春の風に吹かれて
見てる。
見ている。
あの子が見ている。
廊下の角から、校舎のすみから、講堂の通路から。人の流れに身を任せながら、隠れたふりしてこちらを見ている。
凛太はずっと、こちらを見つめる柚葉の視線を探し続けた。
彼女に気づいたあの日から。
「柚葉」
「なんですか凛太先輩」
母不在の喫茶店で、二人は仲良く店番をしている。店内にはおしゃべりに興じる花咲大生が二人だけ。平和である。
「懐かしいものを発見したので、あとで見せたいんですけど」
「えっ? なんだろ」
「見てのお楽しみです」
凛太が意味ありげに微笑んだ。早く見せてくれればいいのにとモヤモヤしながら、柚葉は手早くいちごパフェを作る。いちごをこれでもかと沢山のせて花咲大生のテーブルまで届けると、彼女達からは歓声が上がった。
「凛太先輩の言う通り、いちご多めにしてよかったです」
「みんなSNSに上げますからね。見映え大事です」
「ですね」
柚葉は、パフェを挟んで写真を撮り合う花咲大生を眺めた。そんな彼女の横顔を見て、凛太が呟く。
「でも、柚葉まで見た目を気にする必要は無いのに」
「もうすぐ大学生になるんですよ。私もメイクくらい覚えたくて」
「柚葉には必要ないと思うけど」
ずっとすっぴんだった柚葉は、少しずつメイクを始めた。以前よりぱっちりとしたまつ毛に、アイライン。すべて、凛太の友人であり客である花咲大生三人組が柚葉に教えてくれたものだった。少しずつ垢抜けていく彼女に、独占欲の強い凛太はふてくされた。
四月。
無事、花咲大学に合格した彼女は、晴れて凛太と恋人同士となった。
受験が終わり柚葉が店へと復帰したことで凛太のアルバイトも終了かと思いきや、彼は引き続きアルバイトを続けている。
『このところ、お客さんが増えたのよね』
以前、母が言っていたように、喫茶店には客が絶えなくなっていた。以前の閑散とした店がまるで嘘のように。
凛太の人脈だけでは無く、彼が作るメニューは評判を呼び。SNSに上げられたところ、一気に客足が伸びたのだ。
「売り上げが増えれば、僕が働き続ける理由になるかなって思いました」
彼はあっさりとそう述べた。アルバイトを三月で終えるつもりは最初から無かったようだった。
そんな凛太は当初、母が店先にバイト募集の貼り紙をしたその日に現れた。一番乗りだった。
決して条件の良いアルバイトでは無い。時給は安いし、稼ぎ時の土日は休みだし、夕方も七時で閉店してしまう。要は『稼げないバイト』だったのに。
「君なら、他所のバイトでもいけるんじゃない?」と母が気遣うと、彼は「ここで働きたいんです」と食い下がったという。やる気に満ちた学生・凛太に、柚葉母は若干たじろいだ。
こうして、凛太はやや強引にアルバイトの座を勝ち取った。そしてその日のうちから働き始めたのだった。
「バイトの貼り紙を最初に見つけたのが僕で良かった」と彼は言った。誰かに先を越されなくて本当に良かったと。
高校卒業後、花咲大に進学した凛太。いずれ柚葉に会える機会もあるだろうと目論んでいたが、まさかバイトが出来るとは思ってもみなかったらしい。
「私に、会いたかったんですか」
「はい」
照れも無く返事をする凛太に、柚葉のほうが恥ずかしくなってしまった。まさか話したことも無かった彼が卒業後も会いたいと思っていてくれたなんて、想像もしなかったから。
店じまいが終わると、店先まで凛太を見送る。その時、彼がジャケットのポケットから何かを取り出した。
「これ、取っておいたのを思い出して」
「それは?」
「懐かしいものを発見したと言ったでしょう」
それは折りたたまれた紙だった。
何が書かれてあるのだろう。そっと紙を開いてみると……それはただのメモだった。
しかしよく見てみると、それに記されているのは柚葉の筆跡で。これは、もしかして。
「これ……」
「柚葉が三階から落としたメモです」
それは入学してすぐのことだった。あれからもうすぐ三年も経とうとするというのに、何度も夢に見る、あの出来事。
柚葉が落としたメモには、入学してすぐ覚えるような英単語がびっしりと書いてあった。当時はこれを見ながら暗記をしていた。移動中や、休憩時間に。
「これ、わざと落としたでしょう」
「えっ!?」
心臓が止まるかと思った。
これを落とせば。
運良く、凛太のそばに落ちれば。
彼は上を見てくれるかもしれない。自分を見てくれるかもしれない──
彼に恋する柚葉の、ほんの出来心だった。それすらバレていたなんて。
「わ、わざとでは……」
「ふふ、冗談ですよ」
彼はとても良い笑顔でにっこりと微笑む。「冗談」とは言っているが、これは確実にバレている。柚葉が故意にやったことだと。
「これを見て、『この子、要領悪いなあ』と」
そのメモに書かれていたのは、単語の羅列。なんの規則性もない、ただの暗記。
休憩時間、それを手にしていた。周りの皆は程よく休憩をとっているというのに。
「その後も、僕のこと遠くから見るだけで話しかけたりもしない」
ずっと見ているだけだった。他の女子が話しかけていても、柚葉はただ遠くでそれを見つめているだけ。
「でも……この子、僕のこと凄く好きでいてくれてるんだなあって思ったんですよね」
その日から、凛太は不器用な柚葉を探すようになった。
彼女からの真っ直ぐな視線を感じると、自然と胸が満たされた。安心した。それが恋だと気づいたのは卒業してから。
「もう恋人ですから。もっとじっくり見てくれていいんですよ」
「もっとじっくり!?」
「そう、もっと。色んなところ」
「色んなところ!?」
あたりには、慣れることの無い甘い空気がたちまち広がって。凛太の言葉に動揺する柚葉を、彼は愛しそうに覗き込んだ。
「ふふ、冗談ですよ」
そう言って、凛太は含みを持たせて微笑む。
やっぱり彼のことはよく分からない。
分からないけれど、不思議と心は惹かれてしまって────
いつまでも離れがたい二人の間に、さわやかな春の夜風が吹き抜ける。
この小さな喫茶店にも、新しい季節が始まろうとしていた。
──終──
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