その2
山岸まひろは、このふざけた東京という街が大好きだった。
とは言ってももちろん、彼女が知っているのは生まれ育ったここ北西部周辺エリアだけだったけれど。
だったけれど、それでもやっぱり、ちょっと足を運べばお洒落なお店はたくさんあるし、お洒落なお店がない場所だって、お洒落じゃないなりの味わいがある。
マンションから見える大きな公園では、家族連れがはしゃいだりわめいたりしながら、飼い犬に逃げられた男の子はその子の名前を叫びながら池のまわりを行ったり来たりしている。池のほとりのベンチには、告白前のカップルが、手もつなげずに黙り込んでいる。
そう。
山岸まひろは、このふざけた東京という街が大好きだった。
夏は暑いし、冬は寒いし、春や秋も言うほどステキじゃないけれど、それでも、ここには彼女が好きなものや、彼女を好きでいてくれるものがまだまだいっぱいあったから――なのだが、
「だいじょうぶか? まひろ」兄の富士夫が訊いた。「なんだかぼーっとして。しんどいようなら、おばあさまの家に行くのはまた今度にするぞ」
ここは、まひろが住む高層マンションの一室。昨日、彼らの祖母から彼女の遺言作成の件を聞いたまひろが、それを富士夫に相談したところ、
「いや、俺はなにも聞いていない」と、父の急死と相続で苦労したばかりの彼が、「なんでいつも俺だけあと回しなんだ」
と一度ふたりで改めて、祖母に話を聞きに行こうということになったからであった。であったが、
「なんでもないよ兄さん」そう返すまひろの声は、やはりそれでも、何やら元気がない様子であった。「行ける行ける。大丈夫」
と言うのも、この時まひろは、昨夜見た夢――世界が終わるときの夢――の景色が忘れられず、その景色と自分が犯したであろう、犯すことになるであろう罪――それがどんな罪かはまだ分からないが――にこころをえぐられ、痛ませていたからである……と書くと、なんかちょっとちがうな。
そう。
たしかにそれらの罪も気になりはしたが、それでも、それ以上に、彼女のこころを惑わせ狂わせ痛ませていたのは、花盛りの庭とともに想い出した、想い出した気がした、ひとりの女性のすがた、その印象だったからである。
そう。
それは彼女に、いつかのどこか、一度も現在になったことのない過去、手に入れる前に失くしてしまった幸福、そんなような、夢のなかで見る夢、記憶の海に立ち現れては消えて行く偽物の記憶、だけれど、覚めてもなお、胸をさわがす雨に散る花、そんなような印象を与えていたからである。
そう。
昨夜の夢は彼女に、いまの彼女が気付いていない小さな痛み――時間と記憶と空間の積み重なりの中で空いてしまった小さな胸の秘密の穴――を彼女に想い出させようとし、そのことがなにやら、彼女から元気を奪い去らせていたのである。
そう。
実際のところ人間は、生涯に一度か二度、あるいは三度、すばらしいチャンスってやつに出くわすことがある。があるが、しかし、そのどうしても逃したくないすばらしいチャンスってやつを逃してしまうと人間は、あとには決して埋められそうもない小さく暗い穴を、その心にポッカリ空け、身震いするほど自身をさいなむことになる。なるのだが――、
そう。
それではその、彼女、山岸まひろが逃してしまった、一度つかんで手放してしまった、すばらしいチャンスってやつが一体どのようなものであったのか?
それは、この後の物語でいずれ語ることにして、取り敢えず今は、その現れ切らない何かの記憶が、彼女から元気を奪っていた――という事実だけを示して、物語を進めることとしよう。富士夫は言った。
「あ、おい、こら」と、ふらつくまひろを支えながら、「本当にどうしたんだ? おまえ」不愛想だが妹を想いやるような口調で、「やっぱり外出は止めておこう」
「ご、ごめん、たちくらみかな?」まひろは応えた。ソファから立ち上がろうとした瞬間、足もとがふるえたからである。
「いや、にしては顔色が悪いぞ」富士夫も応えた「食事や睡眠は? きちんと取れているのか?」
まひろは、昨年の春ごろまで、富士夫の家で、彼の家族とともに暮らしていたのだが、仕事その他の事情もあり、いまは兄の紹介したこのマンションでひとり暮らしをしているのである。
「どうする? 美紀に言って来てもらうか?」富士夫は訊いた。美紀とは彼の妻である。「食事でも作ってもらいに」
「いや、いいよ兄さん」まひろは答えた。「もう子どもじゃないし。義姉さんに来てもらうほどじゃないよ」
「本当か?」
「大丈夫。作り置きのおかずもあるし、すこし休めば、すぐよくなるさ」
(続く)




