「人はいさ」の心 ~あとがきにかえて~
紀貫之の歌の中でも特に有名な、百人一首に選ばれた歌があります。それにはとても長い詞書がそえられています。
初瀬にまうづるごとにやどりける人の家に、久し
くやどらで、ほどへてのちにいたれりければ、か
の家のあるじ、かくさだかになむやどりはある、
といひ出してはべりければ、そこに立てりける梅
の花を折りてよめる
この詞書の意味は、初瀬(奈良の長谷寺)参りの度に使っていた常連の宿にかなり久しぶりに行ってみたら、ずいぶんご無沙汰でしたねと言づけてきたので、その家の梅の花を手折って詠んだ歌。と言うところです。歌は、
人はいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
と詠まれていて、その歌意は
『変わりやすい人の心と言うのはさて、知れないものですね。なじみの宿に咲くこの梅の香りは昔と変わりがないのですが』
と言ったところでしょう。
宿への御無沙汰を主人に責められてとっさに折り梅と共に贈ったこの歌。贈り主が男性か女性か? 知人か恋人か? と議論があります。私は「やまとうた」の中では女性の恋人説を取りました。
この歌の詞書きに宿の主は貫之に「いひ出して」とあります。言い出すという言葉の当時の使い方は、伝言を人に頼んでその使いの人を外に出すという表現だったので、女性が屋外に出られなかった時代ですから宿と言うのは貫之の恋人の家で、これは女性が貫之に訪れが無かったことを非難し、それに対して鮮やかに返歌をした……というのが一般的な解釈のようです。
その一方で、当時の専門歌人たちはこうした状況をわざと恋愛めかした言葉で楽しむ習慣がありましたから、(躬恒とかわした七夕の歌なんかがそうです)たとえ宿の主人が男性でも、貫之はふざけ心からわざと恋歌めいた歌を贈った恋愛風の歌だという意見もあるのです。なぜ歌人たちはそんなおふざけをしたのでしょう。
当時は今の時代のように機械に頼ることはできません。社会の仕組みも人によって支えられています。どんな些細な事にも人と関わり、人の手を借りなければ生きてはいけない時代でした。川で水をくみ、作物を育て、何でも自分で作る自給自足の暮らしならともかく、都の暮らしでは人の手がなくては本当に生きては行けません。人間関係の濃厚さは今とは比べ物にならないでしょう。
人は物とは違って明確な意思があります。その意思に働きかけなくては、人は動いてくれません。家庭に水が届く、文字情報が手に入る、絵や音楽が楽しめる。今なら当たり前にあることも、それらはすべて一握りの貴族たちの贅沢でした。目覚めて顔を洗うわずかな水から、生きるための情報、眠りにつく時の安全まで、人がいなくては手に入らなかったのです。
そんな暮らしの多くを頼り合う間柄から起こる人と人との距離の近さ、心の触れ合う機会の多さ。物質や機械に頼る時代には想像もできない世界です。ちょっとした冗談にも今では考えられない親愛の深さがあったはずです。おふざけも重要なコミュニケーションとなったことでしょう。こういう雰囲気が後の時代には男性同士の恋愛へと発展したのかもしれません。
この歌が仮に男主人への冗談だとすると、相手も歌人の感性を知っている人になるでしょう。貫之は専門歌人です。同じ歌人相手ならともかく素人相手にそんなしゃれっ気を出すには、相手にもそれを理解できる力量があったということです。
当時は今のように情報も教養も簡単には手に入りませんから、不足分を互いの情で補う必要があります。主人は貫之との親しさから、貫之はたとえ話が好きな人なのだと理解しているのです。「あの貫之さんのことだから……」と言うわけです。冗談を分かり合うにも心の密度が必要だったことでしょう。
あるいは相手は女性でも正真正銘単なる定宿の女主人で、色事めいた真似をして女主人をからかったという見方もあります。これも貫之の茶目っ気ある性格なら、あり得そうです(笑)
話の性質上、私は貫之を若干生真面目に描きましたが、彼はこうした冗談を日常的に使う楽しい人だったように思えます。旅先で通りすがりの遊女たちを誉める歌を詠んで、遊女たちを喜ばせたりしているくらいですからね。
貫之の性格の明るさは、諧謔歌や物名歌を好む冗談好きが表しています。彼の性格は身内で同じ歌人の友則や、親友の躬恒だけでなく、ずっと年上の忠岑でさえ貫之には身の不遇を歌で愚痴ってしまうほど人の心を開かせる明るさ、親しみやすさがあるようです。貫之と躬恒は友情を感じさせる歌が多く残り、貫之が躬恒を自分の主人の兼輔にあっせんするなど、その友情の深さを感じさせるエピソードがあります。ただ明るいだけでなく、頼りになる安心できる人柄でもあったのでしょう。
そしてこんな貫之だからこそ、歌の解釈も色々な憶測が出来るのでしょう。
躬恒や忠岑との歌のやり取りやエピソードに比べると、貫之は友則との関係を具体的に表す記録は残念ながらないようです。貫之は躬恒と比べて友則とはそれほど交友がなかったのではないかと言う解釈もあります。
しかし私には、そんな風には思えないのです。貫之が歌人として認められたのは、時平や醍醐帝などが彼の才能を認めてのことかもしれませんが、若い貫之の歌が目に留まったのは、敏行のサロンでの活躍があってのことでしょう。そして貫之がそのサロンに参加できたのは、身内に歌人の友則がいたからでしょう。
友則と貫之の年齢差を考えると、二人の関係は単なる従兄同士を超えたものがあるように思えます。まして貫之は幼いうちに父親を亡くしています。貫之にとって友則は交友が少ないどころかあまりにも身近すぎる、父のような、歌の師のような人だったと思えるのです。そして、当たり前の存在だからこそ、わざわざ記録に残っていないだけではないでしょうか。
なにより、おそらくは和歌集編纂の主任の役割を担っていた友則が、実質その座を貫之に譲って亡くなっているのが一番の証拠に思えます。いかに友則が貫之を信頼し、貫之は友則を尊敬していたか。二人は普通の親子以上の関係を築いていたと思います。友則がいなければ、歌聖貫之は存在しなかったかもしれません。
貫之にとって友則は、心のふるさととも呼べる人物だったかもしれません。
『ふるさと』の意味は現代とは違って、以前住んでいた場所の意味よりも慣れ親しんだ場所、懐かしい場所と言う意味で使われる事が多いのです。旧都、旧跡と言う意味でもよく使われます。貫之の歌では掛詞として両方の意味があります。凝ってますね。彼はきっと人にも場所にも、心から慣れ親しむことのできる人だったのでしょう。魅力的な人物の創った歌と言うのは、私達に様々な楽しみを与えてくれるようです。
私は「やまとうた」ではあんな話にしちゃいましたが、本音ではあの歌は人懐っこい貫之が「定宿の女主人をからかった」説に一票入れたいです。
さて、「やまとうた」のよもやま話も長くなりました。この辺でお開きにしようと思います。
裏話にまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。