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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河
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(四十一)送行

 翌日の午後、滞在十数日目にして曹植は家臣団の迎えを受け、清河東武城の崔家を辞去した。

 女子である崔氏はむろん、平原侯一行の見送りを自ら願い出ることも、目上の親族から特例として許されることもなかった。


 自室にひっそりと座り、昨日弾いたばかりの(しつ)の弦を整えながら、屋外から聞こえてくる賑わいを聞くともなく耳にしていた。


 送られる側の曹植ほどとは言わずとも、送る側にもいくばくかの文才に恵まれた者がそろっていれば、この邸から遠からぬどこか景勝に恵まれた地に内輪の宴を張り、創意に満ちた告別の辞を交わしては別離の悲嘆を慰めあうところであろうが、崔家にはそのような人材はなく、そのような風習もない。

 いま門前でおこなわれているのも、ごく一般的な送別の風景のようだった。


 やがて窓の外の人声が大きくなり、主だった族父たちが見送りから戻ってきたようだと分かった。

 崔氏にもはっきり聞き取れるほど、彼らが少なからぬ興奮を込めて語るところによれば、平原侯の家臣団はさすがに丞相の愛児のために選ばれた俊才たちだけあって、久方ぶりに再会する主君への拝礼や挙措の端々にまで巧まざる威儀をそなえていたという。


 崔氏もいちどは彼らの姿を目にしているはずだが、あのときは実際のところ邢顒(けいぎょう)劉楨(りゅうてい)のふたりとしか面識を持たなかったため、こうやって全容が語られるのを耳にするのはどこか新鮮でもあった。


 一行の前駆や後乗を務める兵らの剽悍(ひょうかん)さは言うにおよばず、彼らに護られるようにやってきた四頭立ての安車(あんしゃ)、すなわち平原侯を迎え入れるための車は、車輪が鮮やかな朱色に塗られているのはもちろんのこと、車体は光沢ある黒絹の蓋で覆われ、黒い旗を龍の尾のようにたなびかせ、前方や両脇の手すりには鹿や熊をかたどったみごとな彫刻がほどこされ、見る者をして嘆息せしめずにはおかない美々しさであったという。


 曹植本人は自分自身の身なりに構わないたちの人間であることは、短い滞在期間を通じて崔氏もよく理解するようになったが、列侯が乗るべき車馬の規格は厳しく定められているので、彼の趣味に準じて好き勝手に簡素にすることはできない。


 むろん、相次ぐ戦乱のもとで慢性化する物資不足の影響を受けて、一部簡略化された装飾やしつらえはあるにしても、この鄙びた土地にあっては、否が応でも人目を引く車列にならざるをえないのだ。


 清河東武城の域内からほとんど出たことのない崔家の族人の大部分にとっては、朱塗りの車輪どころか錫細工の鈴や鞍を付けた馬を間近で見ることさえ初めての経験なので、ふだんは沈着な族父たちの声も自然と高くなるのであろう。


 それでも、平原侯一行がすでに過去の風景に溶け込んだことは変わりなかった。


 彼らの訪問と滞在はこの静かな土地にあってはちょっとした事件ではあったが、療養生活の謝礼にと強引に置いていかれた数々の宝飾品が一族の財物庫へ丁重に運び込まれ、彼ら主従の車馬の立てていった砂塵が門前の路上にすっかり落ち着くころになると、崔家のひとびとは速やかにそれぞれの務めに戻っていった。


(これで、よかったのだ)


 族父たちの語らいを窓越しに耳にしながら、崔氏は小さくつぶやいた。

 やはり別の世界のかただったのだ、と改めて思った。


 曹植自身のことばによれば、丞相府で輿望を集める崔琰(さいえん)の実家である清河崔氏一門が丞相の家の姻戚になるのは、さほど無理があることではないという。

 彼の求婚は真摯なものだったから、おそらくそのことばも誇張ではないのだろう。


 だが、平原侯一行の目が覚めるような威容をこうして伝聞し、それに圧倒された親族たちのようすをも耳にしてみれば、やはり世界が違いすぎる。

 つまり、もし婚姻が成立していたならば、彼女自身も清河崔氏全体も、万人から仰ぎ見られる世界につながってしまうということだ。それは、これまで夢想もしなかったような、天下に並ぶものなき栄華が約束された世界には違いない。


 だがそれだけに―――元からの名門であるならともかく、地方の弱小豪族出身にすぎないだけに―――世人から悪意や妬みを買うことも多く、万が一姻族の地位から転落したときの衝撃はすさまじいものになるはずだ。

 いつか来るかもしれない破綻の予感に怯えながら生きてゆくとしたら、それは幸せな結婚だろうか。


 瑟を片づけて質素な(ねどこ)に腰かけると、崔氏は膝上に置いた手に目を落とした。

 冀州(きしゅう)そして中原を掌握した曹操のもと、崔琰が冀州府に登用されたばかりか丞相府で重きをなすようになったことで、その実のむすめに等しい彼女は一族の上の世代に比べれば通婚の範囲が広がると見なされていたが、彼女自身は自分の将来について、何か特別なものを思い描いたことはなかった。


 一族の同世代のなかでは最年長ということもあり、族弟妹たちの模範になれるように、そして族父母たちの期待を裏切らないように素行正しくふるまい、自身にとっての家長である崔琰が選んでくれた男性と平穏な結婚をし、夫とその父母に従順に仕えて睦まじく暮らし、叔父叔母をはじめ親族たちを安堵させることがただひとつの幸せのかたちだと、ずっとそう思っていた。


 平原侯とその一行が中原随一の繁栄を誇る(ぎょう)からもたらした華やぎ、その賑々しさは、自分たち一族の暮らしにはおよそ馴染まないものだった。

 自分が思い描いていた未来とは全く異なるものだった。

 だからきっと、この終わり方でよかったのだ。

 崔氏はそう、自らに語りかけた。


 ふと突然に、何年も前―――崔琰も崔林もまだ出仕していない時期に、この宗家で一族そろって祝った臘祭(ろうさい)のことを思いだした。冬至の後の第三の戌の日に先祖や神々を祀る習いなので、寒さのきびしい時候であり、外では雪も舞っていたはずだ。


 その年の祝いの席には、人相見の老人が加わっていた。

 もともと、臘祭のときは宗族や姻戚が一同に会して(よしみ)を深めるだけではなく、外部から来訪した客人をも歓待する習わしがある。

 そのうえ、人相を見ると称する人間がこの草深い土地にやってくること自体が珍しいので、宿を探しているということもあって招き入れたのだろう。


 童女だった崔氏は叔母や族母たちの指示を受けながら厨房の仕事を手伝っていたので、老人本人を見ることはなかったが、宴席が設けられた表側の堂からしばしば歓声が上がるのは耳にしていた。酒が入った族父たちは、普段の落ち着きに似合わず声が大きくなっていたのだろう。


 しばらくしてから厨房にも伝わってきた話というのはこうだった。


 遠方からの貴重な来客だというので手厚くもてなされた老人は、大杯で勧められた地酒を何度かあおると、急に興が乗ったかのように、


「あんたがた、―――清河の崔氏といえば、いまに、天下に知らぬ者なき貴顕の家に成り遂げますぞ。

 その栄誉は四、五百年間か、ともかく長きにわたる尊崇を集めましょう。いまは雌伏のときだと、そうお思いなされ」


と一席ぶったのだという。

 すでにほどよく酩酊していた崔家の男たちは大いに沸いたが、もちろん誰も信じてはいなかった。

 宴席には姻族も同席しているので、自分の妻の兄弟らに向かって「我が家が天下第一の大姓となる前に通婚できてよかったなあ」などと冗談を投げかける者もいた。投げられた側も苦笑していたに違いない。


 清河崔氏は漢朝治下で目ぼしい官僚を出しておらず、冀州や清河国どころか東武城の県内でさえ随一の名家とはとてもいえないというのに、いずれ天下の声望をほしいままにするなどとは、どう考えても夢物語である。


 酒のおかげで舌が滑らかになった族父たちは、口々に笑いながら老人にこう言ったらしい。


「天朝(漢朝)でさえようやく四百年というところですぞ」

「それを凌ぐほどの期間を通じて栄華を誇る家などありえますかな」

「あとどれぐらい待てば、その栄光を味わうことができようか」


 老人は別に気を悪くしたふうでもなく、その場にいる面々を睥睨(へいげい)した。


「あんたがたの生きているうちには、そこまで浮かび上がれるわけではない」


 これを聞いた一同はいっそう朗々と笑った。そう言われてしまえば、ここにいる誰にも検証のしようがない。


「だが、おそらくはあんたがたの目の黒いうちに、一族から三公と列侯は出る」


 堂内は一瞬しんとなったが、ふたたび、ほうぼうで笑いの渦が起こった。

 百官の頂点に立つ顕職と二十等爵の最高位とを持ち出されてみれば、彼らももはや腹を抱えるしかなかった。


「我々のなかでかろうじて望みがあるとすれば、季珪(きけい)だな」


 ようやく笑いを呑み込んだ誰かが崔琰の(あざな)を挙げると、ほかからも「そうだそうだ」という声があがった。


 崔琰本人は反応を示すでもなく、端然とした容儀を崩さずに席に列していた。

 その隣にはいつものように、小柄で見落とされがちな崔林がひっそり座っていた。

 このふたりは、異様に盛り上がった堂内の熱気にもあてられることなく、淡々と杯を交わしていた。


「ご老人、この男の相をみてはくださらんか。三公は無理でも、郡守か刺史あたりには」


 崔琰を指さしながら誰かがそう声をかけたとき、老人の姿はすでに席上になかったという。


 この話を聞かされた厨房の婦人たちも、「清河崔氏はいつか天下に冠たる名族となる」というあたりで既に大笑いしていた。

 幼い崔氏は話の全容を呑み込めたわけではなかったが、周りの大人たちが楽しそうにしているのをみるのはうれしかった。


 法外な予言を愉快な冗談として受け止めながら、日々の農事と学問に励むのが、我が家の身の丈に合ったありかただ、といまでも思う。


(この十数日の間、夢をみていたのだ)


 そう、夢だった。そう言い切るのが正しいような気がした。


 富貴の世界に仲間入りできるかもしれない夢、ではなく、自分の本来の人生から切り離されたところに身を置いていた、そういう意味での夢だった。


(もう二度と、みられない夢だけれど―――お会いすることもないけれど)


 そう思った瞬間、目頭に熱がこもった。

 これではいけない、と思い、努めて別のことを―――自分の日常にふさわしい、間近に控えた采桑の段取りや、朝晩復唱する「女誡(じょかい)」の字句について考えようと、頬を軽く叩いた。


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