第九章 白砂ワクチン 4・5
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午前十一時五十八分。
超音波室の暗さは、話を平らにしてくれる。
誰の顔色も、画面の白さの中では同じになる。
塩見がプローブを当てる。
画面の中で、小さな心拍が規則正しく動く。
「ここに入るんですか」
芽衣が訊く。
美沢は、すぐには答えなかった。
"ここ" がどこを指すのか、分かっているからだ。
腹の中。
まだ名前のない身体。
まだ line にも研究番号にもされていない場所。
「母体に入れて」
朽木が図を一枚出す。
「胎盤を通って、分化の揃っている側へ入ります」
「全部に」
「理屈の上では」
「理屈の上では」
芽衣が繰り返す。
画面の上で、小さな手が一度だけ動いた。
結芽がそれを見て、小さく言う。
「うごいた」
塩見が頷いた。
「動いてます」
朽木は紙の端に丸を一つ描き、その中へ短い線をいくつも引く。
「これが、いまの身体です。まだ全部が同じ速さで増えてる。だから、戻る道筋も全体に持たせられるかもしれない」
「かもしれない」
芽衣がまた繰り返す。
結芽が図を覗き込む。
「みち?」
「そう」
朽木が言う。
「もどるみち」
その言い方が、この部屋ではいちばん正しかった。
芽衣は画面から目を離さずに訊いた。
「この子は、この子のままですか」
誰もすぐには答えなかった。
答えないのではなく、答えられない。
美沢は結局、いちばん短く言う。
「分かりません」
その一言で、かえって部屋が嘘から遠ざかる。
「分からないまま、選ぶんですね」
芽衣が言う。
「はい」
美沢が答える。
「分からないことまで、先に出した上で」
午後二時四十一分。
決める場面は、たいてい静かだ。
芽衣はベッドの上で、結芽の髪を結び直していた。
細いゴムを二度巻いて、少し位置を直す。
それだけの手つきが長い。
「まだ、はいとは言えません」
芽衣が言う。
結城は急かさない。
紙も開かない。
ただ椅子に座って待つ。
「でも」
芽衣は結芽の髪から手を離し、自分の腹へ置く。
「やらないって決めるなら、それも私が決めたいです」
「はい」
結城が答えた。
芽衣は少しだけ首を振る。
「違います」
一度切る。
「やるなら、ってことです」
結城はそこで初めて紙を引き寄せる。
同意書ではない説明紙の余白が、まだ広く残っている。
「一つ、足してください」
芽衣が言う。
「何を」
芽衣は窓のほうを見た。
カーテンは閉じている。
泥の跡は見えない。
それでも外がいるのは分かる。
「世界のためじゃなくて」
ゆっくり言う。
「この子のために選ぶ、って」
結城はそのまま書いた。
私は、世界のためではなく、この子のために選ぶ。
規則の文ではない。
だから、また紙の中で一番強い。
芽衣はそれを見て、さらに言う。
「もう一つ。生まれたら、最初に名前を書くのは私にしてください」
美沢が顔を上げる。
その条件だけで、終わりの白い帯まで先に見える気がした。
結城は頷いた。
「書きます」
「違います」
芽衣は言う。
「あなたたちがじゃない。私が」
少しだけ沈黙があってから、美沢が答えた。
「分かりました」
結芽が母の膝へ顎を乗せる。
「なまえ、まだ?」
「まだ」
芽衣が言う。
「でも、先に line じゃないって決める」
結芽はその意味を半分も分かっていない顔で頷いた。
それでも、分かるところだけを受け取っている。
芽衣はペンを持つ。
署名欄ではない。
余白へ、自分で一行だけ書いた。
私が選びます。
その五文字だけで、同意と選択のあいだがはっきり分かれた。
5
午後五時十七分。
完成は、歓声の出る形では来なかった。
検体室の冷気の中で、朽木が最後の配合比を見直している。
中岡は胎盤側モデルの透過指標を更新し、塩見は投与時の母体観察表を作る。
結城は患者向けの紙と、内部記録の文言の差を一行ずつ潰していた。
机の中央に、小さなバイアルが一本ある。
透明に近い。
少しだけ白く濁る。
「厳密にはワクチンじゃない」
朽木がまた言った。
今度は画面ではなく、そのバイアルへ向けてだった。
「はい」
中岡が答える。
「でも予防で打つなら、世間はそう呼びます」
結城が内部記録へ打ち込む。
HSD母体投与・胎児期導入試料
patient-facing name: 使用しない
その下に、別欄として小さく残す。
外部呼称:白砂ワクチン
「使わないんですね」
塩見が言う。
「患者に向かっては」
結城が答えた。
「先に中身を話したので」
美沢はバイアルの白さを見る。
白砂ワクチン。
外が先につけた名を、内側はまだそのまま採らない。
「ロットは」
朽木が訊く。
「振ります」
中岡が答える。
キーボードに短く打つ。
lot 01
数字は必要だった。
製剤の側には。
患者の側にはいらない。
そのとき、休憩室の無音テレビに新しい映像が出る。
港湾のゲート前。
列。
警備線。
コンテナを背にした群衆。
画面の下にまた帯が流れる。
港湾周辺 一部閉鎖
抗議活動拡大か
誰もそれを口にしない。
口にしないまま、朽木がバイアルを受け取る。
「できました」
中岡が言った。
できました。
その一行だけが、検体室の中で妙に軽く響く。
勝った感じはなかった。
ただ、もう戻せない段階へ入った感触だけがある。
午後七時四十九分。
投与前の説明は、三回目でも省かれなかった。
短くていい。
でも、省かない。
結城が紙を開く。
「最後に、確認します。これは治療ではありません。あなたは、撤回できます。外から介入が入れば止めます。そして、これはあなたの選択です」
芽衣は頷いた。
結芽は塩見の横で、毛布を膝にかけたまま座っている。
「私が選びます」
芽衣が自分で言う。
「世界のためじゃなくて、この子のために」
結城はそれを、そのまま記録欄へ移した。
美沢は芽衣を見る。
「まだやめられます」
「知っています」
「怖いですか」
「はい」
その「はい」は、前の場面より少し軽かった。
軽いのは、怖くなくなったからではない。
怖さの形が定まったからだった。
塩見がシリンジを受け取る。
透明に近い白が、細い筒の中に静かにある。
芽衣は腹へ手を置き、もう片方の手を結芽へ伸ばす。
結芽はその指を握る。
「いくつ」
結芽が小さく訊いた。
芽衣は少しだけ笑いそうになって、やめる。
「数えなくていい」
「でも」
結芽は指を握ったまま言う。
「いち、に、さん、でおわる?」
美沢はその問いに答えられなかった。
終わるのか、始まるのか、まだ誰にも分からない。
塩見が針先を確かめる。
「いきます」
芽衣は目を閉じない。
「はい」
穿刺は短い。
痛みはある。
でも、劇的なことは何も起きない。
バイアルの白さが、少しずつ消える。
シリンジの中から、芽衣の身体へ移る。
結芽が小さく言う。
「いち」
芽衣が息を吸う。
「に」
塩見が最後まで押し切る。
「さん」
終わる。
終わったのに、何も終わっていない感じだけが残る。
塩見が針を抜き、ガーゼを当てる。
美沢は時計を見て、時間を言った。
「十九時五十一分。投与完了」
結城は記録欄へ打ち込む。
本人の選択により開始。
同意ではなく。
承認でもなく。
選択で。
午後十時二十三分。
最初の変化は、派手ではなかった。
母体血の一回目。
胎盤側マーカー。
胎児心拍。
どれも、劇的に跳ねない。
中岡が画面を見て言う。
「入りました」
その一言だけで十分だった。
朽木が数値を追う。
「急性副反応はまだない」
「まだ、ですね」
塩見が言う。
「はい」
朽木が答える。
「まだです」
芽衣は眠っていない。
疲れているのに、目だけが起きている。
「今、何が起きてますか」
小さく訊く。
美沢はモニタから目を離し、できるだけ短く言った。
「母体側から、胎盤を通る準備が始まっています」
「この子の中では」
「まだ、何も断言できません」
「はい」
外では、正門前の人数が夜になっても減っていない。
むしろ、スマートフォンの光だけが増えている。
テレビは無音のまま、港の映像から別の街の映像へ切り替わっていた。
医療施設周辺で抗議拡大
一部搬送路に遅延
中岡が画面を消そうとして、消さなかった。
消しても事実は消えないからだった。
結城は白い紙を閉じずに机へ置く。
最後の行がまだ乾いていない。
私が選びます。
生まれてからも、この子を line で呼ばせないでください。
私が決める前に、この子を研究番号にしないでください。
その三行だけが、今夜の白砂で唯一、外より先にある。
美沢はモニタを見る。
数値は動いている。
それでも、勝った感じはない。
白砂ワクチンは、完成した。
そう言えるのかもしれない。
でも、完成は救済と同じ意味ではなかった。
窓の外では、もう世界のほうが先に崩れ始めていた。




