その3
「ひかりは? もう出たのか?」祝部優太は訊いた。メガネのレンズを拭きながら、「バス停まで一緒に行こうかと想ったんだが」
「あら、今朝はゆっくりなのね」と彼の妻・祝部守希は応えた。彼のほおに口づけしながら、「文化祭の準備があるとかで、いつもより早めに出ましたよ」
彼らが住むのは、どこにでもあるような建て売りの二階屋。駅まではとおく、けっして広いとは言えなかったが、それでも住環境はよく、高校も近くにあり、キッチンの小窓からは小さな実の生る庭も見えた。
「最近、外回りが多くてね」優太も応えた。すこし時計を気にしつつ、「今日もこれから直行・直帰さ。深山と一緒に――文化祭?」
「そうよ」守希は言った。「今年から時期を早めるんですって――彼女元気? 深山さん」
「去年はお芝居だったな」優太は応えた。「お姫さまの付き人A――あいつはいつでも元気さ、俺なんか要らないくらい」
「また食事に誘いなさいよ。わたし好きよ、あの人」
「え? まあ、あいつがいいって言ったらな――しかしやはり、ひかりの方が似合ってたと想わないか? あのお姫さま。ほら、あの子、同級生の――」
「かすみちゃんね。でも、あの子きれいだったわよ、舞台映えもしてたし。ひかりはホントは、裏方の方が好きだって言うし」
「でもほら、あの子はちょっと……、その、きついところがあると言うか、とっつきにくいところがあると言うか、それに比べてひかりはだな――」
「あなた」とここで守希は言った。すこし強めの口調で。だけれどすこし笑いながら、「親バカが過ぎます」
優太は黙り、すこし考えるふりをした――「そうかな?」
「そうよ」守希は答えた。優太の手を取り、「若い子はみんなきれいよ。ひかりも含めて。いっつも嫉妬しちゃうんだから」
「いやあ」優太は応えた。守希の顔を見詰めて、「お前にはかなわないさ」
「あら、お上手」
「本気さ」優太は続けた。「ひかりが、あんないい子に育ってくれたのも、お前がいてくれたおかげさ」
くすっ。と守希はわらい、優太をかるく抱きしめた――「たしかにそうね」
「たしかにそうね。あなたひとりだと、甘えん坊のわがまま娘になってたかも知れないものね」
ふたたび優太は、すこし考えるふりをしてから――「そうか?」
「ほら、分かってない」守希は答えた。彼の首に手を掛けたまま、すこし離れて、優太をたしなめる口調で、「嫉妬しちゃうって言ったでしょ?」
それからふたりは、黙ってしばらく見つめ合っていたのだが、不意に守希が、「しあわせよね?」と優太に訊いた。「しあわせよね? 私たち」
「ああ、」優太は応えた。ふたり目の子どもも流れたあの日、彼女が二度と子どもを産めないと分かったあの日、まさかこんな幸福な日々が訪れようとは、あの日の彼に伝えても信じてはもらえないだろう。
「愛してるよ、守希」優太は続けた。闇におびえて泣いたのは、もう、とおい昔のことではなかったか。「ひかりが来てくれて、本当によかった」
誰にもあの子を渡すわけにはいかない。そう、彼は想った。
*
「あ、あと、そこのレモンクッキーもお願いします」
さて。
と言うことで。樫山ヤスコには行きつけのカフェと喫茶店とコーヒーショップがそれぞれひとつずつあった。
もちろん。カフェと喫茶店とコーヒーショップの厳密な違いを彼女が知っているわけもなければ、わざわざその違いをネットで調べるような面倒をする彼女でもないわけだけれど、要は、なーんとなくの気分と雰囲気でこれら三つを彼女は使い分けていたわけであり、そうして本日彼女は、その中のひとつ、ちょっとお洒落なコーヒーショップへと来ていたわけである。何故なら彼女は、締め切り間際の原稿に行き詰っていたからである――「である」をくり返し使うほどに。
そう。
前にもすこし書いたとおり、樫山ヤスコは(まったく)売れない小説家であった。
文才は乏しく、運には見放され、売れないからって来るもの拒まずで仕事をしてたら、いつしか「貧乏暇なし」的締め切り地獄に自ら飛び込んだ形になっていて、そのくせ生まれついての小心者でもあるもんだから、とにかく、どうにかこうにか締め切りまでに作品をでっちあ――失礼、完成させることにのみ腐心するという「それってクリエーター的にどうなの?」と自分で自分を責め苛むような気分にもしばしばなったりするけれど、それでも結局、「落ち込んだりもするけれど、わたしは元気です」とばかりに取り敢えず、その締め切り対策の一環として、これらカフェとか喫茶店とかコーヒーショップへの逃避行――失礼、気分転換の移動はあるわけであって、それにもちろん、この物語はフィクションであるからして、実在の人物・団体とは一切関係もなければ、ヤスコ先生のモデルとなるような人物も存在しないことを急いで付言しておきたいと想うのだけれ――悪いのは締め切りなんだよっ!(落ち着け)
って、あれ? 話がそれ過ぎてなんの話か分からなくなっ……えーっと? なんの話だったっけ……? って、ああ、そうそう。
つまり。実際問題、なにかの本でカポーティだかヘミングウェイだかも書いていたとおり(多分)、「自分を移植させ物語を動かすためには、現実に場所を移動させるのがよい」というのはやはりあるもので、このカフェとか喫茶店とかコーヒーショップに来ることで彼女は、止まっていた主人公たちの会話や、エッセイの次の展開を想い付くといったことがよくあったワケである。季節限定のクッキーは美味しいし、隣の席の夫婦の会話や、店を訪れる客の佇まいなんかが刺激となることもあったので――と言うことで。
と言うことで。ここで一人の若い女性が店に入って来て、窓際の席に腰を下ろすことになった。彼女はとてもきれいな脚をしていて、その両脚は、ヤスコのテーブルのちょうど真正面で組まれることにもなった。
「ほぉ」と、店中の野郎どもは溜め息を漏らし、それにつられる形でヤスコも溜め息を漏らした。女性は一瞬、ヤスコの方を向くと、軽くほほ笑んでから、目を窓の外へと向けた。
すると、そのほほ笑みに触れたヤスコは、すぐに気持ちが乱れ、平静さを失いそうになった。締め切り間際のこの連載でもいいし、先日頼まれ放っておいたあの短編でもいい、なんなら単発エッセイや、趣味で書いてるブログ用でもいいのだが、それらのどれかに彼女を登場させたい――そう彼女は想った。
そう。これも前にすこし書いたが、ヤスコは女性同性愛者で、特にきれいな女性には――って、これはヤスコのような女性同性愛者に限られた話ではないけれど――憧れにも似た興味とインスピレーションを与えられることがしばしばあった。
が、ただまあ、そうは言っても、例によって例のごとく、彼女は奥手で、自分に自信がなく、実際器量もそれほどよくなく(うるさいなあ)、原稿の締め切りも刻一刻と近付いていたため、そんな彼女に、窓際の彼女に声をかけたりほほ笑み返しをしたりする時間的余裕もなければ心理的余裕もないわけで、その代わりと言うか何と言うか彼女は、目の前のノートパソコンを見詰めると、そこにそのまま、想い付くまま、想い付いたまま、あるストーリーを書き始めることになったし、書き始めて直ぐに、「声をかけなくてよかった」と想うことにもなった。何故なら、窓際の彼女は、外の街路と店の入り口双方を同時に見られるような座り方をしており、それはきっと誰かを、たぶん男を、待っている座り方だったからである。
そう。
そうして彼女は書き続けた。窓際の彼女を手掛かりとした物語を。ときおり顔をあげ、窓際の彼女をそっと見詰めたが、しばらくするとその必要もなくなっていた。世界と――あらゆる世界とつながり、時間も空間も忘れて、彼女は物語を書き続けた。注文したココアは冷えて、いくらか澱が付いていたし、その存在すらも彼女は忘れていたけれど。
「“きっといまでは、”」最後の一節を彼女は読み直した。「“きっといまでは、彼女にも名前が与えられているのだろう。”」そうしてすこし考え、文を直して付け加えた。
「“きっといまでは、彼女にも名前が与えられていることだろう。とても素敵な――いや、素敵じゃなくてもいいけれど、それを呼んでくれる誰かがいるなら。”」
ふー。
とひと息吐いて顔をあげ、窓際の彼女をヤスコは探した。が、そこにはもう彼女はいなかった。きっと男が来たのだろう。まともな男ならいいのだけれど。そんな風に想うと彼女は、途端に力が抜け、結局、締め切り間際の原稿は一行も進んでいなかった。なんだか少し、悲しい気分になって、澱の付いたココアをすすった。
「あれ? お嬢さん?」とここで誰かが彼女を呼んだ。「ほんとだ。どうしたんです? 偶然ですね」
声のする方を見ると、そこには、亡くなった父の部下、小紫かおるが、ながいアイスコーヒーを持ってストン。と立っていた。
「よければ、ご相席してもいいですか?」
(続く)




