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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河
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(三十)望み

「―――聞き違えたかもしれないのだが、いま、何と」


「一晩中でも、してさしあげられると思います。何回か、経験もありますので」


「何回か、経験」


 曹植の声がかつてないほどこわばりついた。


「ちょっと待て、話についてゆけない。どういうことだ。―――その、相手は」


季珪(きけい)叔父の友人や、目上のかたがたです」


「そんな年配者にだと!? いや、若ければいいというものではないが。

 ―――待て。ということは、それは季珪どのの計らいで、ということなのか」


「はい。叔父の依頼でいたしました」


「な……」


「最近ですと、まだ許都におりました昨年の末ごろ、郗鴻豫(ちこうよ)郗慮(ちりょ))さまのお求めに応じたことがございます」


「郗鴻豫……まさか、御史大夫(ぎょしたいふ)のことか!?」


 曹植は愕然とした声をあげた。その尋常ならざる反応に、崔氏のほうがやや驚いた。


「天子のお側近くに仕える重臣だぞ」


「はい、―――叔父にとっては兄弟子ですので。

 叔父が丞相府に転属になって以来、同じ許都に住まう鄭門学徒の(よしみ)でご面識を賜り、いろいろご依頼を受ける仲になったと伺っております」


「依頼を受けるとは……つまりそなたはそのために」


 曹植が絶句したように固まってしまったので、崔氏も不安が高まってきた。


「あの、そんなに不思議でしょうか」


「不思議も何も、無比の高潔を謳われる季珪どのにしてそれなら、丞相府と朝廷は乱倫(らんりん)の巣窟ではないか……!」


「乱倫?」


 あまりに予想外の単語を自分が聞き違えたのかと思い、崔氏は説明を加えた。


「叔父と御史大夫さまは同門の仲と申しましても、鄭師父(鄭玄(じょうげん))のもとに在籍した期間はだいぶ離れておりますので、在籍時に承ったご講義の内容は同じではないのです。

 ゆえに、御史大夫さまとしては、鄭師父晩年のご研究の成就を入手されたいというお求めでございました」


 今度は曹植のほうが混乱を深めたかのように、眉をいっそうひそめる。


「むろん、わたくしは御史大夫さまに直接お目にかかったわけではないので、叔父からの伝聞ではございますが。

 他方、丞相府にお勤めのかたで鄭門出身のかたは少ないですが、そのゆえもあって、叔父はしばしば、講義録の貸与を打診されております」


「講義録の、貸与」


「ご承知のように、鄭師父が残された注釈の大半はすでに世に広く流通しておりますが、高弟のみなさまによる整理の手が入る前の、師父ご本人による講義の生きた文言を知りたいというかたが多いのだと思います。

 季珪叔父は、思い入れのある原本は手元に保管しておきたいので、通常は副本(ふくほん)をお貸し出ししているのですが。


 それでも、副本も払底しているときに先方からたってのお願いがあったときや、そのかたが急に遠方へ着任されることが決まったときなど、餞別がわりにご用意することがあります。

 そういうときは、叔父とふたりで夜を徹して仕上げることがしばしばです」


「仕上げるとは、つまり」


「写本です」


「写本」


「慣れておりますので、長時間とりくむのは苦ではありません。

 ―――ですので、もしご入り用なら、できるかぎりお役にたてたらと思ったのです。つまり、その―――」


「そなたの想う男がそう望むなら、ということか」


「はい」


 崔氏はことばを切った。ふたたび目元が赤くなった。


「文章を愛し、文章をたくさん書かれるかたなので、―――そのぶん、詩文や書簡をご友人にさしあげることが多いと伺っておりますので、お手元にはそれらの副本を残しておかれたいはずだと思います」


 ただの挨拶状ではなく、何らかの主題についてある程度まとまった、継続的な議論を交わすための書簡ならば、あるいは自分でも会心の出来栄えだと思った詩文作品ならば、なおさら手元に写しを置いておく必要があるだろう。


 鄭玄の学問は、経書の一言一句に対する解釈と相互の整合性を厳密に追求したものである。

 経文(けいぶん)はもとより聖人の意を伝えるものであるから、一文字一文字の書写をゆるがせにしてはならないのは当然だが、それに付された先人の伝文(でんぶん)そして鄭玄の注文(ちゅうぶん)もまた、一文字も誤ってはならない。

 誤れば、師が心血を注いで積み上げた訓詁(くんこ)の学を踏みにじることになる。


 崔氏は叔父から教えられたとおり、常にそういう覚悟で写本をしてきた。

 そしてそれだけに、写本に臨むたびに大変な気力を消耗するが、そういった訓練を積んできた分、経書とその注釈以外の文章を写すときも、同じだけの緊張感を維持して正確にやり遂げられるのではないかと思う。


 その自負があるからこそ、おこがましいとは思いつつ、このようなことをつい口に出したのだった。


 とはいえ、曹植は相変わらず呆気にとられたような顔をしている。崔氏は念のため付け加えた。


「もちろん、そのかたの周りには、わたくしよりずっと迅速に、かつ正確に書写ができる側仕えのかたがたが、たくさんおられるとは思うのですが」


「そうなのか」


「体力あるいは持久力でしたら、わたくしもいくらか、自信がありますので……休憩をあまりとらなくても、長時間つづけられます」


 体力に自信があるからといって、妻でもない身で、かつ経産婦でもない身で「丈夫な子どもを何人も生んでさしあげることができます」とはさすがに言えない。


 だから崔氏にとって、自分の長所を活かせそうでかつ曹植に需要のありそうなことというと、やはり写本かと思われた。


 彼が想いを寄せる婦人は―――(しん)夫人は、女性にとって最も基本的な務めである機織りや針仕事ばかりでなく、文筆にも幼いころから習熟しており、高い学識で以てしばしば家人を感嘆させてきたのだという。


 自分にも詩文の才能があれば、別の形で彼を喜ばせることもできるかもしれないが、そもそも詩文で己を表現したいという衝動は崔氏には縁遠いものであり、そういった創作の教育も受けていない。


 他方、写本は時間さえかければ誰でもできることだが、たとえ平凡な作業でも、曹植に必要とされて彼の役に立つものならば、きっと充足を感じられると思った。


(それに、―――このまま鄴にお戻りになったあとも、もし、わたしが書写したものが一部でも平原侯さまのお手元に残るなら)


 そこまで考えて、崔氏の目元はいっそう赤くなった。

 もしそうなったら、本当にうれしい、と思った。


 何か察せられてしまったのではないかと思い曹植のほうを恐る恐る見やると、別に察したふうはなかったが、何とも形容しがたい表情をしていた。


「―――なるほどな」


 納得できたようなできないような声で相槌を打つ。


「好いた男に写本をしてやりたいというむすめもいるのか。天下はじつに広いな。


 まあ確かに、書簡一通の書写でも骨は折れるからな。自分の代わりにいくらでも写して副本を用意してくれるというなら、大いに喜ぶ者もいるだろう。


 ただやはり、“何でもしてあげたい”は当の男の前で言うべきではない。

 多くの場合、誤解を呼ぶ」


「そうなのですか。誤解とは」


「いや、まあ、それはいい」


 曹植は目をそらしがちに言った。


「だが、写字やら写本やらはふつう、人を雇って有償でさせるべき仕事だ。

 そなた自身は苦痛ではないかもしれんが、その男から求められるがままに書写していたら、はたからは都合よく使われているようにしか見えんぞ」


「それは、そうかもしれませんが―――でももし、わたくしが差し上げられるものが形になってそのかたのお手元に残ったら、とてもうれしいです。

 労苦が報われたと、感じられます」


 曹植は何も言わず、(ひじかけ)に肘をついたまま崔氏のほうを見ていた。


 その沈黙を受けて、彼女はいまさらながら、


(一方的な願望ばかりを語って、どうかしていると思われたかもしれない)


と悟った。

 とはいえ、曹植に向けたことば自体は本心であった。


「やはり、そのかたにとっては、重苦しいでしょうか」


「いや、そうではなく、―――なんというか、妬ましくもある話だ」


「妬ましい?」


「そこまでの思慕を寄せられるとは。なかなかない話ではないか」


 そして笑みを見せた。

 いままでのような屈託ない破顔とはどことなく違った、見守るような微笑であった。

 それを向けられた崔氏の心には、喜びと苦しさとが同時に去来した。


(平原侯さまは―――平原侯さまだったら、何をお望みになるのだろう)


 写本のことは、彼にはあまり響かないようであった。


 それは、写本を頼める人手は彼の周囲にいくらでもいるということかもしれないが、おそらくそれ以上に、崔氏に―――というよりも“かの婦人”以外の婦女子一般に、とくに望むことなど何もないということであろうと思われた。


(ならば、甄夫人には、何をお望みになられるのだろう)


 いちどその問いが浮かぶと、それをどうしても知りたくなるとともに、知るのが恐ろしい心地もした。

 だが我知らず、唇は問いを発していた。


「誠に恐れながら、平原侯さま」


「うん」


「平原侯さまは、何をしてもらったらうれしいですか」


「してもらう?」


「婦人から、です」


「そなたはまた、答えにくいことを訊く」


「―――もう少し狭めますと、かのご婦人―――玉環(ぎょっかん)の贈り主のかたから、です」


 崔氏の語尾は消え入るように床に落ちていった。声の震えを悟られないようにと願った。


 曹植は瞬きすら止めて静止した。

 あまりに非礼なことを尋ねてしまったかと、崔氏は今さらながら恐れた。


「手を握ることさえ、望むのは憚られる」


 曹植はぽつりと言った。


「ただ、そこに生きていてくだされば、いいと思う」


 それだけ言うと、彼は黙った。


(甄夫人は、このかたにとって、それほどに神聖なかたなのだ)


と崔氏は思った。


 不完全で凡庸な地上の人間が、比較の対象になるはずはないのだった。


 そして、なぜこんなことを尋ねてしまったのだろう、と、今さっきの己を悔やんだ。


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