エピローグ
「せいちゃん、さよならぁ~!」
「バイバイせいちゃん!」
「せいちゃん、また明日ねっ!」
それぞれの部活を終えた生徒たちが誠吾の姿を見かける度に口々に帰りの挨拶をしてゆく。
「お前らせいちゃんって言うな! 暗くなってきてるから気をつけて帰れよ!」
「はぁ~い!!」
帰途につく生徒たち一人ひとりに気さくに声をかけていた誠吾だが、ふとその眉間に皺が寄った。セミロングの艶やかな黒髪をなびかせ、男子校舎側から女子校舎の方角へと走り去ろうとしている一人の女子生徒を見つけたせいだ。
「こらぁ倉沢ぁ!! 廊下は走るなぁ!!」
誠吾はそう怒鳴りつけたが、細い足は止まることがない。すみませんっ、急いでいるのでっという返事だけが遥か遠くから聞こえてきた。
「しょうがない奴だな……」
結局立ち止まらせる事ができなかった誠吾はそう口中で愚痴ると、肩を竦めて職員室へと戻っていった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
カノンの正門前に一台の車が停まっている。
運転席から降りて車外で煙草を吹かしていた一人の人物が、たった今誠吾に叱られながらも足を止めずに飛び出して来た少女を見つけ、嬉しそうに手を挙げる。
「お~い! お兄さんはここですよぉ~!」
正門前で自分を待っていたその人物を見た少女は「うげっ」と言うと足を止めた。
「なんであんたそこにいるのよっ!?」
「そりゃあ愛しの君に逢いたいからに決まってんじゃん」
「私は別に会いたくなぁーい!」
そう叫んだ少女は倉沢葉月。桃乃の妹だ。
「相変わらずつれないなぁ葉月ちゃんは! 会社が退けてから急いで車を飛ばしてきたのにさ、そこまで冷たくされるとさすがのお兄さんもいよいよ泣いちゃうかもしれないよ~?」
と紫煙をくゆらせながら葉月に笑いかけたのは孝太郎だ。そんな屈託のない笑顔を向けられた葉月はわずかに顔を赤らめ、プイとそっぽを向く。
「勝手に泣けばいいじゃない!」
「うん泣くよ。でも場所は葉月ちゃんの胸の中限定でね」
「バカじゃないの!? 死んでもゴメンよ!!」
「ははっ、いつもの罵詈雑言は車の中で聞くよ。部活の後でお腹空いただろ? なんか食べて帰ろう。ほら乗って」
孝太郎が助手席のドアを開ける。
「い、いい! 電車で帰るから!」
「あ、それはダメ。一人で帰すの危ないからね」
「もうっ! あんたが来る前に急いで帰ろうと思って出てきたのに! これなら里美とゆっくり来れば良かった!」
「サトちゃんはまだカノンにいるの?」
「いるわよっ」
「じゃサトちゃんも待ってようか? 三人で一緒にゴハン食べに行こう」
「なんであんたはいつもそうやって遠慮がないのよ! 私はあんたのことなんか好きじゃないって言ってるでしょ!?」
「でも俺は葉月ちゃんのことが好きだから。単に俺のことが好きじゃない、ってぐらいなら諦められないなぁ。人の気持ちは変わるもんだしね」
葉月を待ちくたびれて疲れたのか、孝太郎は腕を上にあげて大きく伸びをする。
「それにさ、俺今年メッチャ運気がいいらしんだよ。待望の彼女も出来るって言われたしね」
「誰によ?」
「俺の姉貴」
「あんた、お姉さんにそんな適当なこと言われてそれそのまんま信じてんの? おめでたすぎ!」
「あれ、まだ葉月ちゃんに言ってなかったっけ? 俺の姉さん、占いを生業にしてんだよ」
「あんたのお姉さんって占い師なの!?」
「これでも結構有名なんだぜ? 朝のTVで星占いのコーナーも担当してんだから」
「へぇ……知らなかった」
「で、その姉上さまからのお墨付きなわけですよ。今年の俺はもう十年に一度というレベルのイケイケな運気で、メッチャカワイイ彼女も出来るってね。つーことはさ、それって葉月ちゃんしかありえないっしょ?」
「だから勝手に決め付けないでってば!」
しかしいくら葉月が怒鳴っても、孝太郎にとってはどこ吹く風だ。
「いえいえ、まだ今年は半分以上残ってるし、孝太郎お兄さんは慌ててませんよ? 大晦日の除夜の鐘の音を聞き終わるまでは葉月ちゃんを諦めませんのでよろしくっ!」
「なんであんたと知り合っちゃったんだろ……」
葉月がガックリと肩を落とす。
「そういうなよ葉月ちゃん。俺は裄人に感謝してんだぜ? だってあいつが真里菜ちゃんを追って欧州に行く時の見送りで葉月ちゃんと知り合えたんだからね」
「何言ってんのよ! あんたとはその前にとっくに顔を合わせてるわよ! あたしが裄兄ィの家に用事で行った時にあんた上がりこんでいたことがあったじゃない!」
「そんなことあったっけ?」
「あったわよ! それでその時あたしに “ 10年経ったら俺のお嫁さんに来てくれない? ” って言ったの覚えてないの!?」
「お! ってことは俺もう葉月ちゃんに一度プロポーズしてるんだ!? さすがだなぁ俺!」
「何自分に感心してんのよバカ! あの時のあんたの軽さにあたし呆れたんだからね!」
「ごめんごめん、それは若気の至りってことで許してよ」
孝太郎は一度車内に半身を乗り入れて吸い終わった煙草を灰皿へと捨てると、再び葉月に向き直った。
「でもあの時は偉かったよな葉月ちゃん。裄人を見送る時は一切泣かないで、あいつの乗った飛行機を展望デッキで見送る時まで我慢したんだから」
「ちょっ、もうそのことは言わないでって何度も言ってるでしょーっ!!」
すると孝太郎はわざと声を大きくして更に詳しく内容を語る。
「そんで飛行機がついに見えなくなった後、横にいた俺に抱きついてわんわん泣いたんだよなぁ。俺にとってはあの時が葉月ちゃんとの初対面のようなものだったけど、なんかその姿がとっても健気でさ、お兄さん、あれで一気に葉月ちゃんに胸キュンしたからね」
「止めてぇーっ!! だからもうその話はしないでって何度言えば分かるのよっ!?」
「いや、悪いけどたぶん一生言っちゃうと思うよ。だって葉月ちゃんのその恥ずかしがる顔がお兄さんにはすごくたまらないんで」
「バカバカバカ!! あんたなんか大ッ嫌い!! ほら大嫌いって言ったわよ! 早くあたしを諦めなさいよ!!」
「ん~、でも今の大嫌いは単に売り言葉に買い言葉的なニュアンスだと思うので、ノーカウントで行かせていただきます!」
「バカーッ!!」
そこへ葉月の親友で同じカノンの生徒となった石塚里美が正門から出てくる。
里美は、「葉月ちゃんまだいたの? もう孝太郎さんと帰ったのかと思ってた」と小首をかしげる。小学生の頃よりも更に伸びた長い三つ編みがその動きに合わせて大きく揺れた。
「よっサトちゃん! 久しぶりだね」
片手をあげて挨拶をする孝太郎に里美はニッコリと微笑んだ。
「お久しぶりです。今日はお仕事早く終わったんですね」
「うん。っていうか無理やり早く終わらせた。そろそろ葉月ちゃんの顔見ないとストレスでおかしくなりそうだったんでね」
「ふふっ、ごちそうさまです」
「ごちそうさまじゃないわよ里美!!」
この和やかな会話を切り上げるべく葉月が声を張り上げるも、共にマイペースな性格のこの二名には通じない。
「サトちゃん、これから葉月ちゃんとゴハン食べに行くんだけどさ、一緒に行こう?」
「いえ、私は結構です。葉月ちゃんと二人でどうぞっ」
「それがさ、葉月ちゃんに断られそうなんだよ。だからサトちゃんが来てくれれば葉月ちゃんも素直についてきてくれると思うんで、ここは一つ、優しいサトちゃんのご協力をお願いしたいんですが」
「ごめんなさい、今日は早く帰らないといけないんです。親も心配しますから」
「そっか……。OK、じゃあせめて駅までは送らせてくれよ?」
「本当にいつも済みません。じゃあお言葉に甘えてお願いします」
「私も早く帰らないと親が心配するんだけど!?」
慌てて口を挟んだ葉月に、孝太郎が勝ち誇った表情で片目を瞑る。
「あ、もう葉月ちゃんの家には連絡入れといたよ。君のママに戻りが少し遅くなっちゃう件のお許しはすでにもらってありますのでご安心を」
「さすが孝太郎さん! 抜かりはないですねっ」
感心する里美に、孝太郎はフッと口元を上げた。
「覚えておきなサトちゃん。出来る男はすべてにおいてソツがないものなんだよ。さぁ二人とも乗って乗って」
「はい! 乗ろっ葉月ちゃん!」
「……里美の裏切り者」
駅へは数分で着く距離だ。
そこで里美を降ろしたので車内の人数は瞬く間に三人から二人になる。
「何食べたい? 葉月ちゃん」
二人きりになった車内で孝太郎が今夜の希望を訊く。
「……なんでもいい」
「じゃあこの間葉月ちゃんが雑誌で見て行きたいって言ってた店にしよっか?」
「あんたどこか知ってんの?」
「うん、この間葉月ちゃんからその話を聞いてすぐに同じ雑誌買ったからね。そんでこの間下見を兼ねて先に一回行ってみたんだ。騒がしくないし、料理も結構美味しかったよ」
「ふーん、一人で行ったの?」
「いや、あの店にさすがに一人はちょっと行きづらいよ。女の子に一緒に行ってもらった」
「……」
「あれ? もしかしてちょっとジェラシってる?」
黙り込んだところをからかわれ、葉月はまた声を荒げた。
「だっ、誰が嫉妬すんのよ! バカじゃないの!?」
「女の子とは行ったけど会社の同僚だよ。しかも一人じゃなくて三人連れていった。二人っきりで行くのは葉月ちゃんとだけって決めてるからそこんとこは大丈夫です。お兄さんを信用してくださいよ」
「……」
「あ、そういえばお姉さんは元気かい?」
「うん。相変わらず冬馬兄さんとラブラブだよ。見てるこっちが恥ずかしいぐらい」
「お姉さん、結婚決まったんだよね」
「そ。来年の6月」
「へぇ、ジューンブライドかぁ」
孝太郎はしみじみとした口調でそう言うと、車内に流れていた音楽を消す。
「女の子ってそういうの好きだよな。もしかして葉月ちゃんもそういうの憧れてたりするの?」
「そ、そりゃあまぁね」
「じゃ俺らも結婚するなら6月にしようか? 来年はお姉さんたちに譲るとして、再来年なんてどう? 葉月ちゃんも高校卒業する年だしちょうどいいじゃん」
「なんでそういう話になるのよ!?」
「だって葉月ちゃんはその時まだ18だからいいだろうけど、お兄さんは再来年は27ですよ? その辺りにはそろそろ身を固めたいなぁ、と思うんで」
「冗談じゃないわ! なんであんたと結婚しなきゃいけないのよ!」
頑なな葉月の態度に、孝太郎は「うーん、やっぱり女の子を確実に落とすにはハートをグッと震わすようなことをしなくっちゃダメなのかなぁ……」と呟く。
「裄人なんかその点すごいよな。遠恋頑張ってると思ってたら密かにイタリア語も習っててさ、いきなりピグミちゃんのとこに連絡無しで押しかけて、あの娘に会った瞬間に一撃必殺の言葉を伝えたみたいだからさ」
「……」
ほんのわずかだが、それを聞いた葉月の瞳が小さく揺らいだ。
「……それ、どんな言葉だったの?」
孝太郎はうーんと唸ると過去の記憶を思い出そうと努力する。
「なんだったっけな、一回聞いたんだけどイタリア語だったしな……、あ、でも意味はまだ覚えてるよ? 確かね、 『 ほら、僕の言ったとおりだろう? 僕たちの魂はまたここで魅かれあうって 』 、だったな。昔、ピグミちゃんと付き合いだした頃に一緒に見た映画のクライマックスシーンの台詞らしいよ」
「うわっ、なんか裄兄ィらしい! キザすぎだよ!!」
「でも葉月ちゃんはそのキザ男が好きだったんじゃん」
そう言われた葉月は一瞬言葉を詰まらせる。
「……もう昔の事よ。あまりに昔過ぎて忘れたわ」
「いや、いいんじゃない、それで」
葉月の気持ちを慮った孝太郎がそうさりげなくフォローする。
「でも女に対して執着心ゼロだった裄人があそこまでなりふり構わず追っかけてったのがピグミちゃんだからな。裄人もたぶん帰ってこないし、もうあそこも鉄壁だろ」
「そうね。きっとそうなると思うわ」
葉月は助手席の窓から煌くネオンを眺め、まるで自分自身に言い聞かせるかのように今の気持ちを口にした。
「……あたしね、裄兄ィには幸せになってほしいと思ってる。裄兄ィへの気持ちはもう無くなったけど、それでも昔は本当にすごく大好きな人だったから」
その葉月の想いを聞いた孝太郎はしばらく黙っていたが、ハンドルを握りながら「分かるよその気持ち」と声を落とした。
「エッ、あんたにもそういう経験あるの!?」
「そ、そりゃあ お兄さんにだって辛い恋の一つや二つはありますよ! ……でもさ葉月ちゃん、そういうのって結局は時間が解決してくれんだよね」
「……うん。なんか分かる」
「あぁそうそう! それとベタだけどさ、新しい恋、ってやつも有効だよね! だからさ、葉月ちゃんも少しでも早く俺と新しい恋を育むべきですよ! そうすればハッピーになれるんだからさ!」
「何言ってんのよ。それってあんた一人がハッピーになるんじゃない」
そう素っ気無く切り捨てられた孝太郎だが、特に落ち込む様子もなく茶目っ気のある顔で「そうだな」と素直に認める。
「でもさ、裄人のところも葉月ちゃんのお姉さんのところも結婚に向けて秒読み段階だろ? 俺の知り合いで “ SPLASH BILLOW ” っていうバンドのボーカル君がいるんだけどさ、そいつもハーフでスタイル抜群な元同級生の彼女がいるんだよね。なんかここも近いうちにゴールしそうな空気を出してきてんだよ。だからこのままだと一人孤独な状況に取り残されそうな孝太郎お兄さんは少々焦ってきているわけです」
「…………」
返事をしない葉月に、孝太郎はそれまでの軽い口調を止めて運転席で姿勢を正した。
「でもゆっくりでいいよ葉月ちゃん。ゆっくりでいいからたまには俺のことも見てよ」
「……考えとくわ」
「よーし! じゃあ今日は腹いっぱい食べてくれ! 給料出たばっかだし、どーんと大船に乗った気持ちでいいからね!」
「そんなにバカ食いなんかできるわけないでしょ! 太っちゃうじゃない!」
「女の子は多少ぽっちゃりしている方が可愛いよ?」
「嫌よ! あんたの好みになんか絶対に合わせてやるもんですか!」
「ははっ、それでこそ葉月ちゃんだな! でも俺が君にピッタリと合わせるからどうぞご安心を!」
「……あんたと話すと疲れる」
「そう? 俺は気力がメッチャ充填されるけどね! さぁ久々のデート、目一杯楽しもうね葉月ちゃん!」
「デートじゃなぁーい!!」
「あ、見てごらん葉月ちゃん。今日は満月だ。綺麗だね」
「エ?」
葉月はウィンドウ越しに空を見上げた。
うっすらと黄色味を帯びた満月が淡い光を放っている。
やがて車内にご機嫌な孝太郎が口ずさむ「月の沙漠」が流れ出し始めた。
「あんたその曲好きよね」
「うん。子どもの頃TVでこの曲を聴いた時、妙に頭にメロディが残ってさ、今も消えないんだよね。それにこの歌にでてくる王子さんとお姫さんの行く末がさ、幸せになるのか物悲しい運命になるのか、どっちにも解釈できそうなところも好きなんだ」
「ふーん……」
俺は二人は幸せになったと思うけどね、と最後に付け加え、孝太郎は再び月の沙漠を歌い出した。どことなく哀愁の漂うその曲を聞きながら、葉月は運転席の孝太郎をそっと横目で見上げる。
九つ年上の少々お調子者な会社員。
ついこの間まで心から好きだった人の親友は、いくら冷たくしてもこうして自分に会いに来る。
この軽いノリにどうしても馴染みきれずいつもつい冷たい態度を取ってしまうが、決して嫌いではなかった。お調子者ではあるけれど、自分をとても大切にしてくれているのは分かっているから。
葉月は根負けしたように吐息をつくと、小さく笑って「孝太郎、お腹すいた!」と叫ぶ。するとそれに吊り込まれたように孝太郎も優しく笑う。
「了解! もうちょっとだけ我慢してね」
車内に再び孝太郎の鼻歌が流れ出す。
そのBGMに葉月が素直に耳を傾ける中、二人を乗せた車はネオンきらめく夜の街へと消えていった。
― トライアングル・スクランブル を最後まで読んでくださってありがとうございました ―