(四十)杏花
「――――――ご出立になる前夜だというのに、このような事態になってしまい、申し訳ございませんでした」
しばしの沈黙の後、ようやくのことで、崔氏が重たげに口をひらいた。
「我が一族の風紀がこれほど乱れているとはついぞ知らず、ただ恥じ入るばかりです」
「いや、まあ……一族といっても、ほんの一例だろう」
曹植がそう付け加えても、崔氏は唇をかみしめてうつむいていた。
心の底で恥じているのは、いましがた背中を見送った男女のことではなかった。
自分のことが、恥ずかしかった。
(蚕室を出てゆくあのふたりは、幸せそうにみえた)
道ならぬ形で結ばれた男女をみて、倫理的な拒絶感をおぼえるより先に、彼らへの羨望が胸を満たした。
蚕室の内側にいたときに聞こえてきた婦人の―――未亡人である族母のあられもない声は、ひとえに切迫した響きを帯びており、どちらかというと崔氏に恐れをいだかせるものであった。
だが、蚕室を後にするときの族母の姿は―――正式な伴侶ではない青年に手を取られて去ってゆく横顔、そして後ろ姿は、相手にすべてを明け渡し自らも相手を包容するような、深い安寧と充足を感じさせた。
両家の家長の差配によってではなく、当人同士の意思で肌を重ねるのは、そんなにも幸せなことなのだろうか。
崔氏はずっと、そのことを考えていた。
(もし、平原侯さまがわたしを―――わたしだけを欲してくださるなら)
それが婚姻の枠外であっても、受け入れてしまうかもしれない。
彼女は目を閉じ、両手で顔を覆った。
婚姻は人倫の要である。そんな汚らわしいことを一瞬でも思ってしまった自分のことが、恥ずかしくてたまらない。
そしてむろん、羞恥の理由はもうひとつあった。
いま傍らにいる青年の胸中から“かの婦人”の面影が去ることは決してないのだから、わたしを一番に選んでくださるなら、などというのはこのうえなく虚しい仮定である。
「平原侯さま」
崔氏は顔から手を下ろし、ぽつりと言った。
婦女子の正しい生き方とはいかなるものか、幼いころからずっと教えられてきたというのに、いまの自分はそこからますます遠ざかろうとしているように感じられる。
「人はどうして、こうありたいと志すとおりには生きられないのでしょうか」
「―――難しいな。古の哲人たちもそれをずっと考えてきた」
崔氏のつぶやきに、曹植もひっそりとうなずいた。
が、少し間を置いてから、彼は何かに思い至ったような顔をした。しかしそれは良いひらめきではなく、悪い予感のようであった。
やや焦燥をにじませたような声で崔氏に言う。
「その、何というか、俺の勘違いならいいのだが」
「何でしょう」
「自分を大事にしろ」
思ってもいないことばに、崔氏は戸惑いの顔を向けた。
「そなたは何というか、思いつめすぎているようにみえる。―――“その男”に求められたら、その、許してしまうのではないか」
「―――同衾を、でございますか」
「いやもちろん、そなたが軽はずみなむすめではないということはよく分かっている。本当だ。
だが、思慕が深すぎると、万一ということもある。
先ほどの話を聞く限りでは、その男は気が多いうえに浮薄で、誠実とは言えまい。
そういう男が、自分に身を許したむすめの人生に対して責任をとるとは到底思えない。
甘言は巧みそうではあるが」
「―――たしかに、その気になれば、誰も聞いたことがない珠玉のような言辞を、掌中で弄するように自在に操られます」
「そうだろう。そういう男は大体口がうまいのだ。救いがたいやつだ。
だから、“その男”との婚約が成立しない限り、許してはだめだ」
そして初めて崔氏のほうに向きなおり、月明かりに浮かぶ白い顔を正面から見ながら言った。
「そなたが傷つくことになる」
「―――はい」
崔氏は素直にこくりとうなずいた。
このかたを好きになってよかった、といまさらのように思った。
そしてふたたび、ことばがこぼれ落ちる代わりに、涙がほたほたとあふれてきた。
(こんなに泣いてばかりいては、呆れられてしまう)
崔氏は顔を伏せながらそれを危惧したが、意志の力で止めることはできなかった。
曹植は呆れはしなかった。先ほど中断した抱擁を再開するかのように、ごく自然に両手を広げて彼女を落ち着かせようとした。
初めて抱擁されたあのときのように、背中に置かれた手は大きく温かく、欲望の影はなかった。
そして彼は、深く案ずる声で言った。
「何とかしてやりたいが―――できる限りのことをしてやりたいが、“その男”にそなたを近づけすぎるのは、好ましくないという気がしてきた」
ふふ、と崔氏は少しだけ笑顔になった。
いちどに泣いたり笑ったり、我ながら忙しいことだ、と思った。
そして、気持ちが固まった。
「お気持ちだけで、とても、うれしいです。そのかたをきっと、諦められます」
「―――大丈夫なのか」
「さきほどおっしゃっていた、賦というのは」
「賦?」
「鄴にいらしたときに、隣家の女子に思慕を寄せたとある若き殿方のお話を人づてにお聞きになり、平原侯さまが詠まれた賦とは、どちらのほうのお気持ちを偲ばれたものですか」
「女子のほうだ」
「ひとつ、お願いを申し上げてもよろしいでしょうか」
「言ってくれ」
曹植の肩に顔を伏せたまま、崔氏は一瞬息をとめた。
言ってしまう、と思った。
「いまここで、その賦をお聞かせください。わたくしのために」
なんだそんなことか、というふうに曹植はうなずいた。
「少し待ってくれ。いま思い出すから。
―――ええと、そうだな。たしかこんなふうだった。
竊かに音を往昔に託すも 来春の不従に迄る」
最初の句を聞きながら、崔氏は濡れたままの目を閉じた。
このかたの声をこれほど間近で聴くのは、これが最後になると思った。
「同に遊ばんと思うも路なく 情 壅ぎ隔てられ通ずるなし
哀しみは永く絶たるるより哀しきはなく 悲しみは生きて離るるより悲しきはなし
豈に良き時の俟つこと難からんや 余が質の日に虧くるを痛む
高楼に登りて以て下を臨み 歓ぶ所の居る攸を望む
君子の清宇を去り 小人の蓬廬に帰す
軽飛して之に従わんと欲するも 礼防の我を拘えんとするに迫らる」
詠唱が終わったあとも、崔氏はそのままの姿勢でいた。
暖気を含んだ風が起こり、淡く甘い香りが、それぞれの鬢や肩を撫でるように包んでから、静かに去ってゆくのが分かった。
ここからほど近いところに、杏の花が咲いているのだ。
この塢の敷地内には杏林と呼べるほどの群生はないが、各区画のところどころに杏の樹が植えられて、春には白い花々を舞わせている。
彼女がようやく顔を上げたとき、すぐ傍らにある曹植の顔はどこかふしぎそうに、だがいたわるようにこちらを見ていた。
「こんなものでよかったか」
「ありがとうございました」
「死ぬなよ」
唐突なことばだったが、それが彼の真意であることは分かった。
「そなたは汚名をかぶってでも、先ほどの婦人の自害を未然に防ごうとした。それにそもそも、俺のような見知らぬ男の入水も止めようとした。
礼法を死守するよりも、まずは命をつなぐほうが大事だと、腹の底では分かっているのだろう。
ならば自分の命も、いとおしむべきだ」
「―――はい」
「もう会うことはなくとも、生きていてほしい。
俺の賦では、嫁ぐ相手がつまらぬ男であるかのように詠んでいるが、現実はその限りではない。
まして、季珪どのがそなたのために吟味して選んだ婿だ。生涯を通じて、きっと大切にしてくれよう」
「はい、―――死にません」
崔氏は小さな声でうなずくとともに、自分の仰々しい答えに可笑しみをおぼえた。
何かが蒸発してゆくような、それでも留まるものはあるかのような、ふしぎな思いだった。
(わたしに生きていてほしいと、―――甄夫人に対するのと同じ望みを、わたしに向けてくださったのだ)
そう思い至ったとき、ただ生きろ、という何の変哲もないことばが、我が身の血と肉となったように感じた。
明日の昼下がり、平原侯の出立の見送りには、宗族の主だった男性たちが居並ぶはずだが、女子である自分に参列が許されることはない。
曹植とふたりきりで会うどころか、互いを視界に収めることさえ、かなうのは今この瞬間が最後だろう。
だから、彼がくれたことばも、この夜の香りも月明かりも、すべておぼえていようと思った。




