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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河篇 余話(一)
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熠燿宵行(五)

「春に(むすめ)は陽気に感じて男を思い、秋に(おとこ)は陰気に感じて女を思う」


 しばらく黙って歩いていた曹植がふいに文語を口ずさみはじめたので、傍らの崔氏は大きく瞬きをした。


「え?」


「是れ其の物化の悲しむ所以なり。悲しめば則ち始めて公子と同じく(とつ)がんとするの志 有り、嫁がんと欲す。女は事の苦しきに感じて此の志を生ず。是れ豳風(ひんぷう)と謂う」


 そこで曹植は歩みを停め、彼女も倣った。


「「七月」の一節に、鄭康成(こうせい)鄭玄(じょうげん))が付した注釈は、たしかこんなふうではなかったか」


 ―――ああ、と崔氏もようやくうなずく。


「“春日 遅遅として、(シロヨモギ)を采るもの祁祁たり。女の心 傷み悲しみ、(はじ)めて公子と同じく(とつ)がん”という本文への注釈ですね。

 まさに、そのとおりです」


 彼女は驚きの色を浮かべつつ、莞爾としてうなずいた。今度は三日月のように目が細められ、瞳はほとんど漆黒になった。

 自らの敬愛する叔父崔琰(さいえん)が師と仰いだ大儒の注釈を、その門下生ではない者までもが隅々まで読み込み、経文(けいぶん)と同じように習熟しているという事実がうれしいのであろう。


(このむすめの、こういう笑顔は初めてみたな)


 曹植は改めて気がついた。

 これまでも、つい先ほども、彼女の笑貌を何度も目にしてきたわけだが、それらはいずれも抑えがちだったりはにかんだりするような微笑であり、今のような手放しの笑顔というわけではなかった。


 先ほど以上に、ある種の“正視しづらさ”を感じながらも、得がたい瞬間だな、という気がした。

 と同時に、俺はさっきから何がしたいのだ、と自分で自分に困惑する部分があるのも否めなかった。


 「七月」は、豳風のみならず『詩経』国風(こくふう)全体のなかでも際立って長大な詩である。ゆえに、鄭玄が同詩に付した注釈(鄭箋(ていせん))は、むろん今しがた暗誦した文言だけではない。

 自分がわざわざこの部分に言及したのは、何が心に懸かっているのかと思った。


「この“公子”のことを、毛伝(もうでん)(毛詩学の祖や継承者が作ったとされる注釈)は領主の男子と解し、鄭箋は女子と解しているな」


「はい」


「そなたはどう思う」


「そうですね……」


 崔氏はしばし口をつぐんだ。

 “公子”を男子と解すれば、“女”のほうは(ひん)の領主の子息であるその貴公子に心を寄せ、娶られることを望んでいるということであり、“公子”を女子と解すれば、“女”は豳の領主の令嬢が他国に嫁いでゆくのをみて、自分も早く嫁ぎたいと望んでいるということになる。

 いずれにしても、農事に日々務めている平民の“女”が春情を起こすという解釈であることに変わりない。


「“公子”を諸侯の女子という意味で用いる例は、ほかの経伝にもみられますので、鄭師父の解釈も自然だと思います。ただ」


「ただ?」


「その後につづく、“女は事の苦しきに感じて”というのは―――桑摘みなどの農事がつらいから結婚に逃げたい、というのは、少し違う気がいたします。鄭師父を批判するわけではございませんが」


「違うとは」


「嫁ぎ先でももちろん、同様の農事や家政を担うことになりましょうし、何より、実家の安らかさは婚家とは比べがたいのではないでしょうか。


 それに、春が来たから男のかたを想う、というのがそもそも、あまりよく分かりません」


 崔氏の声がやや小さくなった。

 曹植からは横顔しかみえないが、目元が朱色を帯びるのが分かった。


「同意できないか」


「春の陽気に触れたから、ではなく―――」


 崔氏は少しことばを切り、そしてつづけた。


「慕わしいかたに出会ったからそのかたを想う、のが正しいのではないでしょうか」


「それは確かにそうだ。

 男もべつに、秋が来て初めて妻を娶りたいと思う者ばかりではない。年中求めては焦がれる者もいる」


 崔氏はふたたび、いくらか緊張が解けたように微笑し、簡の束を持っていないほうの袖で口元を抑えた。


 しかし少ししてから、今度は先ほどよりも小さな声を発したようだった。


 ようだった、というのは、袖で口が覆われているため声がくぐもっていることに加え、ほとんど消え入らんばかりの声量だったためである。


「平原侯さまは」


「うん?」


「平原侯さまは、あの―――あの玉環の持ち主だったご婦人とは、どのような」


「え?よく聞こえなかった」


「何でもございません。どうか、お忘れください」


 崔氏は口から袖を離して急いで打ち消し、前方を向いて黙りこみ、歩を進めた。

 その横顔はまだ朱に染まっていた。

 そうか、と曹植は思った。


(そなたにとっての“公子”とは誰かと、俺は訊こうとしていたのだな)


 このむすめには思慕を寄せる男がいるらしい、ということを、自分で思っていた以上に自分が気にしていたのだと知り、何とも不可解な思いに包まれた。


(ひょっとして俺は――――――俺は、閑人(ひまじん)なのか)


 五官中郎将の官にある長兄などに尋ねたら「ようやく気づいたか」と言われそうなことを、曹植は真顔で自問しながら、崔氏と並んで歩きつづけた。






 その日は結局、寝所に戻ってから夕刻ごろまでずっと、曹植は読書をつづけた。


 彼が書物を読むときのふだんの速さからいえば、実際のところ、七、八巻という分量は半日を過ごすにはやや足りなかったが、まだほんの少しだけ頭がぼうっとすることもあり、時折り仮眠を挟んだり、崔氏に(しつ)の演奏を所望したりしながら、ゆっくりと時が過ぎてゆくのを感じていた。


(ぎょう)とはだいぶ違うな)


 あたりまえのことだったが、自分をとりまく静けさに驚いていた。

 厳密には、窓の外からはしばしば牛馬が運搬車を引く重々しい地鳴りや、この家の族人が稽古しているとおぼしき瑟の音なども聞こえてきたが、それらは気にならなかった。

 自分を訪ねてくる者がいない、というその静けさに彼は驚いていた。


 目を上げれば、崔氏が瑟の調弦をしていた。

 先ほどまで彼女が奏でていた音律がそうであったように、その佇まいもまた静かだった。


(この邸で心を静かにしていられるのは、このむすめがいるからでもあるな)


 あのよく澄み渡った小川で、水面から顔を出して最初に目を合わせたときから、こんな(ひな)びた地で遭遇するとは思いもよらぬ美しいむすめだとは思っていた。

 だが、目鼻立ちの造作や配置が、そして朱に染まりやすい肌の白さと深淵のような瞳の黒さがひときわ調和し完結しているために、自らは働きかけてこない静物のような美だなとも思った。


 眉目がきわだって端整なのは崔琰も同じだが、彼の場合は内側からにじみでる威厳と荘重な挙措、そして深く朗々と響きわたる声とがその容貌と相まって、見る者聞く者に忘れがたい印象を植え付けるのが常であった。


 むろん、二十にもならない年若い女がそういった重々しさを身に具えるというのは無理な話である。

 さらにいえば、このむすめは心に慕う男がいるというのに、自分の容姿や表情や声音でひとの心に訴えかけようという発想がそもそもないようであった。


 それもやはり、崔琰のような厳格な儒者を親代わりとするからこそであろう。

 鄭玄は『詩経』の一学派である毛詩研究の大功労者として著名であるだけではなく、むしろ三礼(『周礼(しゅらい)』『儀礼(ぎらい)』『礼記(らいき)』)の考証こそが彼の真骨頂とみなされることも多い。

 ゆえに、その門下生たる崔琰が礼法の考究と実践をとりわけ重んじ、実子のように育てている姪にも礼教の道から決して外れぬよう訓導してきたこと、そして姪の側もその期待に応えたいと思っているのは、無理もないことであった。


 婦人が最低限まっとうすべき礼といえば、身をつつしみ男女の別を守り抜くこと、平たく言えば好き好んで男の気を引こうとしないことである。

 このむすめがそれを常に意識していることは、抑制しがちな表情からもよく窺うことができる。

 曹植自身の十代の妹たちのように、あるいは既に嫁いだ姉たちのように、日々の折々に華やいだ嬌声をあげたり高らかに笑ったりするところが、およそ想像しづらいむすめであった。


 ただ、このむすめにも、ある意味で人並み以上にむすめらしいところはある。

 男女はこうあるべきという規範を叔父から厳しく課され、自らのうちでも厳しく持しているためなのか、「規範に抵触してしまった」と感じたときの恥じらいの表情だけは、同じ年ごろの少女よりもずいぶん豊かだといえた。


 あの小川で偶然に出会ったとき、たびたび鮮やかな朱色に染まるその表情が―――道徳を堅持せねばという義務感とその男(・・・)への抑えがたい恋情との間で葛藤がせめぎあう表情が、強く印象に残ったといえば確かにそうであった。


 とはいえそれは、儒者の家で厳しく躾けられたむすめだな、という感想と一体になったものである。


 だから曹植も、崔氏と知り合った当初、これまで自分の周囲にいなかった種類の少女から、その思うところを聴いて見聞を広げることに終始するつもりであった。

 だが、そののち曲折を経て、結局この邸に逗留することになり、このむすめについて考えることがいろいろ増えた。思いもよらないことではあった。


(こちらの心をかき乱そうとしないむすめについて考えるということが、そもそも妙だ)


 我ながら不可解だと思ったが、そうなってしまったのだから如何ともしがたかった。


(心をかき乱す、―――)


 そのことばを反復して、曹植は我知らず、簡牘を持つ手に力がこもった。

 思い出すまいとするがもう遅かった。たちまちのうちに身体の芯が熱くなり、喉が渇き始めるような気がした。


 一時はあの玉環を(なげう)つ覚悟すら固めたというのに、鄴から遠く離れたこの地に身を置いてまでかの婦人の面影を心から振り払えない自分のことが、惨めであった。


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