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第一章 白砂プロトコル A.D.203X年 春 2

   2


 白砂プロトコル立ち上げ三日目の朝、研究棟の廊下は味噌汁と消毒液が混じった匂いになっていた。

 潮の匂いが遅れて入り、壁に当たってまた薄く戻ってくる。

 仮眠室の前で、若い看護師が左右逆の靴を履いたまま止まっている。

 塩見冴子がしゃがみ、何も言わず片方ずつ入れ替えた。

 塩見のスクラブのポケットは、ボールペンより生活用品のほうが多い。子ども用歯ブラシ、丸い絆創膏、髪ゴム、予備の靴下止め。派手な柄のものはない。前に「泣いてる子にシールを出すと、ごほうびみたいになるから」と言っていた。

 看護師が、はっとして目を覚ました。

「ごめんなさい」

「謝る前に三時間寝て」

 塩見は立ち上がって去りかけ、二歩目で振り返る。

「朝の記録、主語だけ残して寝て。抜けたところはあとで埋めるから」

 突き放すでもなく、甘やかすでもない。

 現場を回す人間の声だった。

 美沢が自販機の薄いコーヒーを開けたところで、主任研究員の朽木が現れた。

 眠っていない人間の目をしているのに、シャツの襟だけ妙にきちんとしている。

 いったん帰って、着替えだけしてきたのだろう。

「候補が一つあります」

 差し出されたのはタブレットだけではなかった。その下に、角の潰れた紙のノートがある。表紙にあったはずの旧計画コードは、黒いマジックで塗りつぶされていた。塗りつぶしの端から、元の英数字がかすかにのぞいている。

「GRF-7。五年前の月圏作業員向け対策ライブラリに入っていた化合物です」

「成人造血系の安全性確認まで行って、棚に戻されたやつか」

 朽木が一瞬だけ目を上げた。

「……覚えてましたか」

「会議資料を作った」

 朽木は小さくうなずく。うなずく前に、塗りつぶされた表紙に一度だけ指が触れた。

「効き目が弱いと言われて切られました。強く止める薬じゃない。壊れる寸前の細胞に、一拍だけ待ってもらうための薬です。逆に言えば、今の病像には噛むかもしれない」

「『かもしれない』が多いですね」

 塩見が、いつのまにか横に来ていた。

 タブレットではなく、先に紙のノートを見る。

 黒く消された題字のほうを。

「多いです」

 朽木は否定しなかった。

「だから、検討会で持ち込むつもりでした」

「その検討会を待ってるあいだに、こっちは橋指数が上がるんです」

 塩見の声は荒くない。

 荒くしなくても通る人間の言い方だった。

「昨夜から黒瀬くん、末梢血でも異常が濃い。あと何時間あるか、誰も言えない」

「分かってます」

 朽木の口元が一瞬硬くなる。

「分かってるから、持ってきた」


 美沢は、薬の説明より先に、その先の足りなさを聞いていた。

 壊れる速度を鈍らせる。

 それは必要だ。

 だが、いま目の前で失われているものは、壊れることそのものより、一度壊れたものが戻ってこないことだった。

 待たせるだけで届くなら、ここまで切迫していない。


 そこへ法務担当の結城が紙束を抱えて入ってきた。

 まだ若いが、目の下だけは年齢より上に見える。

 紙は分厚いのに、いちばん上の一枚だけが異様に薄い。

 表題は手書きで、『最初に読む版』とあった。

「GRF-7、未承認使用になります。小児データがなく、長期予後も不明で、追跡同意と再同意条項、それから――」

 塩見が眉を寄せるより先に、結城が最上段の一枚を抜いた。

「でも、家族の前で最初に使うのはこれだけでいいです。署名欄は後ろです」

 美沢が受け取る。箇条書きは四つだけだった。

 今わかっていること

 まだわかっていないこと

 急ぐ理由

 やめる基準

「読み上げない文章を、先にサインさせるのは嫌なので」と結城が言う。

 塩見がその紙を見て、初めて少しだけ表情を緩めた。

「その四つなら回る」

「法務の紙って、人を守る言葉と組織が逃げる言葉が混ざるんです。混ざったまま最初に読むと、たいてい誰も守れません」

 机の上のカルテには、黒瀬航の名前があった。

 昨夜から橋形成比率は上がりはじめ、末梢血の分裂像でも異常が濃くなっている。

 全身状態はまだ保っている。

 だからこそ、いましかない。

 美沢は承認書の下端に時刻を書こうとして、手を止めた。

 5:12

 そのとき、伏せてあった私用端末が震えた。

 画面の縁から、動画の自動プレビューが一瞬だけ漏れる。

 無音のまま、紙の王冠をかぶった凛が舞台袖から顔を出し、歌いだす前に客席へ目を走らせる。

 空席を探す癖だ。

 胸の奥で、別の速度が立ち上がった。視界の端が急に暗くなり、中央の数字だけが妙にくっきりする。

 いま決めろ。いま走れ。もう遅れるな。

 それが航のためだけの速度ではないと、美沢には分かった。

 自分の娘に対して遅れた時間を、よその子で埋めようとする速さだ。

 だめだ、一番危ない。

 美沢は端末を引き出しにしまい、鍵をかけた。

「黒瀬航の血検再測をもう一回。塗抹は別系で採って」

 朽木が顔を上げる。

「慎重にって、ことですか」

「違う。私が速くなりすぎてる」

 誰もすぐには復唱しなかった。

 処置室の向こうで別のポンプが一度だけ鳴り、塩見の視線が引き出しの鍵に落ち、それから美沢の顔へ戻った。

 短く、ほんの短くうなずく。

 五分後、再測の数字は変わらなかった。

 悪化の方向で、ぶれずにそろった。

「緊急人道的使用で一例だけ走らせます」

 美沢は言った。

「対象は黒瀬航。投与前後の画像、採血条件、バイタル、全部保存。二時間ごとに評価更新。中止基準は私が持つ」

 朽木がすぐ顔を上げた。

「研究責任の説明欄に、僕の名前も入れてください」

「責任者欄には入れない」

「そこじゃない。説明欄でいい」

 さっきより強い声だった。

「前の計画では、薬だけ棚に残って、人の名前が報告書から先に消えた。今も倉庫番号だけ残ってる。今回は逆にしたくない」

 塩見が黙って二人を見る。

 結城は紙束を抱えたまま、視線だけ落とした。

 意味が分かるから黙っている顔だった。

 美沢は少しだけ考えた。

「共同責任者にはしない。でも、出所の説明にはあなたの名前を入れる」

 朽木は一拍遅れてうなずいた。譲歩したというより、そこまでが限界だと分かった顔だった。

 処置室前で、菜月は昨日と同じメモ帳を持っていた。

 泣いていない。

 だが、泣かないために肩の筋肉が上がっているのが分かる。

 航は膝に体重を預け、ショベルカーのタイヤを親指で回していた。

 眠いせいか、片目だけ少し赤い。

「黒瀬さん」

 美沢が呼ぶと、菜月はすぐ立ち上がった。

 座っていた時間が長かったのか、最初の一歩だけふらつく。

「すみません。聞きます」

 自分に言い聞かせるように言ってから、メモ帳を開く。

 その横で、結城が紙束から一枚だけ抜いて差し出した。

「今日はこれだけ先に見てください。署名欄は最後です。順番を飛ばすと、あとで話がずれます」

 菜月はその一言で、初めて結城の顔を見た。

「助かりますか、って訊きたいんですけど、それ、たぶん今は意味がないので。ええと……先生たちの中で、どれくらい割れてますか」

 朽木がわずかに眉を上げる。美沢が答える前に、菜月は自分で補った。

「全員が賛成とは思ってないです。そういう話じゃないのも分かる。でも、どれくらい迷ってるのか知りたい」

「効く保証がない、という意味では全員迷っています」

 美沢は言った。

「使わずに進行させるほうが危険だ、という点では一致しています」

 菜月は書きながら、小さくうなずく。

「最悪の線は」

「まだ越えていません。ただ、安全圏にも戻していない」

「副作用は」

 朽木が口を開いた。

「成人では重い毒性は出ていません。けれど小児データはありません。効いても、あとで別の問題が出る可能性はあります」

 結城が静かに続ける。

「法務の文書は、効く可能性と効かない可能性を同じ大きさで書きます。でも、今ここでの重みは同じじゃないと、僕は思っています」

 菜月はそこで初めて朽木と結城の両方を見た。それから美沢に戻る。

「先生は」

 少しだけ間を置く。

「自分の子なら、使いますか」

 引き出しの中の、黒いままの画面が頭に浮かぶ。

 さっき無音で客席を探した凛の目が、まだ胸のどこかに残っていた。

「使います」

 美沢は答えた。

 菜月はすぐには書かなかった。

「迷わず、ではないですよね」

「迷います」

「……そうですよね」

 菜月の肩が、ほんの少しだけ落ちた。

「でも、置いていきません」

 美沢が続ける。

「決めたあとで説明だけ残して、離れたりはしません」

 菜月は息を吐いた。ようやく一度だけ目を閉じる。

「お願いします。夫にも、あとで同じ順番で話してください。私、うまく伝え直せる自信がないので」

「同じ順番で、こちらから話します」

 結城が先に答えた。菜月はそれを聞いて、初めて紙に触れる手の力を少し抜いた。

 GRF-7の投与が始まった。

 ポンプの電子音が一定間隔で鳴る。

 航は最初、固定テープを嫌がって腕を引いたが、塩見がポケットから二種類のテープを出して見せた。

「白と水色、どっちにする」

 航は少し考えて、水色を指した。

「じゃあ水色。工事のひとは色を選んでから働く」

 塩見はそう言って手際よく固定し、余った端を指で軽く押さえた。その動きだけ妙にやさしい。

「ほら、こっちが橋」

 塩見がチューブを指でつつく。

「橋はいま足りてる。いらない橋だけほどく」

 航は真剣な顔で見て、それから車輪を一回だけ回した。

 二十分。三十分。四十分。

 若い医員の視線が、モニタと航の顔を往復する。誰かが「下がった、かも」と小さく言いかけ、朽木がすぐ手で制した。

「まだ。先に『効いた』って言うと、あとで数字が戻れなくなる」

 ぶっきらぼうだったが、半分は自分に向けた言い方だった。

 最初に変化を拾ったのは朽木だった。

「橋指数、低下。完全じゃない」

 画面を拡大しながら、声の速さが少しだけ変わる。

「断端をつないでた帯が短くなってる。修復シグナルも増えてる。細胞周期の偏りも、少し鈍った」

 塩見が「少し」を繰り返すみたいに鼻で息を吐く。

「その『少し』は、家族に渡していい少しですか」

 問われたのは朽木ではなく、その場にいる全員だった。結城の声だった。

 朽木は一拍だけ黙ってから答える。

「……渡していいです。治った、ではない。戻り始めた可能性がある、の少しです」

 美沢は画面の数字を見た。

 下がっている。

 だが、戻ったとはまだ違う。

 一度ほどけたものが、自分の場所へ帰ってきた証拠は、まだどこにもない。

 希望はある。

 けれど、その希望を“修復”と呼ぶには早すぎた。

 結城はうなずいた。誰かに向けてではなく、自分の中で文の大きさを決めるみたいに。

 誰も喜ばなかった。改善と治癒は違う。そこを飛ばすと、あとで誰かが落ちる。

 菜月だけが、航の額の汗を拭きながら言った。

「今の、戻ったって言っていいやつですか」

「数字上は、少し」

 美沢が答えると、菜月はうなずいた。

「じゃあ今は、それで足ります」

 言い終えてから、メモ帳を閉じる指が一度だけ空をつかんだ。菜月はそれを見なかったふりで握り直した。

 祈りみたいな声ではなかった。

 今日やることを、一つずつ机の上に並べていく人の声だった。



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