お医者様でも草津の湯でも
沢渡家の2日目のカレーはガラムマサラとバジルなどの乾燥ハーブを加えた上で、バターと牛乳を混ぜることでクリーミィかつスパイシーで食欲をそそる一品に仕上がっている。
「――ごちそうさま。ちょっと食欲ないや。」
出された大盛りの1皿を食べ終わったあと、昴はそう言って席を立った。
「えっ!?」
仕事に出掛ける支度をしていた昴の母は驚きの声を上げた。普段なら大盛り3皿を軽く平らげる育ち盛りの昴が、朝食のカレーをたった1皿しか摂らないことは今まで1度も無かったことだ。昨夜もあまり食べていなかったことを確認しているので、戸惑いは隠せない。そしてバターと牛乳をたっぷりと入れてしまったことで痛みが早くなってしまうのも心配といえば心配ではある。
「――熱っぽいかも。かっちゃんの所に寄っていっていい?」
かっちゃん、沢渡勝也は昴の従兄弟で28歳にして近所で開業医を営んでいる。全国を転々としていた頃は疎遠であったが、Y市に定住するにあたって近所の親戚として親しく交流するようになった。そして沢渡家の主治医としても付き合いがある。昴にとっても「兄」のような存在だ。
「そう分かったわ、連絡しておくから。体調が悪いなら無理しないで休みなさいよ?」
仕事で昼間は家にいないが母親として当然の、心配の声を掛ける。
「いや、学校には絶対に行くから。」
「――?」
体調が悪いと訴えながらも学校には行くという言葉を疑問に思いながらも、キャリアウーマンとして今日も多忙を極める彼女は、仕方なく信頼する甥っ子である勝也に丸投げすることにした。
「2月のインフルエンザ以来だな。今日はどうした?おばさんから体調が悪いらしいって電話があったけど。体温は6度8分、高めだけど微熱という程でもないな。」
白衣姿の沢渡勝也はカルテに日付と計り終わった体温を書き込みながら問うた。
「ちょっと熱っぽい。」
「ふむ。」
聴診器で心音と呼吸音を確認、首のリンパ節を触診、喉の腫れの有無を目視。結果をカルテに書き込みながら問診を続けた。
「特に異常は見当たらないが――何か気になることはあるか?」
心拍数と血圧を測るため、腕に装置を巻きつけながら、勝也は優しく声を掛ける。身体的な異常は見当たらない、だから心の問題を気にしていた。
昴は問われて逡巡する。昨日の事件、あれは夢などではなく厳然たる事実。しかし常識的に考えて、そのまま話しても俄に信じて貰えないだろう。
「――夢を見たんだけどさ。」
だから昴は夢の中の出来事として話すことにした。甥っ子の言葉を勝也は黙って聞く。
「学校で怪物に追いかけられた夢でさ。すごく怖かった。必死になって逃げて逃げて、追いつかれそうになった時、悠太きゅ……えっと、クラスメイトが助けてくれて。いつもは陰キャで冴えない感じなんだけど、その時はめっちゃ凛々しくて。カッコ良かった。怪物がたくさんいるのにすごく落ち着いてて、それでいてウサギのピアスなんか着けちゃってて。普段とのギャップというか凄く……カッコ良かった。本当にヒーローって感じでさ、俺を守ってくれたんだよ。すごくカッコ良かった。」
熱く語る昴を観察しながら、勝也は既にカルテに記録を取るのを止めていた。
「つまりだ、昴。その夢の中に出てきた悠太君というクラスメイトが好きなんだな?」
「いや、ええと、好きというか――良いなっていうのか、カッコいいなというか、憧れるというか――、いや、好きかも?」
普段はチャラい感じでスカした少年が頬を染めて、たどたどしく言葉を紡ぐ様子は可愛らしさがある。そう思いながら勝也は言った。
「江戸の昔から、ある都々逸が語り継がれている。」
「どどいつ?」
昴は初めて聞く単語だ。古くからある七七七五の定型詩で、恋愛を題材にした句も多い。
「『お医者様でも 草津の湯でも 惚れた病は 治りゃせぬ』っつってな、俺に話を持って来るのはお門違いっつーヤツだよ!」
言って、勝也は強烈なデコピンを昴にお見舞いした。
「ッたー! ひでえな、相談したっていいじゃんよー!!」
額を抑えて抗議するが、勝也は書きかけのカルテを丸めてクズ籠に放りながら言う。
「グチャグチャ言う前にガッコー行って悠太君にアプローチして来い!全く、これだから最近の若者は!」
「うるせー、クソ老害!」
「サッサと行け、クソガキ!」
文句を言いながら診察室を出ていく昴を見届けて、勝也はスマホを手にした。
「――もしもし、景子伯母さん? あ、心身共に問題なく、完全に健康体です。――ええ、しばらくは食べる分だけ与えて様子を見ましょう。はい、問題ないです。――あー、何というか。自分らには治療できないタイプの……さすが、察しがいいですね。多感な年頃ですから――ええ、そんな感じで。診療代はいいですよ、いや、本当に患者さん来なくてヒマですから、あっはっは。――ええ、では失礼します。」
そして勝也は電話を切って、ひときわ大きくため息をつく。
「ったく、若いからってどいつもこいつもアオハルしやがって!」
その様子を、それとなく把握している人物がいた。病院の受付で昴に会計は後でと伝えて診察券を返却した、事務員兼看護師の佑香(42歳主婦)である。彼女は内心で「だったら私みたいな既婚の子持ち中年女じゃなくて若い子を雇えばいいじゃない?」と内心で毒づきながら、「院長センセ、コーヒーでも入れましょうか?」と笑顔で言いながら席を立った。




