第1話 空っぽの心と、一通の葉書
誰にでも、もう何もかも投げ出したくなるような、どうしようもない瞬間ってあると思います。
本作の主人公である夏生も、仕事に挫折し、実家のトラブルに巻き込まれ、さらには愛していた恋人も失い……まさに人生のどん底から物語がスタートします。
すべてを失って「空っぽ」になってしまった彼の心に、どうか少しだけ寄り添っていただけると嬉しいです。
それでは、第1話「空っぽの心と、一通の葉書」をお楽しみください!
生きてゆくのが、こんなに辛いなんて。
何もかもに絶望した僕は、履いていたサンダルを脱ぎ、町の中に掛かる橋の欄干に登って三メートル下を流れる水路を覗き込んでいた。
新卒で入った生命保険会社で、東京の台東支店に営業として着任したのが二年前。
その間ずっと成績は上がらず、上司には事あるごとに罵倒され、同僚からも蔑まれ続けてきた。
「お前だけだ。四ヶ月も五ヶ月も目標未達成なんて。恥ずかしいと思わないのか?」
上司である支店長はパワハラまがいの言葉を使って、僕の神経をギリギリと削ることに毎月腐心していた。
僕の仕事は、実際に営業活動をしてる、所謂「生保レディ」さんたちの売り上げ管理が主な業務だった。
僕の任されている地域の潜在需要に対して、過大な目標が課されているのは周知の事実。
支店長はそのことを知っていながら黙認していた。
晴れて台東支店の不良債権となった僕は、先輩たちの分まで毎月怒られ、精神を病む直前まで来ていた。因みに僕の前任者も鬱病になり、一年間休職の末に依願退職したという。
それでも生保レディさんたちは、
「がんばんなさいよ。あたし達もがんばるから」
と言っていつも励ましてくれた。
しかし、僕を取り巻く状況は、自分でコントロール出来ない範囲でも僕を追い詰めるようになった。
ある日、携帯に姉から着信があり、父が突然吐血して倒れたとの一報を受けた。
食道に静脈瘤が出来てそれが破裂したのだという。結果として還暦を前にして、父は自分の会社を畳むこととなった。
しかしだ。事業を畳むこととは、会社にまつわる金を清算することでもある。
父の会社は従業員は居らず、退職金などを支払う必要がなかった点は良かったが、母も知らなかった借金が出てきたのだ。その実、ほとんど自転車操業だった。
返済が滞った借入先の闇金から僕の職場へ支払いの督促FAXが送りつけられてきたりと、会社の人事からも僕はマークされてしまった。
人事に呼び出しを受けて東京本社に赴くと、開口一番、
「闇金から借りて何に使ったんだ? そんな事をして生保マンとして恥ずかしくないのか!」
事情を聞きもせず、そう罵倒された。
説明を試みて自分の借金ではないことは何とか理解してもらえたが、「この件に限らず、君には何かと問題がありすぎるね。もう、出世とか望んじゃだめだよ」
と、出世コースからは外れたことを宣言された。
何を言ってるんだ。僕は、出世なんてもうかなり前に諦めている。
でも、父の話は尾ひれがついて遂には僕の管理している生保レディさんたちにも伝わり、みんなそれを境に僕の指示は聞かなくなった。
その事に僕の心は完全に折れた。
遂に見限られ、僕は会社には居られなくなってしまったのだ。
「そうか。考えた末なら仕方ない。まあ、頑張んなさい」
退職願を渡した時、支店長からはそう声をかけられたが、彼や同僚から一切の慰留はなかった。
私物をまとめてフロアにいた同僚に挨拶をした時、辞めて気分が少し軽くなったのは本当の事だ。
でも、会社ではほとんど役に立たなかったことや、実家のゴタゴタに巻き込まれてこの職場を去らねばならなくなった事に対しては、無念しか残らなかった。
空っぽ。
それは僕を形容するためにできた言葉なんじゃないか。そんな気すらするくらい、僕の心は空虚だった。
有給を消化して借り上げ社宅を退去する日、しばらく音信不通になっていた由乃から葉書が届いていた。由乃は大学時代からの僕の恋人だった。
彼女は地元の銀行に勤めたが、ムラ社会のようなテラーの女子行員の中で苛めに遭い、心身共に消耗して入退院を繰り返していた。
親は地元の俗にいう名士で、可愛い愛娘に付いた悪い虫である僕の事を毛嫌いしていた。
結婚願望が強かった僕は、そんな由乃を見舞う事で彼女の両親の歓心を買おうとしたのが災いしたのかも知れない。僕は彼女の家に赴いて、由乃の両親に挨拶をした。
その場はとても上手く行った。和やかに話すこともできたし、自分のアピールもできた。
しかし家族の話になった途端、両親の笑顔は作り笑顔に変わった。
その後、彼女の両親の強力な勧めで彼女は僕をアッサリと振った。
僕が転勤してすぐの頃だった。
由乃から電話が来て、別れを切り出された。
遠距離だと言うこともあり、切り出しやすかったのだろう。
しかし諦めきれない僕は、
「ちゃんと会ってケジメをつけたいんだ」
と言って無理やりに地元へ帰省し、彼女と会った。
付き合っていた頃、いつも僕の父の車でデートをしていたが、最後の日、二人は別々の車に乗って水辺の公園に集った。そしてケジメをつけて、それぞれの車で別れていった。
「私は親が望むような結婚をしたかったのよ」
その時、由乃はそう言った。
父が会社経営をしていて浮き沈みの激しい生活を送ってきたこと、洒落者の父が輸入車を好み一見派手に見えることなどが、特に由乃の父親に不評だったらしい。
全て田舎者らしい保守的な理由だが、それを否定してもなににもならない。
会社でも戦力外。
彼女からも戦力外。
親は半ば破産状態。
僕が二十六歳で死ぬ理由など、いくらでも出来た。
あの後、勤務先の東京に戻った僕は食事が喉を通らなくなり仕事もうまく行かなくなり、体重が十キロ近くも落ちたっけ。
あれから二年近く経って、そんな由乃が僕に送ってきた葉書には、あの達筆な字でこう書かれていた。
『今度結婚することになりました』
「どんな男が由乃のお父さんの眼鏡に適ったんだろうな」
考えたくもなかったが、僕のなにがダメで、その男の何が良かったのか。こんなにも空虚になった自分なのに、それを知りたくて堪らなくなった。
これも未練の一種なのだろう。
引越し荷物を送り出すと、片付けもそこそこに近くのコンビニでやはり葉書を買ってきて、したためて投函した。
『今度、地元に帰ることになりました。僕にその資格があるかどうか分からないけど、是非直接会って祝福させて下さい』
翌日僕は列車に乗り、実家に一旦戻った。
僕の部屋はそのままだったが、元気な頃は家には寄り付かなかった父が大広間で布団を敷いて伏せっていた。
会社員を落第して実家に戻った僕と、働くことができなくなった父との間に会話はなかった。
ゆっくりする暇もなく、実家に戻ってからというもの、父の会社の清算に奔走した。
まず転勤中に貯金した金で闇金からの借金を綺麗にした。
姉の友人の父親が会社を倒産させた時に債権整理を担当した弁護士に相談し、家族に危害が加わる危険性のある借入先に優先して返済し、後は知らぬ存ぜぬを通せ、というアドバイスに従ったのだ。
その日を境に、確かに変な督促はピタリと止んだ。
リース会社や銀行からは定期的に事務的な督促の封書が送られてくるのみとなり、僕宛の督促の電話や訪問は法律を守っている限り来ない。
そんな対策に追われて、由乃への連絡が滞っていたのを思い出し、恐る恐る由乃の携帯電話に掛けてみた。
しかし、女性の機械音声で応答があり、もはや由乃の電話番号は有効でないことを告げていた。
頭に血が上り、見境が付かなくなった僕は由乃の実家に電話をした。
「はい、春日ですが」
三コールで繋がった電話先で、由乃の母親の声がした。
僕は一挙に怯み、電話を慌てて切ってしまった。
第1話を最後までお読みいただき、ありがとうございます!
東京で完全に心が折れてしまった夏生。そして、傷心の中で届いた元カノ・由乃からの残酷な知らせ……。逃げるように故郷の柳川へ戻った彼を待っているのは、果たしてどんな現実なのでしょうか。
次回は、同級生からの衝撃的な事実の宣告、そして水郷の町での「再起」を描く第2話となります。
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次回もどうぞよろしくお願いします。




