【第一話】最弱の俺と、スライムと、謎の美少女
勇者がその絶大な力を魔王の封印に使わなかったせいで、「魔王は百年ごとに復活する」という伝承を信じる者は、もはや誰一人としていなくなっていた。
ある有名な預言者に至っては、「魔王は封印されてから十七年後――つまり今年、勇者の仲間たちだけで施された不完全な封印を破り、再び姿を現す」と予言したほどだ。
もちろん、あの勇者がそれを黙って見過ごすはずはない。それでも多くの人々がパニックに陥り、かつて魔王が出現したという街から次々と逃げ出していった。
俺の住む街もそのすぐ近くにあったため、影響をモロに受け、人影はすっかりまばらになってしまった。
数日前には常連客から「このままじゃ、スライムの体液の需要も減る一方だな」と愚痴をこぼされたばかりだ。
まったく、勇者の野郎、俺に余計な迷惑をかけやがって。
もう少しだけ力を振り絞って、魔王をあと数年長く封印してくれれば死ぬのかよ!
どのみち、今のあいつに勝てる奴なんて世界中どこを探してもいないんだから。
そのせいで俺のささやかなメシの種がなくなるなんて、本当にいい迷惑だ。
俺は山の斜面に立ち、真夏の茹だるような日差し――まるで全身を熱湯に放り込まれたような暑さ――に耐えながら、そんな自分にはどうしようもない不満を頭の中でこぼしていた。
俺の名前はキュウショウ。
一応、これでも冒険者の端くれだ。
なぜ「一応」なのかって?
それは、俺が最弱のモンスターとしか戦えないうえに、その最弱相手にすら頻繁に苦戦を強いられるような底辺だからだ。
ほら、ちょうど今も、俺の目の前にはその最弱モンスター――『スライム』がいる。
さっきも言った通り、俺はこの生物を倒し、その体液を採取して売ることでギリギリの生計を立てているのだ。
それにしても……あー、クソ暑い!
山腹の道だから平地よりは気温が低いはずなのに、直射日光のせいでそんな気休めは微塵も感じられない。
ここは、俺が住む街の東側にある、山を一つ越えた先の小さな村へと続く一本道だ。
だが、その村は十七年前に魔王の襲撃を受けて以来、いまだに復興していない。
おまけにこの山にはモンスターが生息しているため、一般人は恐れて寄り付かず、ここを通る者は極めて少ない。
そして俺が今いる場所は、その山道の中腹にある少し開けた空き地だ。
三方を森に囲まれ、残る一方は岩が積み重なった、ほぼ垂直の険しい崖になっている。
動きづらい森の中でスライムと戦うよりは、ここで待ち伏せする方がずっと効率がいい。
俺は今の季節には場違いな分厚い綿のローブを着込んでおり、すでに全身汗だくだ。
だが、これを脱ぐわけにはいかない。装備が厚ければ厚いほど、モンスターの攻撃を防げるからだ。
そう、情けないことに、俺はこの分厚いローブなしではスライムと戦うことすらできないのである。
スライムとは、一言で言えば「生きている巨大な球体」だ。
高さは人間の背丈ほどもあり、体色は個体によって異なる。
目の前にいるこいつは、単色の紫色。
ちなみにスライムは、体の色でその強さが分かる。単色が最も弱く、色が混ざっているほど強い。
そして、俺が相手にできるのは単色のスライムだけだ。
顔を流れる汗が、まるで小さな虫が這い回っているようで気持ち悪い。
俺は魔法使いだ。剣士のように激しく動き回る必要はない。
――来るか?
スライムが攻撃の前に必ず見せる予備動作――数メートル後ろへ転がる動きを見せた。
俺は杖を構え、迎撃の態勢を整える。
ついに、スライムは後退時とは比べ物にならない猛スピードでこちらへ突進してきた!
スイカほどの大きさだった球体が、瞬く間に視界を覆い尽くすほどの巨体へと膨れ上がる。
俺はすぐに横へ飛び退き、こいつに火球を放てば片が付くはずだった……。
だが、回避行動を終える前に、俺はスライムの巨体に跳ね飛ばされていた。
「ぐほっ!? ヤ、ヤバい……!」
地面に叩きつけられた瞬間、俺は慌てて飛び起きた。
ここは主人公が過去を回想しながらゆっくりと立ち上がるようなフィクションの世界じゃない。残酷な現実世界だ!
回想なんて始めたら、そのままスライムに轢き殺されてしまう。
すでにダメージは相当深い。もしこの分厚いローブを着ていなければ、今の一撃で間違いなく即死していただろう。
毎日こんな死に物狂いで戦って、宿屋で全回復するまで寝込み、スライムの体液を売ったはした金でようやく食いつなぐ。
俺はいったい、何のためにこんな必死に生きているんだろうか?
……いや、そうでもしないと生きていけないからだ。
俺はため息をつき、頭を振って強制的に思考を打ち切った。
これ以上考えると、すべてを投げ出して自らスライムに突っ込んでしまいそうだったからだ。
よし、生き延びるために、やるしかない!
再び闘志を燃やし、スライムを見据える。
ヤツは百八十度の急旋回を決め、ピタリと止まっていた。
よく見れば、こいつとて大した相手じゃない。俺と同じように限界が近いのがわかる。
なんとかしてもう一撃叩き込めば、俺は無事にここから帰れる。
――そう、あいつさえいなければ。
紫色スライムのすぐ隣に、別のスライムが並んでいた。
二匹同時なんて冗談じゃない。
しかも、新しく現れたこのスライムの色は……一色、二色、三色……いや! 数え切れない!
無数の色が混ざり合い、不気味に輝く『極彩色』。
おまけに直径は人間の二倍はある超巨大サイズだ。
ふざけんな! こんなスライムがいるなんて聞いたこともないぞ!
どうやら、今日ここを生きて帰るのは絶望的らしい。
だが、タダでやられるわけにはいかない。まずは火球を放って様子を……。
俺が魔法を放つよりも早く、極彩色のスライムに異変が起きた。
その体内から、長さ一メートルにも及ぶ鋭い無数のトゲが生え出し、あっという間に巨大なトゲ球へと姿を変えたのだ。
なんだよ、あれ……。
極彩色のスライムは予備動作すらなく、電光石火のスピードでこちらへ突進してきた!
あんなバケモノ……勝てるわけがないッ!
俺は息を呑み、思わず杖を地面に取り落とした。
しかし、そんなものを拾っている余裕などない!
(もし生還できても、もう新しい杖を買う金なんてないが!)
俺は杖を見捨てて背を向け、全力で走り出した。
だが、スライムの速度の方が圧倒的に速い。このままでは確実に追いつかれる。
背後からは、俺の杖が粉々に砕け散る「バキィッ!」という無残な音と、そして……
――ガキィィィンッ!
金属と金属が激しくぶつかり合う、甲高い音が響き渡った。
え?
俺は恐る恐る、背後を振り返る……。
そして、その光景に完全に目を奪われ、呆然と立ち尽くしてしまった。
真っ先に視界に飛び込んできたのは、燃えるような炎を思わせる鮮やかな真紅の髪。
二つの三つ編みにして背中に垂らしたその『炎』の下には、深い海の色を宿した瞳があった。
水と炎の色彩を併せ持つその人物は――信じられないほど可憐な一人の少女だった。
夏らしい深緑の戦闘服を身に纏い、下半身にはおよそ戦闘には不向きなブラウンのミニスカート。
彼女は、青白い光を放つ一本の刀を構え、あの極彩色スライムの猛烈な突進を正面から受け止めていたのだ。
なんと極彩色スライムの底面にはトゲが生えておらず、代わりに巨大な金属の塊が露出していた。
少女はその金属部分に刀を押し当て、力技でスライムの前進を完全に封じ込めている。
なるほど、スライムの長いトゲが底面を浮かせているから、悪路でもスピードが落ちなかったのか。
だが、あんな弱点、どうやって一瞬で見抜いたんだ……?
しかし、俺が呆然としている理由は、彼女の凄まじい戦闘力だけではなかった。
今、冒険者として活動しているのは大半が男だ。
毎年多くの女性が王宮へ強制連行されており、巷では「勇者王の男としての欲望を満たすために選ばれている」と噂されているからだ。
つまり、彼女のような十六、七歳ほどの美少女は真っ先に連行される対象であり、こんな場所にいること自体が奇跡に近い。
……と、色々と理屈を並べ立てたが、結論は一つだ。
簡単に認めたくないから、あれこれと頭の中で言い訳を並べただけ。
要するに、俺はこの名も知らぬ少女に、一瞬で心を奪われてしまったのだ。
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