈り物を」と。


 くり返しになるが、この日の彼の、天台烏山の山岸家訪問の意味、意図、目的は、結局だれにも分からないままだった。


 が、しかし、この数週間後、彼女の、美紀の、不治と言われた遺伝性の病が、まるで最初からなかったかのように消えてしまったことは、敢えてここに書き残しておいてもよいだろう。


 そうして――、


     *


 そうして、二段ベッドのうえにあがると、そのポスターはよりよく見えた。


 天井に貼られた、B2サイズの大きなポスター。


 それは、ひかりも知っているような昔の、だけれどいまでも有名なあるロックバンドの、メジャーデビュー用のアルバムポスターで、だけどそこには、メンバーの写真なんかはどこにも載っていなくて、ただただ、大きな木星の写真がうつっているだけの、そんな素敵なポスターだった。



『ふかい闇に飲み込まれないように、

 精一杯だった。

 きみのふるえる手を、

 にぎろうとしたあの日は。』



 アルバムがリリースされた同じ年の同じ月、静岡在住のある男性が、中国在中の友人と一緒にひとつの彗星を見つけた。周期はおおむね370年ほど。発見時の位置はくじら座の尾のあたり。明るさは約9等級で、この彗星にはいま、ふたりの名前が冠されている。



 『いままで見つけたモノは、

  全部覚えている。

  きみのふるえる手を、

  にぎれなかったいたみも。』


 

 この年日本では、右の彗星をはじめとして計5つの新彗星が発見された。普通はあっても1つか2つ、見つからない年も当たり前のようにあるので、ちょっとした新発見ブームと言ってもよかったのかも知れない。



 『背が伸びるにつれて、

  伝えたいことも増えてった。

  宛て名のない手紙も、

  くずれるほどにかさなった。』



 そうして、もちろんこれは余談だし、作者の妄想でしかないのだが、この新発見ブームの裏には、このアルバムにも収録されたひとつの楽曲――それはアルバムリリースの一年ほど前に発表されたシングルだったが――が少しは影響しているのかも知れない。



 『ぼくは元気でいるよ。

  心配ごともすくないよ。

  ただひとつ、

  いまも想い出すよ。』



 なぜなら、この家の孫のひとり――それは、いまひかりが座っているベッドのかつての住人、あの朴念仁のことを言うのだが――も、望遠鏡を取り出すと、おさない妹を連れ出して、夜空を見上げたことがあったからである。



 『予報はずれの雨に打たれて、

  泣き出しそうな、

  きみのふるえる手を、

  にぎれなかったあの日を。』



「ふーん」と、そうしてひかりは手を伸ばした。「これ、あのひとのかな?」とポスターにさわろうとして、「音楽とかきくのかな?」


 ポスっ。


 途中でやめて寝転がった。


 この部屋で、花盛りの二階のこの子ども部屋で、いま彼女はひとりだった。と言うのも、例の赤毛とこの家の悪魔が新しいお客さまを連れて来て、


「ひかりさまは、しばらくこちらで待機していてください」


 と彼女をここに押し込んだからである。大人の話があるとかなんとか、よく分からない理屈をならべて。


「ふーん?」と彼女はうなった。寝返りを打ち、「あの子も連れてくればよかったな」と言った。


 「あの子」とは、彼女のお気に入りのクマのぬいぐるみのことで、あまりに突然に祖母に会い、この家に来ることになったので、元のマンションに置いて来てしまったのである。


 前にもどこかで書いたと想うが、あのクマと彼女は大の仲良しで、一緒に色んな冒険をして、小さいころの彼女は、あのクマが横にいないとうまく眠れないほどであったし、それにそもそもあのクマは、とあるおもちゃ屋で、彼にひとめぼれしたひかりが、はなれた場所にいた彼女の父親に無理を言っ――、


 ガバッ。


 と、ここで彼女は起き上がった。急に起き上がったのでちょっと腹筋が痛いくらいだった。そうして、


「あれ?」と彼女はつぶやいた。「だれ? いまのひと?」



(続く)


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