第11話 sorry
「莉子さんっ!あんた、何してんだぃ!!」
突然背後から響いた声に、莉子は陽平の首から手を離した。
ドスっ!!
「をっ…ををぇぇぇ…」
洗面所の床にひいてあったマットが厚手だった事もあり、陽平は尻を打ちつつも床に転がって解放された首を押さえうずくまった。
ゆっくり振り向いた莉子の視線の先には、60代くらいの女性が立っていた。白髪混じりの髪を無造作に後ろに束ね、使い古したエプロンをしている。一階に住むアパートの大家だ。手にしたタッパーには野菜の煮物が入っている。夕食の足しにと差し入れを持って来た所、玄関越しに莉子の怒号と陽平の泣き声が聞こえたのだ。鍵がかかっていなかったのが幸いした。
「陽ちゃん!大丈夫かいっ⁈」
大家は床にうずくまった陽平に駆け寄ると、かばうように抱きしめた。
「莉子さんっ!アンタ、何したのかわかってるのかいっ?」
大家の叱責に我に帰った莉子は、息子の首を締めていた両手を化け物を見つけたかのように呆然と眺めていた。その両手の先にある鏡には、雑な化粧に手入れの行き届いていない髪、 まだ20代にも関わらずほうれい線が目立ち始めた女が写っていた。
ダッ!
バタンっ!!
「莉子さん、どこ行くんだいっ!」
気づいたら莉子はアパートを駆け出し、とにかく走った。行くあてなどもちろんない。実家を捨ててまで一緒にいたいと願った男は子供を残し浮気相手に走った。右も左もわからない東京で初めての仕事に奔走し、可愛いかもわからない陽平を必死で育てた。
慎二に出会い、惹かれ気づいた。本当はもっと恋がしたかったのだ。恋に焦がれ、女としての自分を見て欲しかったのだ。
上京した時の希望に満ちた容貌は、安い化粧品と皺と苦労で見る影もない。
気付くと、ビルの屋上に立っていた。夕闇にのまれそうになった都会は、陰陽の狭間にある異世界のようだ。
この異世界にどれだけの喜怒哀楽が詰まっているのだろう……莉子はただ、今は何処か遠くに行きたかった。どこでも良い、どこか遠くに……ゆっくりソコに向かって歩みだした。
「はっ!」
脳内が揺れた感覚がして、礼奈は現実に戻った。ここは畳一面に様々な柄の襖が雲のように浮かび、角型行灯が鈍い光を放つ妖者の結界内だ。
目の前には、風間ヶ丘高校の制服に戻った満が仰向けで倒れている。その横には、真っ赤な着物に身を包み、長く美しい黒髪を乱しながらうずくまっている女がいた。
礼奈はゆっくりとその女に近づく。
「礼奈っ!気を付けろっ!」
後ろからの國木田の呼びかけに、片手を挙げて大丈夫だと伝える。
「鈴原…莉子さんですね?」
うずくまり、肩を震わせる女に確信を持って問いかけた。ゆっくりと持ち上げた容貌は、向かって右側は皺だらけの老婆の様、向かって左側は化粧けもなく張りのあるツヤ肌をしていた。共通しているのは、両目から止めどなく溢れる涙だ。
「母親になりきれず、女としての自分も全うできず、中途半端に生きてしまったのですね。そして、その鬱憤を息子に向けてしまった。」
容赦のない礼奈の言葉に、鈴原莉子は嗚咽を激しく鳴らす。
「人を愛するという事は、辛い事ですわ。
愛し続けるには勇気が必要ですよの。裏切られたり、自分の思い通りにいかなかったり……どんなに献身的になっても、ひとつも返ってくる物がない…そんなこともザラですわ。」
礼奈は膝をつき、妖者となった莉子の背を優しく撫でる。莉子はさらに激しく肩を揺らし、後悔の念を涙に流し続けた。
「ただ、命の本流を受け継ぐこと。これだけは軽視してはいけませんわ。貴女は古い慣習に捕らわれた実家を疎ましく感じたでしょうけど……莉子さん、貴女が産まれた時、貴女のご両親はどれだけ喜んだでしょうか。大事に育てられたのでしょう?」
莉子の左右非対称の容貌が、徐々に均整を取り戻していく。若い方へと。
「思い出してくださいまし。この世に生を受けた時のことを。高々に産声をあげたことを。その時、貴女は本能的に生きることを望んでいたはずです。その産声は鼓動のベースに乗った素晴らしい独唱でしたでしょう。」
礼奈はそう言いながら、再び横笛を構えて、息を吹き込む。紡ぎ出された旋律は、莉子だけでなく結界内にいる全ての人々の心に響いた。
覚えているはずのない胎内の記憶…出産時の始めての産声…Aの音から始まった歌劇は、忘れたはずの両親や使用人達の笑顔を莉子の心の舞台に蘇らせた。
(あれっ?何コレ…)
旋律に体を任せたかや乃は、頻繁に見る夢以上の体験をしていた。おそらく母親と父親であろう人物と公園で遊んでいる。両親は現代の洋装をしていることから、近代の人物である事は間違いない。が、その数秒後に浮かぶ両親は、簡素な着物を着ていた。大きな木の元、両親や兄弟、友人と鬼ごっこをしている自分自身を眺めていた。
そして、自分の側を離れないで始終くっついている男の子の存在に気づく。人懐こい笑顔、弟とかではなさそうだが、幼馴染だろか…?
その幼馴染は、隠れんぼをしてはかや乃に見つかる。そのたびに明らかに歳をとっていき、気付けば立派な大人になっていた。
「やっとココまできたんだね。さ、早くこちらにおいでよ。」
精悍な顔つきの彼が、そう言って手を差し伸べた。
(だれ…だっけ?)
意識を集中するが、どうしても思い出せない。
礼奈が1フレーズ吹き終わると、莉子の容貌は少し幼い10代のそれに様変わりしていた。同年代にまでなった莉子に、礼奈は優しく声をかけた。
「思い出しまして?ご自分の出生を喜び支えてくれた人々がいた事を。ここで今すぐ、貴女を浄化することは可能です。ですが…ひとつお願いがあります。貴女の息子…陽平さんは立派にお育ちになり、お孫さんがいらっしゃいます。お孫さんの名前は、葵ちゃん。葵ちゃんは、生来心臓に病気を抱えて産まれました。明日手術を控えております。最後に力になって差し上げませんか?」
再び俯いた莉子は、首を嫌々と振る。自分にはそんな資格はないと言わんばかりだ。
「このままでは負の連鎖が続くでしょう。陽平さんの心の中には、あなたから受けた傷が心的外傷となり、それは自分の孫に向けて知らず知らずの内に攻撃をします。呪われた因縁を断ち切るのは、貴女にしか出来ません。」
礼奈の必死の説得にも、莉子は畳を見つめたまま、さめざめと泣き続けている。
「先輩、おかしいと思いませんか?」
「ん?何がだ?」
周囲を警戒していた益荒が、視線を走らせたまま國木田に問う。
「あの妖者、すっかり霊気が衰えてるのに、作り出した結界はまったくほころびを見せてません。ほら、さっきぶつかって崩れた襖も元に戻ってます。」
指示棒で指した先には、國木田とかや乃が叩きつけられた襖があったが、確かにボロボロに破れたはずの襖が元の美しい富士山を取り戻している。
「このままだと、礼奈が浄霊しても魂が閉じ込められちまうな。やっぱり頼むぜ、かや乃ちゃん…おい?大丈夫か?」
先程の旋律に当てられたかや乃は、半分回想の世界に入ったままだった。國木田の呼びかけに我に帰る。
「あっ……はっハイ!大丈夫です!」
「妖者の結界内ですからね。用心して。」
「すみません。気をつけます。」
そんなやり取りの間にも、礼奈の説得は続いていた。
「確かに貴女は過ちを犯しましたわ。ですが自ら命を絶った後、地縛霊にも浮遊霊にもならずに、妖者となってこの土地に現れました。同時期に私は、貴女の息子さんとそのお孫さんの事件に遭遇しました。そして今、解決の糸口が見えてきましたわ。これは神のお導きに他なりません。」
莉子は時折顔を上げるが、決心がつかないのか、再び塞ぎ込んでしまう。元々世間知らずなお嬢様が勢いで都会に飛び込み、大人になりきれぬまま死んでしまったのだ。莉子の魂は未成熟なまま、罪の意識だけに捉われている。
「先輩、もしかしてこの結界…?」
「あぁ、満に取り憑いていたあいつ以外に…黒幕がいる可能性が高いな。」
「黒幕?他に妖者が隠れているんですか?」
礼奈の浄霊が完了するまで、警戒を怠れない。國木田、益荒、かや乃の三人は背中合わせになり、前後左右上下の360°に視線を走らせていた。
「高梨先生も以前、今後はより強力な妖者が出現するかもしれないって仰ってましたし。ちょっと前に満が襲われたのも、偶然ではないでしょう。」
「用意周到に罠を張っていたってわけか。」
かや乃は避難訓練の時の出来事を思い出していた。産まれたばかりで両親共々殺されてしまった赤子の霊。その御霊を送った後も、暗い洞窟の様な結界は崩れなかった。そもそも、あの赤子の霊に妖者としての力を与えた者がいる、とマコルも言っていた。今回も満に取り憑いた妖者に、後ろ盾がいるということか。
一方、説得に応じない莉子に礼奈は段々と苛立ちを覚えていた。お嬢様育ちの礼奈だからこそ、同じお嬢様育ちの莉子のためらいや恥じらいもわかるというもの。だからこそ。
礼奈はスックと立ち上がると、莉子の顔を両手で包み、まっすぐな視線で説いた…いや、叱った。
「あなたの力を必要としているのです!今度こそ命を賭して守るべきものを守りなさい!」
礼奈の手のひらに包まれた莉子の幼い顔が一瞬、ビクッと震える。涙の泉が再び溢れ出し、張りのある肌にいくすじもの滝を作った。
「わっ…私に…でき…ます……かっ?」
初めて聞いた発声は、予想以上に幼かった。
「私にお任せ下さい。」
礼奈はニッコリと微笑むと、三度横笛を構えた。
「かや乃ちゃん、出番だっ!」
國木田の呼びかけにかや乃は構えをとる。
両手のひらを合わせて前方へ。右手を上、下に。その動きに合わせて炎の弓が出現する。
続くかや乃の動作に合わせて、矢をつがえた人馬が出現した。
「一発必中!Un coup de cheval(人馬の一撃)!」
かや乃が放った鬼火の矢は豪華絢爛な襖を次々と破り、天井に大きな穿孔を開けた。穴の先見えた真っ青な空が目に入った時、かや乃はふと目が潤んだ。
「ふぅ、つまんない事になったねぇ…。」
こう呟いたのは、都立風間ヶ丘高校の体育館と校舎をつなぐ2つの渡り廊下のうちの1つ、東側の廊下の上に立つ人物だ。黒をベースにした着物の袖から見え隠れする長襦袢は真紅。輝く金の帯締めには銀の龍が泳いでいる。手元の煙管を吹かせ、厚い化粧に気だるい表情を作っている。通常後ろに送る帯締めを胸元に、長い髪を大きく結い上げた頭部には陽を反射してきらめく簪、笄、櫛を数多刺している。
「やっぱりあんさんの仕業やったか…花魁っ!」
「はぁ?何者かいな?」
背後からの問いかけに、面倒くさそうに振り向く。
そのこには二本の尾を威嚇するようにくねらせ、警戒姿勢をとっている猫又のマコルがいた。
「愛と欲情を司る第二階層の守護者…明暁姫!こんな真昼間からお出ましとはな。」
細い目を更に細めて…明暁姫はマコルに鋭い視線を向けた。
「アチキの事をご存知かいな?主さん、ただの猫又じゃぁないねぇ。」
「あんさん、覚えておらんやろな。ずぅっと昔に会うとるねん。まだ学校に命宮山があった頃になっ!」
ヒュヒュヒュッ!!
「おおっと、冗談はよしこさんや!」
マコルめがけていくつもの簪が襲った!マコルは確実に一つ一つを二本の尾で撃ち落とす。
カラカラカラン!
2人の間に弾き飛ばされた簪が乾いた音を立てて飛び散る。
「その名前を知っているということは、主さんもあの御方の庇護にあやかったということ…だが、地上にいるモノは裏切り者っ!」
「よしてやっ!わいはたまたま遊びに出てただけや、あん時なっ!」
ドオォォォンッ!!
音を伴った霊波の振動が空気を揺らした。霊感の無い者には、軽い地震に感じられただろう。突然の音に思わず両者、体育館の方を向いた。
体育館の入り口、警備室がある辺りの空間が歪み、穴が空いている。そこから赤い球体が最初はゆっくり、次第に馳ける様に西の方角に飛んで行った。
「フンっ!今日はこれでお終いだねぇ。」
花魁は煙管を一つ吹かすと、広がる煙に溶けるように消えていった。
「あっさりドロンかいな。ま、わいでは勝てへんからな。さっ、檀なはんに報告せなっ!」
マコルは尾の緊張をとくと、渡り廊下を東棟方向に走っていった。
礼奈が奏でる三度目の音楽は美しく流れる包容力を持った旋律だった。時折響く高音のGが伸びやかに高らかに、そして雄大に周辺の空間全体を震わせる。誰もが何の不自然さもなく明日が来ると信じていた頃、平和で退屈で父がいて母がいて兄弟が側にいる……目が覚めてもそんな日常が当たり前のように繰り返されると疑いもしなかった。そんな頃に帰りたくなる、いや帰れるのではないかと思ってしまう郷愁感を呼び起こしていく。
「あっ!妖者がっ!」
かや乃が指差した赤い着物の女の全体がぼやけ人の形を崩すと、赤い光球となり、フヨフヨと辺りを漂い始めた。
次第に速くなっていくBPMに乗り、踊るかのように動きを増す。そしてかや乃が開けた穴目掛けて一直線に吸い込まれていった。
ーーー
「鈴原さんっ!大変です!」
「なっ!何ですかっ?葵がどうかしましたかっ?!」
ここは、風間ヶ丘高校の西方にある桃園大学付属病院。近隣で一番大きな総合病院だ。本日午後から鈴原陽平の孫、鈴原葵の手術が予定されている。
葵は手術に向けて最終検査を受けていた。しばらくして、検査部屋から担当医が飛び出して来たのだ。
「鈴原さん、落ち着いて聞いてください。」
と言いながら、陽平の肩を抱く担当医は驚きを隠せない。まだ30代だが、医療に身を捧げた評判の医師だ。ずり落ちそうなメガネを直す余裕もないようだ。
「何があったんですか? 葵は大丈夫なんですかっ?」
一向に結論を言わない医師に、陽平はつい声が大きくなる。
「いいですか…信じられない事が起きました。」
目を見張りながら陽平の肩を揺さぶり、もったいぶる…いや、本人も口に出して良いのか、本当なのか信じられない様子だ。
「先生、落ち着いてください。葵は大丈夫なんですか?何があったんですか?」
恐らく、葵は生きているであろう事は察した陽平は冷静に問いかけた。
「葵ちゃんは大丈夫です。大丈夫なんですよ!心臓に何の異常も見当たりません!!」
「なっ…?何て言いました? 葵は僧帽弁閉鎖不全なんですよね?」
担当医のまさかの言葉に、今度は陽平が驚嘆の声を上げた。
「そうなんです、そのはずなんです…それがっ!僕も信じられなくて、三回検査しました。他の医者も呼んで確認してもらいました。葵ちゃんの心臓は正常です。何一つ悪い所はありませんっ!!」
ストンっと膝をつき、天井を仰ぎ見た。窓から射す光の合間にキラキラとホコリが舞う。本当の事なのか?
夢ではないか?
もう一度検査したら、やっぱり病気だった、何かの間違いだなんてことはないのか?
信じたいが信じられない、信じていいのかわからない…複雑な感情が陽平の動きを凍結させた。
「鈴原さん、ちょっと待ってて下さい。今、検査結果をお出しします!」
医師はそう言うと、検査室に駆け込んで行った。
目をつぶりまぶた越しに光を感じながら、これが間違い出ないことを祈った。
身寄りのない陽平は、幼少を保護施設で過ごし、若くして仕事に就いた。そこで出会った女性と結婚し、子供をもうけるも妻は出産時に亡くなってしまったのだ。
親という存在をろくに知らない陽平だったが、一人娘を大切に育てたつもりだ。決して良い父親ではなかっただろう…娘は手前味噌だが気立ての良い子に育ってくれた。結婚し、初孫が出来た時、この子には何不自由ない生活をさせてやろう、着たい服を好きなだけ買ってやろう、ハンバーグを好きなだけ食べさせてやろうと誓ったのだ。
ふと、左側の窓越しに暖かい気配を感じた。
目を閉じたままゆっくり顔をそちらに向けると、後光を放つひとりの女性が少し恥ずかしそうに、ためらいつつも微笑まずにはいられないといった表情で立っていた。
忘れもしない…そう、忘れたくても忘れられない陽平の母、莉子だ。
「マ……ママッ……!」
目を閉じていてもはっきりと見えた。あんなに憎い存在だったのに…何十年振りに目の前にした莉子は美しく、神々しさを感じさせた。
莉子はゆっくり近づくと、そっと陽平を抱きしめた。
語ることはない。ただ、抱きしめ続けた。
陽平は、憎しみと安堵と切なさと心強さと…溢れ出る感情に身を任せた。涙…ではすまされない程涙腺を決壊させた陽平は、子供のようにお嗚咽を鳴らしながら泣き続けた。
そんな陽平の背中を撫でる莉子の手から、一つ二つと手が増えては地面に落ちていく。その手たちは指で器用に歩き回り、手首に当たる部分で立つと、バイバイと陽平に向かって自身を振りながら消えていった。
次第に莉子の体も空間と一体になって行く……存在が一つ一つ、光に溶け込んで行き、莉子は消えていった。
莉子の温もりを感じながら、葵を助けてくれたのは他ならぬ莉子だと、陽平は確信した。
自分の首を絞め、殺そうとした母親だった。




