五
全ての時が止まった。
玉蘭は大きく目を見開いたまま、睡蓮の顔をじっと見つめている。睡蓮は息を止め、玉蘭の冷たい唇をぎこちなく喰んだ。初めての口づけは、苦い涙の味がした。
「――――」
次の瞬間、それまで大人しくされるがままでいた玉蘭が、睡蓮の腰を痛いほど抱き寄せ、深く溺れるように口づけた。その激しさに思わず仰け反った睡蓮の赤く濡れた唇を、玉蘭は逃すまいと追いかける。容赦のない交歓は果てしなく続き、やがて褥の上に力なく崩れ落ちた睡蓮は、幼子のように小さく啜り泣いていた。その震える両手を戒めるように顔の横で縫い止め、睡蓮を腕の中に組み敷いた玉蘭は、ぞっとするほど低い声で艶やかに囁いた。
「………だから言ったでしょう、お嬢様。俺は、決して優しくなどないと」
吐息が触れ合う距離にある玉蘭の綺麗な顔は、今や少しも笑っていなかった。けれど、睡蓮の赤く腫れた目尻に口づける唇や、涙に濡れた頬をたどる指先からは、彼女をいとおしむ気持ちが確かに伝わってくる。
―――玉蘭がわたしを求めている!
睡蓮は心から歓喜し、頬を染めて焦がれるように玉蘭を見上げた。
「………最初はただ純粋に、お嬢様を守りたいと思っていたのですよ。今にも泣き出しそうな顔をして、俺の腕に飛び込んでくる小さなあなたが可愛いくてならなかった。けれど、いつしか。俺の胸で無防備に涙を流す繊細なあなたを、そのまま腕の中に閉じ込めて、誰にも見せたくないと思うようになった。
お嬢様は俺に依存していたと言いましたが、そうさせたのは他でもないこの俺です。本当は、傷ついたあなたの心の支えになりながらも、上手に自立させていく慰め方はいくらでもあったはずなのに。残酷な俺は、人のぬくもりに飢えていた孤独なあなたを必要以上に甘やかし、溺れさせ、俺だけを頼るように仕向けたのです」
―――幻滅しましたか?
玉蘭はくすりと自嘲し、睡蓮の頬を流れる涙に舌を這わせた。
「それでも、ひどく歪んだ感情ではありましたが、その時点では確かに恋情ではなく、幼いあなたをどうにかしたいなどとは夢にも思わなかった。ただ、無邪気なあなたに俺だけのお嬢様でいてほしかったのです。
それがはっきりと変わったのは、お嬢様と姉上の婚礼を眺めていた時の事でした。あの時、俺はお嬢様の美しい花嫁姿を想像し、全く祝福できない己に気づいたのです。それだけならまだしも、お嬢様の隣に寄り添う架空の男に強烈な嫉妬と羨望を感じ、あまつさえ、その男に成り代わりたいと願ってしまった。そこで初めて俺はお嬢様に対する異常な執着が、親愛ではなく恋慕によるものだと自覚しました。
お嬢様はあの時、戯れに俺の花嫁になりたいと言ってくれましたね。あなたの他愛ないその一言で、天にも昇るほど狂喜したこの俺の気持ちを、あなたは一生知らずにいるべきだったのに」
―――もう、逃がしてはあげませんよ。
そう囁いた玉蘭の熱い吐息が、力が抜けた睡蓮の手足をなぞる。その熱心な愛撫は、互いの顔を見ないまま、作業的に行われた当初の行為とはあまりにかけ離れたものだった。玉蘭がもたらす未知の感覚に酔いしれながら、睡蓮は震える手を伸ばして縋り付く。
「ぎょくらん」
―――すき。
まるで幼い頃に戻ったようだった。何度も唇を合わせながら、睡蓮は拙い言葉で愛を告げた。
「だいすき。ずっと、おまえがすきだったの………」
―――だから、おまえのそばにいさせて。
睡蓮の切実な告白は、最後まで聞き届けられる事なく、玉蘭の唇に飲み込まれていった。
* * * * *
次に目覚めた時、睡蓮は玉蘭の腕の中にいた。
「気がつきましたか」
額に優しく口づけられ、睡蓮は昨夜の出来事が夢ではなかったのだと、心から安堵する。玉蘭はそんな睡蓮を引き寄せ、己の体の上に抱き上げた。睡蓮は玉蘭の広い胸に頬を預け、目を閉じて静かな心音を耳にする。玉蘭が確かに生きている事を実感し、睡蓮はうっとりとため息をついた。
「おはよう、玉蘭………いえ、龍蘭と呼んだ方が良い?」
睡蓮の言葉に、玉蘭は穏やかな顔で首を振った。
「いいえ、どうかそのまま玉蘭と。もうその名で俺を呼ぶ人はいません。あなたの前だけでは、真実の俺でいたいのです」
「………『玉蘭』は、わたしだけのもの?」
「ええ、もちろん。最初から、俺の心はお嬢様のものです。あなたも、俺だけのお嬢様になってくれますか?」
「―――っ」
睡蓮は何度も頷きながら、玉蘭の首筋にすがりつく。幼い頃から何かを手に入れる事を諦めてばかりいた睡蓮にとって、初めて欲したものが自分のものになったという事実に感動し、ようやく止まっていた涙がまたぽろぽろと溢れ出した。
「お嬢様は本当に泣き虫ですね」
「………誰のせいだと思っているのよ」
「はは、俺のせいでした」
玉蘭は苦笑し、睡蓮の赤く腫れた瞼に優しく触れる。昨夜から散々泣き続けたせいで熱を持ち、かなり視界が狭くなっていた。鏡を見ればさぞ悲惨な顔になっているに違いない。
(鏡―――)
そこでようやく銀の手鏡の存在を思い出した睡蓮は、玉蘭の胸から起き上がろうとしたものの、背中に回った二本の腕がそれを許さない。睡蓮は鏡を諦め、玉蘭が望むままに、その腕の中で大人しくすることにした。
「………ああ。二年間も同じ王宮にて、お嬢様の存在に気づけなかった己を恨みます」
睡蓮のつむじに頬をよせた玉蘭は、その柔らかな肢体を堪能しながら、ひどく悔しそうな表情で言った。睡蓮は首を傾げ、ずっと疑問に感じていた事を尋ねた。
「でも、それならどうして昨夜はわたしを選んだの?」
「………籤です。いつものように宦官に作らせたものを適当に引き、中を確認せず寝室へ向かいました。あなたでないなら、誰でもよかったのです。そこにいた名も知らぬ女がお嬢様だと知った時には、驚きで心臓が止まるかと思いました」
どこか気まずそうに目をそらした玉蘭を見て、睡蓮は彼が今まで閨を共にした女達を思い浮かべ、密かに嫉妬する。世継ぎを作る事は皇帝の義務である。しかたのない事だと分かっていても、決して良い気分ではない。
行き場のない怒りをぶつける代わりに白皙の頬をつねってやると、その幼い仕草を気に入った玉蘭は、痛がるどころか嬉しそうに微笑んだ。
「お嬢様は本当に可愛らしいですね。目をこんなに赤く腫らして、まるで兎のようだ」
「玉蘭………お前、本当に趣味が悪いわね」
睡蓮はうんざりとため息をつく。寝起きの玉蘭は髪が微かに乱れているものの、相変わらず憎らしいほどに端正な顔立ちをしている。こんなに美しい顔を毎日鏡で見ているはずなのに、どうしたらここまで美的感覚が狂うのだろうか。
「―――知っていましたか、お嬢様」
不意に、玉蘭が声を落とし、睡蓮の首筋を撫でた。その指先が細い喉をすべり、ある一点を掠めた時、睡蓮は思わず息を飲む。白い肌に赤く咲いたその花は、昨夜玉蘭の唇にいたぶられ、睡蓮が一際痴態を晒した場所だった。
「あなたは泣き顔が一番可愛らしいのですよ」
そう、不敵に微笑む玉蘭に、睡蓮は羞恥のあまり声も出ない。
『天子様は意外と物好きな男かもしれんぞ』
ふと、かつて宮女募集の看板の前で出会った旅人を思い出す。その罰当たりな発言が当たっていた事に気付き、睡蓮は密かに感心したのだった。
* * * * *
―――その後、朱才人は皇帝から深い寵愛を受け、やがて正妃の座に登りつめる。類い希なる美貌も秀でた芸も持たない彼女が、いかにして美しき皇帝の心を射止めたのかは誰も知らない。