第7話 普通じゃない記録
翌朝、レインは前日に自分で決めた時刻に宿を出ると、手帳へ書いた予定どおり、小規模な遺層の外縁部へ向かった。誰かの後ろについて進むのではなく、自分で選んだ依頼のために歩いているという事実は、昨夜頁の端へ書き足した『単独』という二文字よりも現実味があり、同時に、これまでなら前方にいたレオンハルトやバルクの背中がないことも、足を進めるほどはっきりと感じられた。
だからこそレインは、いつも以上に急がず、入口へ着くまでの道の状態や周囲の人の出入りまで確認しながら進んだ。単独で動く以上、戦闘になってから考えるのでは遅く、自分にできることは危険そのものを減らすことだと昨日決めていたため、遺層へ入る前から帰路に使えそうな道と、人が多く通っている場所を記録し、入口の近くでは靴底についた土の色まで見比べて、どの方向から戻ってきた者が多いのかを確かめた。
外縁部へ入ってからも、レインは依頼票に書かれていた範囲を越えないよう、壁の崩れ方、足元の湿り方、古い傷と新しい傷の違いを一つずつ手帳へ残していった。目的は通行可能な経路と周辺状態の確認であり、奥へ進むことでも魔物を倒すことでもなかったため、目立つ痕跡を見つけても追いかけず、少しでも危険の可能性がある場所には、戻るための目印だけを残して距離を取った。
それでも、一人で歩いていると、これまでなら気づかなかったことがあった。誰かの足音や会話がないぶん、石が転がる音や遠くの物音がはっきり聞こえ、自分が立ち止まれば周囲も止まったように感じられるため、観察には都合がいい反面、その静けさの中で何かが動いたときには、すべて自分で判断しなければならないという緊張も強かった。
しばらく進んだ先で、通路が二つに分かれている場所へ出たとき、右側の壁際に新しい擦れ跡が続いていることへ気づき、レインはそこで足を止めた。擦れ跡そのものは小さかったが、同じ高さにいくつも続いており、床には細かな石片が落ちているため、壁か天井の一部が最近動いた可能性がある。
手帳へ位置を書き込んでいると、背後から足音が近づき、少ししてから明るい声が飛んできた。
「ねえ、そこ通らないの?」
振り返ると、剣を腰に下げた少女が立っており、年齢はレインより少し下に見えた。装備だけを見れば近接戦を行う冒険者なのは分かったが、レインはそれ以上を勝手に決めつけず、もう一度右側の通路へ視線を戻した。
「今は通らない方がいいと思う。壁に新しい傷があるし、床にも落ちたばかりの石が多い」
「でも、こっちの方が近そうじゃない? 奥まで続いてるし」
「近いかどうかは分からない。それに、崩れたら近道でも意味がない」
少女はすぐには納得しなかったらしく、レインが見ていた壁へ近づき、傷と石片を順番に確かめてから、少し眉を寄せた。
「あなた、ずいぶん慎重なんだね」
「一人だから、戻れなくなる方が困る」
「それは分かるけど、全部気にしてたら全然進めなくない?」
言い方に悪意はなかったものの、思ったことをそのまま口にするタイプらしく、レインは反論する代わりに手帳を開き、少し前に通った別の分岐で記録した崩れ方との違いを見せた。似た高さに新しい擦れ跡があり、その近くで細かな石が増えていた場所は、実際に天井の一部が落ちて通路が狭くなっていたため、同じ状態なら無理に通る理由はないと説明すると、少女は手帳と壁を何度か見比べた。
「……じゃあ、左にする?」
「俺はそうする」
「言い切らないんだ」
「安全だと断定できるほど見ていないからな」
その答えが少し面白かったのか、少女は小さく笑ったあと、結局レインと同じ左側の通路へ向かった。二人で行動すると決めたわけではなかったが、目的地がしばらく同じらしく、自然と前後する形になったため、レインは相手の邪魔にならない距離を取りながら進んだ。
「私はミラ。ミラ・ヴェルディ。あなたは?」
「レイン・アークス」
「一人で調査?」
「ああ。外縁の経路確認を受けている」
「記録専門?」
「刻印は《記録》だ」
その答えを聞いたミラは、少しだけ考えるように目を細めたものの、露骨に失望したり笑ったりはしなかった。ただ、「じゃあ本当に戦うのは得意じゃないんだ」と確認するように言ったため、レインも否定せず、「直接戦う力はほとんどない」と答えた。
「それで一人で遺層に入るの、結構思い切ってない?」
「だから外縁だけにしている。危険が増えたら戻るつもりだ」
「そこはちゃんとしてるんだね」
ミラはそう言ったあと、前を向いて歩き出したが、少し先で床の砂を踏んだ瞬間、脇の暗がりから小型の魔物が飛び出した。レインはそれより少し前、壁際の砂に同じ方向へ続く細い跡があることへ気づいていたため、完全に不意を突かれたわけではなく、魔物が姿を見せるより先にミラへ声をかけた。
「右から来る」
ミラは迷わず剣を抜き、刃へ魔力をまとわせると、飛び込んできた魔物の動きに合わせて一歩だけ踏み込み、その勢いを利用するように斬り払った。戦闘そのものは短く終わり、ミラはすぐに周囲へ目を向けたが、レインは倒れた魔物より、出てきた場所と足跡の向き、砂の乱れ方を先に確認していた。
「今の、見えてたの?」
「姿は見えていない。足跡が右へ続いていた」
「それだけで分かる?」
「同じ大きさの跡が途中で消えていたから、壁際に入った可能性が高いと思っただけだ」
「……やっぱり細かいなあ」
褒めているのか呆れているのか分からない口調だったため、レインは特に返事をせず、魔物が出てきた位置を手帳へ書き足した。ミラはその様子を見ながら、「戦闘が終わった直後に書くんだ」と言ったが、レインにとっては忘れる前に残す方が自然だったため、「あとだと位置がずれる」とだけ答えた。
◇
その後、二人は同じ方向へ進みながらも、ミラが先へ行こうとするたびにレインが一度周囲を確認し、レインが細かく記録を取りすぎるとミラが「そこまで書く必要ある?」と聞くような、少し噛み合わないやり取りを何度か繰り返した。レインは急ぐ理由がなかったため自分の速度を変えず、ミラも最初こそ少し退屈そうにしていたが、危険そうな場所を事前に避けられることが続くと、次第に立ち止まっている理由を聞くようになっていった。
外縁部の確認地点へ着いたころには、レインの手帳には入口からの経路だけでなく、足場が悪い場所、壁が新しく崩れている位置、人の出入りが多そうな分岐、魔物の痕跡があった場所まで書き込まれており、帰り道では必要のない箇所を整理しながら、ギルドへ提出する情報と自分用に残す情報を分けていた。
ミラはその作業を横からしばらく眺めたあと、とうとう我慢できなくなったように手帳を覗き込み、頁を指さした。
「これ、全部あなたが調べたの?」
「普通だろ」
レインは本気でそう思っていたため、特に謙遜するつもりもなく答えたが、ミラはすぐに首を横へ振った。
「普通じゃないよ」
その一言に、レインは一瞬だけ言葉を失ったが、褒められたことが一度もなかったわけではない。地図を渡せば助かったと言われることもあり、危険を避けられれば判断が早かったと言われることもあったものの、それらはいつも攻略を進めるための便利な仕事として受け取られており、レイン自身も、それ以上の意味があるとは考えてこなかった。
ミラの言葉も大げさな賞賛ではなく、彼女はすぐに「ただ、書き込みが多すぎて初めて見る人には分かりにくいし、慎重すぎて一人だと全然奥まで行かなそう」と続けたため、手放しに褒めているわけではなかった。それでも、何が書かれているのかを実際に見たうえで、それをレインにとって当然の雑務ではなく、普通ではないものとして受け取った人間は、少なくとも彼の記憶の中にはほとんどいなかった。
「分かりにくいなら直す」
「そこじゃなくて。まあ、それも直した方がいいけど」
ミラは少し呆れたように笑い、それから頁の端に並んだ注意書きを見ながら、「こういうの、昔からやってたの?」と聞いた。
レインは答えようとして、そこで言葉を止めた。十歳を過ぎたころの出来事なら、順番や場所をそれなりに思い出せるのに、それより前のことを具体的に辿ろうとすると、いつも輪郭が曖昧になり、何か重大な出来事を忘れているという感覚があるわけではないため、単に古い記憶だから薄れているのだと思っていたし、家のことを思い返そうとすると妙に考えづらくなることも、これまでは昔のことを意識して避けてきたせいだろうと片づけていた。
「……分からない。十歳より前は、あまり覚えていない」
「そうなんだ。ごめん、聞かない方がよかった?」
「いや。昔のことだから、曖昧なだけだと思う」
レインがそう答えると、ミラはそれ以上踏み込まず、「なら今覚えてる分を使えばいいか」と簡単に話を切り替えた。その切り替え方が、気を遣っているのか本当に深く考えていないのかは分からなかったが、レインにとっては問い詰められるより楽だった。
帰路につくころ、ミラは何度かレインの手帳を気にしており、最後には「明日もこの辺を調べるの?」と尋ねた。
「今日だけでは確認できていない場所がある。依頼の範囲で、もう一度見るつもりだ」
「じゃあ、見かけたらまた一緒に行ってもいい? あなたの慎重さはちょっと面倒だけど、先に危ない場所が分かるのは便利だし、私が前にいるなら、今日みたいな魔物くらいは対応できる」
便利だと言われた瞬間、レインは《蒼天の剣》にいたころと同じ言葉だと思ったものの、ミラはそこで話を終わらせず、少し考えてからもう一つ理由を付け加えた。
「それに、その記録、もう少しちゃんと見てみたい。あなたが普通だと思ってるところ、たぶん結構ずれてるから」
レインは返事をする前に、先ほどの「普通じゃないよ」という言葉を思い出した。追放されたときでさえ、自分が何を言えばいいのか分からなくなることはなく、決まったことなら受け入れ、必要な記録を残し、次にすべきことを考えればよかったのに、今はたった一言をどう受け取ればいいのかが分からず、手帳へ書き残すなら何と書けば正確なのかさえ、すぐには決められなかった。
「分かった。明日も来る」
結局、口から出たのはいつもと同じ短い返事だったが、ミラはそれで十分だったらしく、「じゃあ、また明日」と手を振って先に歩いていった。
レインは少し遅れて歩き始める前に手帳を開き、今日出会った人物の欄へ『ミラ・ヴェルディ。魔剣士』と書いたあと、その下へしばらく何も書けずにいた。やがて、記録として必要かどうかを判断できないまま、『記録を見て、普通じゃないと言った』と一行だけ付け加え、その文字を消さずに頁を閉じた。




