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第十章 公開 1・2・3・4・5・6

 第十章 公開


  1


 午前七時十四分。


 初期導入から、一夜を越えていた。


 母体血。

 胎盤側マーカー。

 胎児心拍。

 どれも劇的ではない。

 劇的ではないまま、崩れていない。


 中岡が画面を更新する。


「朝の時点では、保ってます」

「保ってるだけです」

 朽木が言う。

「それで十分です」


 十分。

 その語が、この朝だけは妙に遠く聞こえた。


 代表端末には、同じ種類の通知が重なっていた。


 中央緊急会議招集。

 関連系資料の即時提出要請。

 保全支援再打診。

 対外問い合わせ急増。

 港湾搬送遅延。

 夜間警備増強。


 件名だけが増えていく。

 中身を開く前から、外がもう決めに来ているのが分かった。


 休憩室の無音のテレビには、昨日と同じ語が流れている。


 白砂ワクチン


 画面の下で、その語だけが滑っていく。

 病院の名で呼ばれ、場所の名で広まり、内容のほうは置き去りになっている。


 塩見が廊下の窓を少しだけ開けた。

 正門前のざわめきが、その隙間から薄く入る。


「もう隠せません」

 中岡が言う。


「はい」

 美沢が答えた。


 隠せない。

 渡すのか。

 抱え込むのか。

 外へ出すのか。


 その三つだけが、もう机の上に残っていた。


 航の部屋では、朝の光が薄くカーテンを透かしている。

 菜月は椅子に座ったまま、端末ではなく航の顔を見ていた。

 前の意味では戻っていない。

 それでも、いなくなったわけでもない。


 芽衣の部屋では、結芽が紙へ丸を描いている。

 丸はまだ顔にならない。

 ただの丸のまま、紙の上に増えていく。


 白砂の中には、まだ小さい手と、小さい心拍と、白い紙がある。

 その外側で、もう順番の奪い合いが始まっていた。


  2


 午前八時四十六分。


 小会議室のホワイトボードには、三つだけ書かれた。


 隠す

 渡す

 公開する


 それ以上は書かなかった。

 細かくすると、言い訳が増えるからだった。


 朽木が最初に言う。


「隠しても取られます」

 簡単に。

「今の白砂には、もう無理です」


 中岡が続けた。


「渡したら独占されます。財団でも、中央でも、同じです。順番を持ってる側が、全部決めます」


 塩見はホワイトボードではなく、結城の白い紙を見る。


「公開するなら、製剤だけじゃ駄目です」

「はい」

 結城が答える。

「説明順序ごと出します」

「やめる基準も」

「出します」

「line にしないことも」

「出します」


 美沢は何も言わない。

 ホワイトボードの三語だけを見ている。


 隠す。

 渡す。

 公開する。


 どれを選んでも、きれいには終わらない。

 その時点で、もう勝ち方の話ではなくなっている。


 朽木が低く言う。


「公開しても、乱用はされます」

「はい」

 美沢が答えた。

「でも独占よりは遅くなります」

「遅くなるだけです」

「それで十分なものがあります」


 結城が白い紙の一行目を指で押さえる。


 これは治療ではありません。


「これも出します」

 結城が言う。

「最初の一行として」

「患者向けの紙を」

 塩見が訊く。

「公開物に」

「そこから外れると、また説明があとになります」


 中岡が端末を回し、別の画面を見せた。


 ETA。

 routing。

 MATERNAL LINE-03。

 氏名空欄。

 受入承認済み。


 あの順番のログだった。


「これも」

 中岡が言う。

「技術だけ出したら、またここへ戻る」


 ホワイトボードの三語のうち、真ん中の一つだけがだんだん消えていく。


 渡す


 それを選ぶ顔は、この部屋の中にもうなかった。


「公開ですね」

 塩見が言った。


 美沢はまだ頷かなかった。

 頷かないまま、最後に言う。


「公開するなら」

 一度切る。

「成功だけじゃなくて、足りなかったことも出します」


 航の部屋番号が、誰の頭にも同時に浮かんだ。


  3


 午前十時十一分。


 槙原からの回線は、珍しく直通だった。


『公開すれば全体は崩れます』


 前置きもなく、その一行から来た。


 美沢は窓の外を見たまま答える。


「もう崩れてます」

 それから続けた。

「だから順番だけは残します」


 向こうで、紙の擦れる音がする。

 槙原は怒っていない。

 怒っていないまま、止める場所を探している。


『公開後の無秩序使用、誤投与、模倣。全部、白砂発になります』

「だから失敗条件も出します」

『止め方まで』

「はい」

『足りなかったことも』

「はい」


 一拍だけ沈黙があった。


『反対します』

 槙原が言う。


「分かっています」

『それでも』

「やります」


 また沈黙。

 そのあと、槙原の声が少しだけ低くなる。


『正式遮断は、すぐには掛けません』


 美沢はそこで初めて、窓から目を離した。


「槙原先生」

『長くは持ちません』

「はい」

『それと』

 一度切る。

『公開文の最初に、"これは治療ではありません"を置いてください』


 通話はそこで切れた。


 反対したまま、完全には止めない。

 そういう人間の遅らせ方だった。


 美沢は端末を伏せる。

 槙原は最後まで、全体停止を恐れる側の人間でいた。

 だからこそ、その一分の遅れには意味があった。


 小会議室へ戻ると、結城が顔を上げる。


「どうでした」

「反対です」

「でしょうね」

「でも」

 美沢は椅子を引かなかった。

「最初の一行だけは、向こうもそれで行けと言いました」


 結城は小さく頷く。


「そこだけは、同じなんですね」

「はい」

「なら、そこから出します」


  4


 正午零時四分。


 公開物は、論文でも広報資料でもなかった。


 中岡がフォルダ名をつける。


 HSD_public_release_01


 その中へ、ファイルが一つずつ入っていく。


 朽木は HSD の理論と、成人体側限定導入の限界を書く。

 成功だけではなく、境界が裂ける図も、再構成群が枯れる図も入れる。

 データの見栄えを良くする方向へは、一度も手を入れなかった。


「ここ」

 朽木が画面を叩く。

「一番見せたくない図です」

「一番必要です」

 美沢が言う。


 塩見は母体観察表と、病棟運用の注意を書き足す。

 母子分離を前提にしないこと。

 別導線移送は本人の再同意を要すること。

 病室内で line 表記を使わないこと。

 窓口ごとに文言を変えないこと。


 結城は患者向け文書を整える。

 一行目は変えない。


 これは治療ではありません。


 その下に、四つの見出しが並ぶ。


 分かっていること。

 まだ分かっていないこと。

 急ぐ理由。

 やめる基準。


 さらに、その下へ。


 説明は本人氏名から開始する。


 中岡は手続きのログを入れる。

 ETA。

 受入承認。

 MATERNAL LINE-03。

 氏名空欄。


 あの順番のまま、加工せずに置く。


「これ、出しますか」

 塩見が訊く。

「出します」

 美沢が答えた。

「技術だけじゃ足りない」


 結城が別フォルダを作る。


「症例記録は匿名化します」

「名前は守ってください」

 美沢が言う。

「はい。でも」

 結城が画面を見たまま続ける。

「匿名化しても、"番号にしない"は本文に残します」


 菜月から預かった白紙の一行も、そこへ入る。


 黒瀬航に行われたことを、名前で記録する。


 公開版では氏名を伏せる。

 だが、その原本が名前から始まっていることは、注記として残す。


 芽衣の余白も、直接は出さない。

 それでも、条件は残す。


 line にしないこと。

 研究番号にしないこと。

 世界のためではなく、この子のために選ぶこと。

 選択の主体を本人から外さないこと。


 そして最後に、美沢が自分で一枚書く。


 本プロトコルは、放射線曝露労働・兵器運用・適応選別を目的として使用してはならない。


 それは倫理委員会の文ではない。

 でも、ここで書かなければ、別の場所で消される種類の文だった。


 机の上のファイルは少しずつ増え、同時に少しずつ一つの塊になっていく。

 製剤、失敗条件、同意前説明、停止基準、受け入れ順、匿名化症例、原本注記。

 どれか一つ欠けると、また別の誰かがそこを省略するのが分かっていた。


  5


 午後一時四十七分。


 公開前に、家族へ先に話した。


 芽衣の部屋では、結芽がクレヨンで丸を描いている。

 丸はまだ顔にならない。

 ただの丸のまま、紙の上に増えていく。


 結城が言う。


「技術だけじゃなくて、説明の順番も外へ出します」

「私の紙も」

 芽衣が訊く。

「そのままは出しません」

 結城が答えた。

「でも、条件は出します。line にしないこと。研究番号にしないこと。本人の選択であること」


 芽衣は少しだけ考える。

 腹へ手を置き、それから結芽の丸のほうを見る。


「名前は」

「出しません」

「じゃあ」

 芽衣が言った。

「出してください」


 それだけで十分だった。


 結芽はクレヨンを持ったまま、母の顔を見る。


「しろすな、でるの」

「たぶん」

 芽衣が言う。

「でも、名前は出さない」

「なまえ、まもる?」

「うん」

「じゃあ、いい」


 それ以上は聞かなかった。

 子どもは、分かるところだけを先に受け取る。


 航の部屋では、菜月が同じように紙を読んだ。

 航はまだ深く眠っている。

 呼吸はある。

 前と同じ意味では戻っていない。


「失敗として出すんですか」

 菜月が訊く。


 美沢は首を振った。


「足りなかった記録として出します」

「名前は」

「公開版には出しません」

「でも、原本は」

「名前で残します」


 菜月は頷かなかった。

 その代わり、航の手首帯を一度だけ指で触れた。


「出してください」

 やがて言う。

「隠さないでください。でも、"患者一号"とは書かないで」


「書きません」

 美沢が答えた。


 菜月はそこで初めて、美沢を見る。


「なら、出してください」


 公開は、承認ではない。

 それでも、ここで必要だったのは許可ではなく、先に話したという順番だった。


  6


 午後四時九分。


 配布先は、一つに絞らなかった。


 一つに出すと、一つで止まる。

 だから最初から、ばらして送る。


 中央。

 地域周産期ネットワーク。

 小児放射線治療連携。

 患者家族会。

 法務支援団体。

 記者。

 国外アーカイブ。

 大学のプレプリント鯖。

 閉じた共有回線と、開いたメールと、物理媒体。


 中岡が送信先を確認する。


「ミラー五系統」

「全部、同時に」

 美沢が言った。


 正門前のざわめきはまだ続いている。

 港湾閉鎖の帯は、無音テレビの下をまた流れている。

 そのどちらも、もう止まらない。


 財団からの着信が三回続いた。

 誰も取らない。


 四回目で、槙原から短い文だけが入る。


 今です。


 それだけだった。


 中岡が送信キーの上に指を置く。


「いきます」

「お願いします」


 キーは一度だけ沈んだ。


 送信完了の表示は、派手ではない。

 ただ小さく、順に緑へ変わる。


 1/5

 2/5

 3/5


 四系統目で、対外接続の一部が落ちる。

 槙原の言っていた遮断だと分かる。


「四が止まりました」

「五は」

 美沢が訊く。

「まだ生きてます」

「続けてください」


 最後の一つが、数秒遅れて緑へ変わる。


 5/5


 それで十分だった。


 全部は守れない。

 でも、独占はもう少しだけ難しくなる。


 送信の直後に、財団からの着信は途絶えた。

 代わりに別の通知が入る。


 『本文を受領。

 質問:本人説明はどの段階で始めるべきですか』


 結城がその文を見て、少しだけ目を閉じる。


「そこから来ました」

「はい」

 美沢が答えた。


 次の連絡も同じ種類だった。


 『母子分離を回避できない場合、再同意の書き方は』

 『"これは治療ではありません"を最初に置く理由は』

 『line 表記を病室で使わない運用は』


 もちろん別の連絡も来る。


 神の冒涜だという文。

 即時停止要求。

 未承認技術の拡散だという抗議。

 財団からの無言着信。


 それでも、最初に開かれた質問がそこだったことは、白砂にとって小さくなかった。


 塩見が母子区画のほうを見ながら言う。


「順番、残りましたね」

「はい」

 美沢が答えた。


 窓の外では、世界がまだ崩れている。

 搬送路は細り、港は詰まり、正門前の声は止まらない。

 公開したから解けるわけではない。


 それでも、説明の順番だけは、いま複数の場所へ届き始めている。

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