黒衣ノ里、参戦
呼ばれた朧らが和泉の天幕へ駆け込むと、そこは異様な雰囲気に包まれていた。
和泉は酷く渋い表情で両手を袂に入れて黙り込んでいる。他の者も皆同じ、不安という字を顔に貼り付けて状況の行方を窺っていた。
そして和泉の対面に蹲るようにして座り込むのは、紛れもなく風花黒衣のうちの一人であった。風花に潜入していた朧には彼に見覚えがあり、気まずさに目を逸らして和泉に遣った。
「来たか」
声色まで低く沈んで、和泉がゆっくりと息を吐く。天幕の雰囲気全てが良くない話だと語っていて、朧らはみな揃って固唾を飲んだ。
「もう伝え聞いたかも知れないが、風花から使いが来た。停戦の申し出かと思ったが、どうやら違うらしい」
そう言って和泉が向かいの風花黒衣に目を移す。顔を上げた風花黒衣は、以前風花で見た時とは比べものにならぬ程に窶れていた。表情からはまだ何も窺えず、朧らは誰も声を上げず状況を見つめている。
やがて風花黒衣は、窪んだ目で朧らを見上げて震える声で話し出した。
「決して停戦ではない。私はただこれを持って陽炎まで行けと命じられただけだ」
苦しそうにそう言って、また蹲る。もう話す事はないのか、朧らの反応も見ぬまま、顔を上げる素振りもなかった。
徐ろに晶が歩を進め、和泉の隣へと向かう。そこにあったのは、今風花黒衣が『これ』と示したものだった。
大した大きさもない、ただの布包み。貢物にしては質素で汚らしく、やはり風花の真意は窺えない。
晶が布の結び目に手をかけた瞬間、和泉の表情が更に引き攣るのが朧にも見えた。
声にならぬ息を飲んで、晶の肩が揺れた。彼の背で布包みの中は見えぬが、開いた瞬間生温い臭いが鼻を掠める。
「……なるほど、酷い挑発ですね。我々黒衣にとっては」
怒りを抑えた震え声で晶がそう零す。そして勢いよく振り返ると、蹲る風花黒衣に掴みかかって顔を上げさせた。そして力尽くで引っ張り出すは、風花黒衣の右手。
風花黒衣の悲鳴が歯の隙間から漏れる。
「やはり、貴方も」
彼の右手はぐるぐると布が巻かれていた。だがその布は赤く濡れており、形も歪だ。掴んだ晶の掌から血の雫が垂れ、彼の右腕が無事では無いことは明らかだった。
まさかと思い布包みに目を遣る。開いた布の影から覗くのは夥しい赤に染まる数多くの。
「右手を奪ってしまえば、我ら黒衣はどの家の出であろうと術は使えませんね。確かに黒衣の命を奪ってはならないという掟に則ってはいます」
風花黒衣のない右手の先を見ながら、晶が歯軋りをしながら訥々と語る。
確かに命に関わりはないのだろう。だが術を使えなくば、黒衣には人里で生きる術がない。それは紛れもなく死と言えるのではないか。
「だが許される事ではない」
嵐が短く言い切る。後ろに立つ流も青い顔で口元を押さえながら、頷いて同調した。
「だが我ら陽炎にとって、風花黒衣の弱体化は悪い報せではない。風花は何の為にこんな真似を」
怒りに震える黒衣たちとは違い、和泉は冷静に状況を見つめていた。
確かに、まるで攻めて来て下さいと言わんばかりだ。更に黒衣をも刺激したとあってはその攻撃は苛烈極まると察せられる筈。
ただの挑発にしては、余りにも下策。つまりは──。
「例え進撃を誘う手だったとしても、我らにも矜持があります。求めに応じて仕える我らの命を奪う事、許されるものではありませんよ」
「理解はしている。……だが」
和泉は眉間を押さえながら、言葉を濁す。例え好機だとしても、進軍の命は出せぬのだろう。
敵がどんな攻め手を隠しているのか、黒衣を切ってまで戦に臨む事に利があるのか、和泉にはそこが理解出来ないのだから。
この様な大掛かりな事をするからには、何かしらの意味があるに違いないのだが、皆目見当がつかないのだ。はったりにしても余りに危険過ぎる。陽炎、青嵐、そして黒衣ノ里までをも敵に回してしまうのだ。
この場で結論を出してしまう訳にはいかぬのだろう、暫し黙り込んでいた和泉はやがてゆるゆると顔を上げた。
「少しの間俺に預けておけ。悪いようにはすまい」
「分かりました。ですが……」
渋々といった様子で肯首して、晶は立ち上がる。手を濡らす血を見遣って、ぐっと拳を握り締めた。
「私たちも黙ってはおれませんので、そのつもりでいて下さい」
黒衣の絶対の掟、黒衣の命を奪ってはならぬ。掟は命を懸けてでも守らねばならぬもので、何人たりとも破る事は許されない。況してや派兵を要請した人間が、自国の黒衣を傷付ける事などあってはならない。
黒衣は心を尽くして仕えるのだ。命尽きるまで。
それを逆手に取るならば、黒衣とて黙ってはいられぬのだ。
晶らの怒りが理解出来るからこそ、和泉もここで掛ける言葉を失っていた。
此度の戦は、風花と陽炎青嵐による大陸の覇権を争う戦。そこに黒衣の弔い合戦の意味まで加わってしまえば、更に事態は面倒になる。今まで人の戦に関知しなかった黒衣ノ里が、肩入れする国が出て来るとなれば。
今までの戦乱とはまた違う局面となるだろう。
「分かっている」
和泉はそう答えるに留めた。そのような大きな決断を、蒼樹への相談なしに決める訳にいかなかった。
「それと、この件は他言無用だ。風花の出方も見てみたいのでな」
天幕を後にする朧らの背に、和泉の声が掛かる。暫く事態が動くことはないとの意味にしか聞こえなくて、朧らは誰もそれに答えなかった。
◆
今までにない状況を陽炎君主蒼樹も、青嵐君主東雲も重く見ていた。二人は安易に攻撃に出る訳にいかぬとの意見で一致し、それは即ち事態の膠着を意味した。
風花黒衣が陽炎を訪れて一週間が経ち、晶らが痺れを切らした頃だった。
陽炎の陣を訪れる一団があった。
数は一団というには余りに少ないが、身に纏う衣服も掲げる旗も影の様に真っ黒であった。漆黒の旗には赤く、鬼灯紋が示されている。
大陸各国の旗印ではなく鬼灯の紋を掲げているという事は、彼らは黒衣ノ里より来たという事だ。この戦は和泉が危惧した通り、黒衣一族の参戦という形で新しい局面を迎えようとしていた。
一団を率いるは黒い袖頭巾を被った大柄な男。この出兵で己の任を果たさんと強い瞳で陣を見つめる彼は、黒衣を率いていた一族の長──朧の父だった。




