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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟
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(九)橘

「そうだ、義姉上」


 思い出したような曹植の声に、崔氏は意識をはたと戻した。


「橘の花ならあそこに咲いています。あの、大きく反った枝の陰に」


「どこに?―――あら、ほんとだわ」


「ほんとうだ」


「兄上、義姉上のために手折ってさしあげてはどうですか。

 俺には難しいが、兄上ならできそうだ」


「そうだな、よし」


「やめてちょうだい」


 驚くほど速やかできっぱりした声に、曹植ら三人はやや虚をつかれたように黙り込んだ。

 孫氏も一瞬後、語調が険しすぎたと思ったのか、少し申し訳なさそうに付け加えた。


「最後まで咲かせてあげたいわ。この地の気候でこんなに自ら努めて、花をつけたのだから」


「―――はい」


 曹植は短くうなずいた。曹彰は妻の顔を見つめ、口をひらきかけたが、何も言わなかった。

 孫氏はたおやかに夫の手をとった。そして何事もなかったように義弟夫婦に笑いかけ、丁寧な辞去を述べた。


 小柄な影とそれに引きずられるような巨体の影が、果樹林の奥へとゆっくり遠ざかってゆく。

 その後ろ姿が樹陰にとけこんでしまうまで見送ってから、崔氏は夫のほうを振り返った。曹植はただひとつ咲きほころんだ白い花を見上げていた。






「子建さま」


「―――うん」


「義姉上さまは決して、ご気分を害されたわけではありませんわ。

 子建さまのお心遣いはよく分かってくださったはずです」


「だが、俺は小さい頃から義姉上のご来歴を知っているのだ。

 ご心情はもっと汲めるはずだった」


 曹植は足元に目を落とし、また顔を上げて白い花を眺めやった。

 そして何かの区切りがついたかのように、ぽつりと言った。


「江南生まれの義姉上ばかりでなく、婦人の身の上はおよそあの花に―――いや、樹のほうに似ているな」


「え?」


「生まれ育った土地から引き離されて異郷に植えつけられ、見知らぬ寒暖と風雪に耐えねばならない。

 花盛りの歳月を迎えるか迎えぬかのうちから実をつけることを待望され、それだけの生命力がないと分かれば、見向きもされなくなる」


 崔氏は何も言わなかった。曹植も彼女のほうを見ないまま、静かにつづけた。


「妹たちが、貴人として帝の御許に上がることになった。

 父上のご意向では、秋には納采(のうさい)をおこなうことになるようだ」


「それは、―――まことに、おめでとうございます」


 言いながら、崔氏はまたも静かな驚きにとらわれていた。

 夫の父が天子の名において人臣を超えた地位を賜るのにつづき、夫の姉妹が皇后に次ぐ高位の后妃―――貴人の座を用意され、天子の後宮に迎え入れられるのだという。


 もとより、位人臣を極めた丞相の家に嫁ぐことが決まったときから、「たしかにこの世におわすのだ」という程度には、天子の存在を現実としてとらえられるようになったものの、やはり雲の上のひとであることに変わりはなかった。

 それが、夫のいまのひとことで、自分の属するこの曹家と玉座とは驚くほど近く緊密に結び付けられたのだ、ということを思い知らされたのである。


 そのめまぐるしさにようやく整理がついたとき、崔氏はふと、気になったことを口にした。


「妹たちとおっしゃいましたが、何人かでご一緒に、ということでございますか」


(けん)(せつ)()だ。

 華はまだ(こうがい)も挿していないから、もうしばらくは家に留まることになると思うが」


「まあ、お三方も……」


「むろん、妹たちは互いに寵を争うために後宮に上がるわけではない。

 すべては、我が家の忠誠を帝に改めてお示しし、漢室と我が家の紐帯をよりたしかなものにするためだ」


「ええ、―――妹君がたも、それはよく心得ておられましょう」


「それに何より、帝はご幼少のころから英明かつ仁慈で知られたかただ。

 (ふく)皇后とは長安に御幸されていたころより苦楽をともにしてこられた御仲であられるから、皇后をさしおいて御恩愛を賜るということはよもやあるまいが、さりとてあれらを粗末に扱うことはなされまい」


「わたくしも、そのようにお祈りいたしております。

 願わくは、みなさま少しでも早く健やかな皇子さまをお授かりになられて、帝の御おぼえがいよいよめでたくなられますように」


 崔氏のそのことばに偽りはなかった。だが、抑えがちな声の調子がふだんよりさらに抑えられていることに、曹植は気づいたようだった。


「婦人を果樹の移植になぞらえたのは、どうしても生家を去らねばならぬ世の定めを言おうとしたのだ。

 実をつけるつけないの是非は、世人の考えだ」


「はい」


「そなたにそんな顔をさせるつもりはなかった」


「申し訳ございません」


「責めてなどいない。

 が、俺の妻でいることは、それほど不安か」


「いいえ」


 崔氏は瞬時に首を振った。が、つぎのことばが出てくるまでに間が空いた。


「ですが、子建さまは、もし」


「もし?」


「もし果樹が、実をつけぬまま終わったとしても、おそばに、―――庭に残されますでしょうか」


「むろんだ」


 何をばかな、と言いたげな顔で曹植は応じた。


「では、できましたら」


「うん?」


「できましたら、―――できるかぎり、最初に植えた樹に実を生らすよう、努めていただきたいのですが」


 ほとんど消え入るような声で崔氏はつぶやいた。

 曹植は面食らったように目を瞬かせたが、まもなく腑に落ちた顔をすると、耳まで真っ赤に染めてうつむく妻の身体をてらいなく抱擁した。


「もっと言っていいぞ」


「子建さま!」


 思わず大きくなった崔氏の声をなだめるように、頭上の枝がさやかに揺れた。

 木漏れ日のあいだを縫いながら、仲夏の薫風がかたわらを通り過ぎていった。






 およそ二ヵ月後の孟秋、曹操の三人のむすめ曹憲、曹節、曹華は、曹植が妻に語ったとおり、漢室より貴人の位を授けられた。

 この時点では納采のみがとりおこなわれたが、明年中には、上のふたりは許都の後宮へ正式に迎えられることとなった。


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