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山界の剣士 01

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 雲上月鼈の力量差を覆し得るか。

 悉くを絞り尽くし、心身ともに摩耗している。

 窮余の一策も浮かべば逆転の芽もあろうが、とうに極限を超えた脳は冴えを失っていた。

 対して、我が師──剣道界五大タイトルのうち剣聖位を連続五期にわたり保持した“永世剣聖”狭山(さやま)春兼(はるかね)は、齢七十にして微塵の揺らぎもなかった。横溢する気が総身から陽炎の如く立ち昇り、面金の奥から覗く眼光はまさしく猛禽のそれであった。金城鉄壁の異名は伊達ではなく、老いて尚その剣腕は深まり続けているようにさえ見えた。

 どうにか、あの構えを崩さねばならぬ。

 そも、何を以て構えとするか。古来より無数の流派があり、数多の理合い、無尽の構えが存在する。だが、諸流の妙諦を大同小異と切り捨て、敢えて定義するならば、構えとは「斬り込む隙を与えず、且つ、いつなりとも斬り込める居づまい」と云えよう。

 ゆえに、構えが崩れぬかぎり攻め入ること能わず、無理に踏み込めば、その瞬間こちらの構えが解け、逆に斬り伏せられる。

 構えは、型ではない。

 師に隙はなかった。静止しているようで、僅かに揺らぎ、その揺らぎの中に勝機を見出さんと傾注すれば却って呑まれそうになる。さりとて、意識を外せば、瞬時に両断されるであろう確信。

 進退両難の虎口に立っている。

 趨勢を読むまでもなく当方不利。このまま膠着状態を維持すれば、年齢差のために師が先に崩れようかなどと空頼みをしてはならぬ。楽観に縋った瞬間、気の弛みを捉えられ斬り捨てられよう。

 で、あるならば、余力があるうちに強引にでも仕掛けるべきか。

 表から竹刀を弾かんと試みる。

 刹那、死の気配。弥縫策に走ろうとした瞬間、それを看破した師が一太刀の予兆を放った。不動のままに殺気だけを迸らせる。機前を踏み躙る牽制。動かば斬るという明確な殺意。それは、もはや剣術の域を超えていた。(しゅ)だ。敵手の自由を凍らせる呪であった。

 これは百まで生きるな。

 屠所の羊の気持ちでありながら、挫けまいと敢えて悪態をつく。

 剣の道において方々が云うに曰く。

 “剣術に許さぬところ三つあり”

 “一は向こうの起り頭”

 “二は向こうの受け留めたるところ”

 “三は向こうの盡きたるところなり”

 “この三つは何れも遁すべからず”

 許さぬところとは、攻め入るべき好機を指す。

 今、師は、俺の頸を刎ねようと思えば、容易く刎ね跳ばせた。しかし、そうしなかった。偏に、指導稽古であるがゆえに。隔絶した実力差を突き付けられて意気が萎みかける。

 七十にして未だ剛健。剣腕、些かも衰えず。

 我が師の強壮を慶ぶべきか。はたまた、老齢の師に及ばぬ我が身の不甲斐なさを嘆くべきか。判断に迷うところだ。

 ──だが。

 意図を読む。

 師は、好機を故意に見送った。

 如何なる存念か。問うまでもない。こちらの性分を熟知しているがゆえに他ならぬ。情けをかけられることを何よりも厭う俺の性分を。

 それで、上手く煽ったつもりかよ。

 ……困ったことに、そんなことで火が着いてしまった。

 師の思惑に乗ずるは不本意この上ないが、どうしようもなく癇に障ったのだから仕方がない。負けず嫌いは生来の賦性。今更曲げられるものではない。

 師を、敵を、見据える。

 彼我の距離は遼遠。だが技倆の上下は関係ない。低く見積もられた。挑む理由なぞそれで充分。矜持ひとつ守れずして何が剣士か。何の剣術か。己が道行きに立ち塞がる者どもを怖ず臆さずぶった斬る。そのための剣であるはずだ。

 大層なお題目は不要。

 勇を鼓すに及ばず。

 ただ、此処を先途と決して太刀合うのみ。

 調息。心操を調える。

 懸に偏らず。待に偏らず。よくよく陰陽を調和させ、懸待一致にて止水凝滞なく構える。そうでありながら、しかし、そのことを少しも心に留めおかない。金剛般若経に曰く“応無所(おうむしょ)住而生其心(じゅうにしょうごしん)”と云う。構えに心を置けば、構えに心がとられる。太刀に心を置けば太刀に。拍子合に心を置けば拍子合に。斬り懸かる敵の太刀に気をとられ、それを如何とするか心を働かせるのならば、その間、我が身は抜け殻も同然であり、結果、呆気なく斬り伏せられよう。ゆえにこそ、住する所なくして心を生じさせなければならぬ。事毎に心を止めず、ひと刹那毎に全霊を傾け続ける。雨粒が落ちるや、間髪入れず、水面(みなも)に拡がる波紋のような剣であらねばならぬのだ。

 どのくらいの時間が経ったろう。

 時間感覚はとうにない。過度に気を張り続けたせいだろう。意識が朦朧としている。脳髄が痺れている。四肢に力が入らない。己が身体の輪郭すら朧気に思えた。だが、不思議なことに、五感は冴え渡っていた。見るともなしに視界隈無く見渡せ、僅かな空気の揺らぎさえ音として認識できた。道場の外で風に巻かれる木の葉の一枚一枚まで感じとれる。

 万策尽き果て。体力枯れ果て。気力燃え果て。

 己が全存在を放出しきり、空白となって初めてそこに神が宿る。無我の境地へと到れる。

 一刀にて師を斬り捨てる。

 成功の可否は考慮しない。

 ただ、事を為す。

 それ以外に道はないのだから。

 何も想わず、何も気負わず、斬るとも考えず、無念無想のままに振り被った。幽体離脱と云おうか。俯瞰にて己の動きを知覚する。我が身のことでありながら我が事ではないような、奇妙な心地だ。

 起こりはなかった。

 動作がなくとも、斬らんと欲すれば、その時点で技である。そこに起こりが生ずる。だが、動きがあろうとも、斬ると思わねば技に成り得ず、起こりも生じ得ない。

 足首を鋭く反し、左足の母指球に溜めていた力を瞬時に爆ぜさせる。破らんばかりに床板を蹴るや、風景が後方へと流れて消えた。爆発的な推進力を得て、世界を置き去りにする速度で跳ぶ。

「メェンリャッシャアアアッ!」

 猿叫。頭蓋まで断ち斬るつもりで一刀を放つ。

 対して、我が師、狭山春兼は。

「サァァァラアアアッ!」

 相面──いや、面切り落とし面か。

 術理は柳生新陰流の【合撃(がっし)】に近い。

 当流、甲斐(かい)新羅(しんら)(りゅう)兵法(ひょうほう)では【追太刀(おいたち)】の名で相伝される。

 【追太刀】の術理は単純だ。真っ向から振るわれる敵の一刀に対して、その太刀筋に被せるよう後追いにて我が一刀を放つ。敵の刃を弾きながらも我は斬らんとする攻防一体の絶技。甲斐新羅流兵法では基礎であり奥義であるともされる技。【追太刀】を極むれば、あらゆる武技は不要となる。修錬の果て、老いて益々の神妙さを増すことから【老太刀(おいたち)】とも記された。

 為す術なく、頭上に霹靂の如き一撃が降りかかる。

 ──死んだ。

 頭頂部から股下まで真っ二つに断ち割られた。

 それが錯覚だと気付くのに幾らかの時を要した。死んだかと思った。全身の毛穴から汗が噴き出る。ドクドクと心臓が早鐘を打つ。耐えきれず、膝から崩折れた。生きている。床板の冷たさに生を実感する。

「ふふん、今朝も、オレの勝ちだな」

 振り返れば、師が得意げに笑っていた。

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