(二十二)三月上巳
そのようにして曹植の房に侍り、朝夕の身の回りの世話をし、本来の家事である縫い物や裁ち物をしながら話し相手となり、求められれば瑟を鼓し、数日が過ぎた。ときの流れがこれほど速く感じられたことは、崔氏にはかつてなかった。
この青年を我が家で療養させるにあたり、ひとつだけ案じていたことがあったが、実際にはこれも杞憂であった。
あの小川で出会った初日に彼の属僚から聞かされた話によれば、曹植は脱走癖によって彼らを焦らせるだけでなく、しばしば酒量が度を過ぎ、前後不覚になるまで飲むことも珍しくないという。
このたび彼を賓客として迎えることになった以上、主人側たる崔家が夕餉に酒を供しなければ、あまりに吝嗇というものである。―――とはいえ、この青年は最初から最後まで黙々と飲んで酔いつぶれるだけというならよいが、その過程で悪酔いするたちの人間であったとしたら、一体どう対処すべきなのか。
通常の客人ならば強い語調でなだめたり屋外へ連れ出したりするという手段もあるが、相手は丞相の子息であり、しかも療養の原因を作ったのはこちらであるという負い目もある。
滞在三日目の晩にもなると、彼は通常の食事ができるようになった。朝食と同様に、給仕自体は崔氏ひとりでも可能だが、夕食は品数が多いからか、宗主じきじきの計らいにより物慣れた使用人夫婦を補助につけてもらうことになり、膳など運ぶのを手伝ってもらった。
一通りの準備が終わり、そのふたりが曹植の房の隅のほうに下がると、崔氏は彼の前に杯を置いた。そして、若干の不安をおぼえながらも、
「田舎の地酒ではございますが」
と、厨房より携えてきた酒瓶からひしゃくで酒を注ごうとした。
だがそれは、思いがけないことに、曹植が自分の手で杯を覆ったことで阻止された。
(やはり、香りをかいだだけで、とても無理だと思われたのだろうか)
この邸内で醸造した酒としては最も上等な、祝い事の席でのみ開封されるような尤物を選んで持ってきたつもりだが、彼が鄴で慣れ親しんできた各種の美酒とは差がありすぎるのかもしれない。
「―――失礼をいたしました。明日からは、県城のほうで買い求めてまいりますので、―――それでもお口に合い難いかとは存じますが」
「いや、そうではなく、―――貴家に滞在するうちは、飲まないようにする」
曹植は妙にきっぱりとした口調で言った。
崔氏はやや戸惑ったものの、承知いたしました、とうなずき、酒瓶は食後、厨房へ持ち帰ることになった。
(でもよかった)
と道すがら、崔氏は思った。
もし彼が属僚たちの話のとおりの人物ならば、いちど酒杯を傾けたら最後、あまりに節度のない暴飲を目にすることになるかもしれない。
彼の健康のためにも、それはできれば避けたかった。
だがそれ以上に、酒が入ることで彼の言動に節度が失われること、そちらのほうを彼女は恐れていた。
たしかに、素面のときなら節度があるかといえば―――属僚たちの目をくぐって遁走するぐらいだから―――なんとも言い難い人物だが、一般論からいえば、酒によって人々から失われる節度というのは、往々にしてより深刻なものである。
たとえ傷害等に発展することはなくとも、酒が入った勢いで暴言を吐かれたり、あるいは逆に狎れて肩を抱かれたりなどしたら、何か大事なものがその場で立ち消えてゆきそうで、崔氏はそれを深く恐れていた。
だが結局、曹植は晩酌を不要だと言った。そしてそれは一時の思い付きではなく、いまに至るまでずっと、終日酒なしで過ごしている。
その事実は、崔氏を十分に安堵させることになった。
やがて月が替わり、三月上巳の日を迎えた。不祥を払うために水辺へ赴く祭日である。
本来の旅程であれば、曹植はこのころには鄴に戻り、兄弟や友人らとともに漳水か玄武池あたりで禊を行う予定だったに違いない。
だが、他家で養生することになった以上、病み上がりの身で屋外へ水を浴びにいくことはもちろんできなかった。彼自らが言ったとおり、今年は「少し早い禊」で済ませてしまったことになる。
この日、崔氏は曹植が午睡を摂るあいだに席を外し、族妹たちとともにあの小川へ出かけて禊を無事に執りおこなった。そして邸に戻り、曹植の房にふたたびようすを見に行った。
俺はまず自力では起きられないから起こしてくれ、と子どものようなことを常々言っているとおり、彼はまだ気持ちよさそうに眠っていて、崔氏は日課となっている務めを果たそうと牀に近づいた。
この房に据えられている牀は、人を収容する面積こそ広いが高さはあまりない。崔氏が前かがみになって曹植の肩に手を置いたそのとき、彼のまぶたが開きかけた。
今日はお目覚めがよろしいのだろうかと思うまもなく、手首を強く引き寄せられ、身体ごと衾のなかに引き込まれていた。
あまりのことに声も出せずにいるうちに、曹植は彼女を抱擁したまま首筋に顔を近づけ、やがて胸元に顔を埋めた。
崔氏の心臓はいまにも破れんばかりだった。
これ以上何かされるようだったらさすがに目を覚まさせようと、手近な水差しの位置を目で探し始めたが、曹植はそのまま動きを止め、ふたたび寝入ってしまったようだった。
(なんとまあ、人騒がせな)
とりあえずは一休止を得て、崔氏は少し緊張が解けた。
しかしこの状態からは早々に脱しなければならない。万が一家人か使用人が入室してきたら大変なことになる。
「平原侯さま」
返事がない。
「平原侯さま、お放しください」
「―――子建」
「え?」
「どうか、子建と」
彼女の胸がしんとなった。なぜこんなことをおっしゃるのか、と胸の奥で自問した。咽喉が渇きをおぼえてきた。
字は名の代わりに用いられるものではあるが、当人が官爵を得ている場合、目下の者は字ではなく官職か爵位で呼ぶのが礼儀である。
曹植のような立場の人間が、己と同格かより上位の貴人でもなく、まして親族でもない相手に字呼びを許す、というのはきわだった親愛の情を示す行為にほかならない。
崔氏には彼の意図が分からなかった。
だが、曹植がこれ以上ないほど自分の近くにいる、そして彼が自らそれを望んだという事実に、いまさらながら全身が沸き立つように熱くなった。
長いためらいの末、唇を少しずつ、ゆっくりとひらいた。
「―――子建さま」
初めてその字を口に出してみて、彼をずっとこう呼んでみたかったのだと知った。
それでいい、と言いたげに曹植は彼女の胸のなかで小さくうなずいた。彼がこんなに心細げに、けれど譲れない何かを求めているように見えたのは初めてだった。
崔氏は知らず知らず自ら手を動かし、髻の緩みかけた頭を抱き寄せた。
寝息がようやく規則的になったころを見計らってその抱擁を解き、そして彼の腕から抜け出し、房の一隅に身を寄せた。
ようやく思い出したように、吐息が熱く震えはじめていた。




