55 倍率
王城の一室で、ソラは面積に関するジンの講義を振り返っていた。
講義は、QR分解の後、休憩をはさみ、行列式の話になった。
「では、行列式の話を始めようかの。面積、体積は後で出てくるので、しばらく忘れておれ」
ジンは、そう言った後、y、イコール、a掛けるx、と書いた。
「x、yを変数とすれば、与えられたxをa倍して返す関数じゃな。定数aは倍率を表しておる。行列式とは、これを正方行列Aに拡張したもので、正方行列Aを掛ける処理を写像と見なしたときの倍率を表す。ちなみに、行列のサイズが1掛ける1のときの行列式は、行列の要素そのものじゃ」
ソラは、ジンの説明を聞いて、浮かんだ疑問を口にする。
「行列式が対象とする正方行列に何か条件はありますか?例えば、要素が実数とか」
「行列式は、どんな正方行列であっても定義できる。行列の要素が複素数だと、行列式は一般には複素数になる。その場合は、複素数の倍率ということになるがの。慣れるまでしばらくは、実数を要素とする行列と思っていればよいじゃろう」
ソラは、ありがとうございました、と返した。
講義は行列式の定義に移る。対象とする正方行列Aのサイズをn掛けるnとする。nは正の整数である。
「正方行列Aの行列式は、Aの横の行、縦の列からそれぞれ一要素ずつ選んだn要素を掛け合わせ、さらに符号を付けたものを、すべての選び方に渡って足し合わせたものじゃ」
ジンの説明が理解できず、ソラは口を挟む。
「ちょっと待ってください。符号を付ける、って何ですか?」
「n要素を掛けた値に、1かマイナス1を掛けることじゃ」
ソラは当然、次の質問をする。
「1とマイナス1のどっちを掛けるのですか?」
「ここが行列式の定義のやっかいなところじゃな。まず、上端の行から、1、2、……、nと番号を付ける。列については、左端から1、2、……、nじゃ。符号は、n個の要素を選んだ行と列の番号で決まる」
ジンは、続けて、n個の要素を掛けたものに付く符号の決定方法を説明する。
・行の番号を要素を掛ける順に並べたものを行の順列と呼ぶ。要素は各行で一つずつ選ばれるから、順列には、1からnまでの整数が一度ずつ現れる。列についても、同様に順列を定める。
・与えられた順列に対して、二つの数を入れ替える操作を繰り返すと、小さい順に並べ直すことができる。入れ替える操作が偶数回の順列を偶順列、奇数回の順列を奇順列と呼ぶ。
・行の順列と列の順列がともに偶順列か奇順列で一致していれば、符号は1、そうでなければ、符号はマイナス1。
ジンの説明が消化しきれなかったので、ソラは理解を深めるため、nが2の場合の行列式を計算することにした。
サイズが2掛ける2の行列Aを以下のように表す。
a b
c d
「一番上の一行目から、まずaを選びます。すると、第一列はもう選べませんので、二行目からはdを選ぶしかなくなります。次に、a掛けるd、に付ける符号sを決めます。行の順列は1、2、列の順列も1、2なので、両方とも偶順列です。よって、符号sは1となります」
一息おいて、ソラは続ける。
「次に、一番上の一行目から、bを選びます。すると、第二列はもう選べませんから、二行目は自動的にcが選ばれます。次に、b掛けるc、に付ける符号sを決めます。行の順列は1、2、列の順列は2、1なので、前者は偶順列、後者は奇順列です。よって、符号sはマイナス1になります」
要素の選び方は、この二つしかないので、結局、Aの行列式は、a掛けるd、引く、b掛けるc、になる。
ソラの計算結果を見て、ジンは安堵の表情を浮かべた。
「大丈夫そうじゃな。これなら、nが3の場合も計算できるじゃろ」
ソラは、サイズが3掛ける3の行列Aを以下のように表し、可能な選び方を列挙する。
a b c
d e f
g h i
・一番上の行からは、a、b、cのどれかを選ぶ
・二番目の行からは、aのときはeかf、bのときはdかf、cのときはdかeを選ぶ
・三番目の行からは、aeのときはi、afのときはh、bdのときはi、bfのときはg、cdのときはh、ceのときはgが自動的に選ばれる
「三つの要素の選び方は全部で六通りですね。それぞれの選び方における符号を求め、符号を付けてすべて足し合わせたものは、こうなります」
ソラは、Aの行列式を書き出す。
a掛けるe掛けるi、足す、b掛けるf掛けるg、足す、c掛けるd掛けるh、引く、c掛けるe掛けるg、引く、a掛けるf掛けるh、引く、b掛けるd掛けるi。
書き終わった後、ソラは、少し疲れた顔をした。
「手を動かして分かりましたが、nが4以上の場合には、複雑すぎて手計算する気になりません」
「そうじゃな。魔導具でも、行列式を実際に計算するときは、この定義式は使わないのお。行列式の性質を調べるためのものと思った方がよいじゃろう」
「行列式には、どんな性質がありますか?」
ソラの質問に対して、ジンは定義式からすぐ導かれる行列式の基本的な性質を列挙した。
1:行列の転置を取っても行列式は変わらない。
2:行列の一つの列を定数倍すると、行列式も定数倍される。一つの列が二つのベクトルを足したもので表される場合、行列式は個々のベクトルをその列とする二つの行列の行列式を足したものに等しい。
3:行列の二つの列を交換すると、行列式はマイナス1倍になる。
4:単位行列の行列式は1。
5:二つの行列を掛けた行列の行列式は、それぞれの行列の行列式を掛けたものに等しい。
ジンは、行列式の性質を順番に説明する。
「まず、性質1は明らかじゃろう。行と列から一要素ずつ選ぶのじゃから、行と列を入れ替えても、要素の選び方は一緒じゃ。符号も変わらないから、結局、行列式は同じ値になる」
ソラは、nが2と3の場合に、この性質が成り立つことを手計算で確認した。
「そうですね。確かに成り立っています」
ジンは性質2の説明に移る。
「性質2は、行列の一つの列の要素だけに注目すれば、行列式が1次式であることから明らかじゃろう」
「n個の要素を掛けたものを一つの列の要素ごとにまとめて、それを係数と要素の掛け算と見なせば、行列式は、係数1、掛ける、要素1、足す、……、係数n、掛ける、要素n、と表されるということですね。分かります」
続いて、ジンは性質3について述べる。
「性質3は、列の交換によって、符号がすべて反転することから明らかじゃろう。性質3から導かれる重要な性質として、二つの列が等しい行列の行列式は0、が挙げられる」
「交換してマイナス1倍しても値が変わらないから、0ということですね」
性質4は自明なので、ジンは説明を飛ばし、性質5に移る。
「性質5が成り立つことの証明は少し長くなるから、まず、nが2の場合を取り上げようかの」
ジンは、そう言った後、行列Bを(p, q)と書いた。p、qは2要素のベクトルで、Bはこれらを並べたものである。また、行列Aの四要素を順にa、b、c、dとした。二つの行列を掛けた行列をCと置く。Cは、B掛けるA、である。
行列Cを(u, v)と表す。u、vは2要素のベクトルである。uは、a掛けるp、足す、c掛けるq、に等しい。vは、b掛けるp、足す、d掛けるq、に等しい。
ここで、行列式の性質2を用いると、Cの行列式は、(p, p)の行列式、(p, q)の行列式、(q, p)の行列式、(q, q)の行列式に重みを掛けて足し合わせたものになると分かる。
性質3より、(p, p)と(q, q)の行列式は0で、(p, q)と(q, p)の行列式は符号が反転するので、結局、Cの行列式は、(a掛けるd、引く、b掛けるc)掛ける(p, q)の行列式に等しい。よって、Cの行列式は、Aの行列式、掛ける、Bの行列式、に等しくなる。
「一般のnの場合でも、同様に示せる」
ジンは、サイズがn掛けるnの場合に、Cの行列式が、Aの行列式、掛ける、Bの行列式、に等しくなることの証明を始める。Cは、B掛けるA、である。
・行列Cに並べられたベクトルは、行列Bに並べられたベクトルの線形結合で表される。
・線形結合の係数をすべて行列式の外に出すことで、Cの行列式は、Bに並べられたベクトルを重複を許して並べ直した多数の正方行列の行列式を重み付きで足し合わせたものとして表せる。
・上記の多数の行列式の中で、値が0でないのは、Bに並べられたすべてのベクトルが一度ずつ出てくるものに限られる。それは、Bの行列式に符号sを掛けたものに等しい。符号sは、Bのベクトルの列の順列が偶順列ならば1、奇順列ならばマイナス1である。
。
・従って、Cの行列式は、Bの行列式の定数倍になる。この定数は、Aの要素を横の行、縦の列からそれぞれ一要素ずつ選んだn要素を掛け合わせたものに符号sを掛けて、すべての選び方に渡って足し合わせたものに等しいことが分かる。つまり、この定数はAの行列式に等しい。
・これより、Cの行列式は、Aの行列式とBの行列式を掛けたものに等しくなる。
「これで、証明は終わりじゃ」
ジンは、そう言って、性質5が成り立つ証明を終えた。
行列式の基本的な性質の説明が終わり、講義は体積との関係に移る。
「行列式に関するこれらの性質を使って、体積との関係を調べようかの。変位ベクトルを並べた正方行列をAと置く。Aの要素は実数じゃ。AのQR分解によって、直交行列Qと上三角行列Rが取れて、Q掛けるR、はAに等しくなる」
まず、ジンは直交行列の行列式について述べる。
「直交行列は、その転置と掛けると、単位行列になる。従って、行列式の2乗は1じゃ。結局、直交行列の行列式は、1かマイナス1になる」
次に、ジンは上三角行列の行列式に関して説明する。
「ここでは左端の列から順に要素を選んでいく。一番左の第一列では第一行の対角要素を選ぶ場合だけが非0じゃ。第二列では、もう第一行の要素は選べないから、第二行の対角要素を選ぶ場合だけが非0。以下、同様に対角要素を選ぶ場合だけが非0になるので、結局、行列式は対角要素を掛け合わせたものに等しい」
ジンの説明で、ソラは納得したような表情を浮かべる。
「分かりました。つまり、Aの行列式は、Rの対角要素を掛け合わせたもの、すなわち体積に、1かマイナス1を掛けた値になるということですね」
「その通りじゃ。符号付きの体積と呼ばれている」
ジンは、変位ベクトルを並べた正方行列Aに同じサイズの正方行列Bを左から掛けた結果を行列Cと置いた。行列Cは、行列Aの変位ベクトルにBを掛けた変位ベクトルを並べたものと見なせる。
「じゃから、行列Cの行列式は、掛けた後の変位ベクトルが定める立体の符号付き体積となる。一方、行列Cの行列式は、Aの変位ベクトルが定める立体の符号付き体積に、Bの行列式を掛けたものになる。よって、Bの行列式は、体積の倍率と解釈できる」
「一辺が1の長さの立方体の変位ベクトルを並べた正方行列は単位行列になり、その行列式は1です。行列Bが定める写像で、この立方体を変換した立体を考えれば、この立体の符号付き体積がBの行列式とも解釈できますね」
ソラが補足すると、ジンは、そうじゃな、と応じた。
講義の最後に、ジンは体積が変位ベクトルを並べる順番に依存しないことを示す。
「行列の縦の二列を入れ替える直交行列をBとし、A掛けるB、をCと置く。Bの行列式の絶対値は1。よって、Aの行列式とCの行列式の絶対値は等しくなる。このことは、体積は変位ベクトルを並べる順番に依存しないことを表す」
ジンは、この日の講義をまとめる。
「行列式の基本的な性質と体積との関係はこんなところかの。行列式のその他の応用に関しては、また後で話すこともあるじゃろう」
ソラは、師匠、ありがとうございました、とお辞儀をした。




