三話 平均点の死守線
前回はほんとすみませんでした。
温かい目でお読みください。
朝の台所は、いつも父親の方が先に動いている。
一之瀬 誠。年齢の割に若く見えると言われるらしいが、本人はあまり気にしていないようだ。
「おー、はる。おはよう」
「……おはよう」
陽が椅子を引いて座ると、すでにトーストと目玉焼きとコーヒーが並んでいた。父親は自分のマグカップを持ちながら、陽の向かいに座った。
「高校はどう? 楽しい?」
「……普通」
「そっか。今日、学校で何かあるの?」
「新体力測定があるけど、なんで」
「なんとなく。顔が若干めんどくさそう」
「いつもこの顔だ」
「そっか」と父親は笑った。
「ああ、そういう時期か。まあ無理しすぎるなよ」
それだけだった。それ以上踏み込んでこないのが、この父親のいいところだと陽は思っている。トーストをかじりながら、窓の外を見た。今日も晴れていた。
食べ終わって立ち上がると、父親が「いってらっしゃい」と言った。
「……いってきます」
玄関を出ると、隣の家のドアがほぼ同時に開いた。
「あ、はる。おはよ」
日葵だった。今日も制服に一分の隙もない。どこからどう見ても優等生の朝だ。
「おはよう」
「今日、新体力測定だね」
「……ああ」
「はる絶対何か考えてるでしょ」
「普通にやる」
「はいはい」
日葵はくすりと笑って、陽の隣に並んだ。二人分の足音が、静かな住宅街に響いた。
通学路はいつも同じだ。商店街を抜けて、川沿いを歩いて、緩やかな坂を上ると校門が見える。十五分ほどの道のり。
「結愛ちゃん、昨日LINEくれたんだよね」
「……何話したんだ?」
「はるのこととか、他にもいろいろ」
陽は少し黙った。
「なんて答えた」
「『同じクラスのお友達です』って」
「……嘘は言ってないな」
「でしょ」と日葵はにこりとした。
「ねえ、結愛ちゃんって面白い子だよね。直感鋭そうで」
「鋭すぎる。あれは天敵だ」
「ふふ。まあ頑張って」
校門が見えてきたところで、日葵はすっと背筋を伸ばした。表情が切り替わる。
「じゃあね、一之瀬くん」
「ああ」
日葵は人の流れに混じって歩いていった。陽は少し遅れて校門をくぐった。
ホームルーム。担任が出席を取り終えてから、思い出したように言った。
「あ、そうだ。今日の三限、グラウンドで新体力測定やるから。動きやすい服装で来るように。種目は立ち幅跳び、反復横跳び、上体起こし、長座体前屈、そして50m走だ」
それだけ言って、担任はさっさと連絡事項に移った。
陽は内心で静かにため息をついた。
新体力測定。つまり、全種目で数字が残る。数字は嘘をつかないが、人間はつける。今日は全力でその数字に嘘をつく必要がある。
「やばー、体力測定苦手なんだよね」と結愛が前の席の女子に話しかけている。颯太は「俺得意だわ、全部上狙う」と当然のように返した。日葵は手帳に何かを書き込みながら、ちらりとこちらを見て小さく笑った。
今できるのは何も起きないことをことだけだった。
一限は現代文だった。
教師が黒板に板書しながら、教科書の一節を読み上げている。陽はノートを開いたまま、窓の外を眺めた。桜がまだ少し残っていた。
(……新体力測定か。立ち幅跳びは平均が大体190cm前後。反復横跳びは50回前後。上体起こしは28回前後。長座体前屈は45cm前後。全部そのあたりで揃えればいい。問題は50mだ。平均タイムは七秒台後半から八秒前後。八秒一くらいで出しておけば自然か)
「一之瀬、ここ読んでくれるか」
担任に指名された。陽は立ち上がり、抑揚なく教科書を読んだ。
「……はい、結構。次、朝倉」
座る。また窓の外。桜が風に揺れた。
二限は数学だった。
教師が解法を説明している。陽はノートに式を書き写しながら、頭の別の部分で各種目のシミュレーションをしていた。
立ち幅跳びはスタートの踏み込みをわざと浅くする。反復横跳びは中盤でリズムを微妙に崩す。上体起こしは最後の数回をゆっくり丁寧にやる。長座体前屈はそもそも誤魔化しやすい。
(問題はやはり50mだ。スタートをわずかにもたつかせて、中盤で若干ペースを落とす。ゴール手前で少し上げれば、タイムは自然と平均に収まる。風向きだけが読めない変数だが……まあなんとかなる)
「一之瀬、この問題解いてみろ」
また指名された。陽は立ち上がり、黒板に式を書いた。正解だった。
「……よし、座れ」
颯太が「お、やるじゃん」と小声で言った。陽は答えなかった。
三限。グラウンドに出ると、五月の風が気持ちよかった。
男女混合で種目ごとに計測していく形式だった。体育教師が手際よく説明を終えて、最初の種目に入った。
一種目目は立ち幅跳び。
陽は踏み込みをわずかに浅くして、189cm。教師は何も言わなかった。完璧だ。
次に反復横跳び。
中盤でリズムを微妙に崩して、51回。颯太は62回叩き出して「よっしゃ」と拳を握っていた。結愛は「すごーい」と素直に感心している。陽は誰にも見られていないことを確認してから、静かに息をついた。
その次に上体起こし。
29回。教師は淡々と記録した。
長座体前屈。
46cm。これはほぼ素のままだ。誤魔化す必要もなかった。
順調だった。このまま50mを乗り切れば、今日も完璧な「平均の一日」で終わる。
そして最後の種目、50m走。
体育教師が計測係を決め始めた。
「じゃあ計測は……星乃、お前やれ」
結愛が「はーい」と元気よく手を挙げた。ストップウォッチを受け取りながら、ちらりと陽を見て笑った。
「一之瀬くん、しっかり計ってあげるね」
「……頼む」
陽は内心で舌打ちした。よりによってこいつか。
順番が回ってきた。陽はスタートラインに立ち、隣の男子と並んだ。
(スタートをもたつかせて、中盤で落として、ゴール前で少し上げる。八秒一。それだけでいい)
体育教師の笛が鳴る。
スタートをわずかにもたつかせ、中盤で微妙にペースを落とす。ゴール手前で少しだけ上げる。完璧な計算だった。
「……八秒〇二!」
結愛がストップウォッチを見ながら声を上げた。陽は息を整えながら、内心でガッツポーズをした。完璧だ。
「一之瀬くん、もう少し速くなれそうじゃない?」
「……これが俺の限界だ」
結愛は少し首を傾けた。何かを言いかけて、やめた。その代わりにストップウォッチに視線を落として、小さく呟いた。
「……ふうん」
その「ふうん」が、妙に引っかかった。
授業が終わり、陽が着替えを済ませて教室に戻ろうとした時だった。体育教師が小走りで近づいてきた。
「一之瀬、ちょっといいか」
周りに人がいないことを確認してから、教師は声を潜めた。
「……すまん。さっきの計測なんだが、ストップウォッチの不具合があったみたいでな。何人か測り直しになるんだ。お前もその中に入ってて……放課後、もう一回走ってもらえるか」
陽は表情を変えなかった。
しばらく間があった。
「……嘘ですよね、先生」
体育教師は、目を逸らした。
もう一話あげます




