第93話 見える城壁、消えない線
夜明け前、俺たちは支部の裏口から出た。
表通りを使わなかったのは、急ぎたいからじゃない。
見られたくないからだ。
白み始めた空の下で、荷馬車が二台だけ待っていた。
一台は普通の荷。
もう一台は、見た目だけ普通の荷だ。
「確認するぞ」
ガランさんが低く言った。
「帳簿の原本は俺が持つ。数字の控えはテオ。道中で説明が要る時は、先に数字だけ出す。帳簿は必要になるまで見せねえ」
「証人は私が診ます」
リアンさんが荷馬車の中を見ながら言った。
「熱のある病人扱いなら、不自然ではありません」
「無理はさせるな」
「させません」
荷馬車の奥では、北の廃水路で拾った生き証人が毛布にくるまっていた。
顔色はまだ悪い。
でも、昨夜より目に力がある。
「お、俺は……」
「喋るのは必要な時だけでいい」
ガランさんが先に止めた。
「お前は今、証言する人間じゃない。王都へ届くまで生きてる人間だ。順番を間違えるな」
その言い方は冷たいんじゃない。
守るための言い方だった。
テオさんは、布包みを三つに分けていた。
一つは本物の控え。
一つは途中で見せてもいい数字だけを抜いた紙。
もう一つは、どうでもいい荷の記録に見える偽装用だ。
「ここまでやるんですか」
俺が聞くと、テオさんは顔も上げずに答えた。
「ここまでやって、やっと半分です。王都が近いほど、襲う側も焦る」
「言い方が嫌だな」
ミナさんが肩をすくめる。
「でも、正しいんだよねえ」
コルトさんはもう先へ出ていた。
街道の曲がり角と人の流れを見ている。
バルドさんは荷馬車の横に立って、盾を荷台に立てかけたまま周囲を見回していた。
誰が何をする人か。
動き出す前から、もう分かる。
「行くぞ」
ガランさんが言った。
馬車が軋んで動く。
俺たちは、王都へ向かった。
朝日が上がるにつれて、街道の空気は変わっていった。
土の道は広くなる。
轍は深くなる。
行き交う人の数も、急に増えた。
商隊。
教会の紋入りの馬車。
学院の色をつけた荷車。
王都軍の巡回騎馬。
旅人だけじゃない。
役目を持った人間が、同じ道を同じ顔で通っていく。
遠くに、白いものが見えた。
最初は雲みたいだった。
でも、見間違えるはずがない。
王都の外郭だ。
『セイ』
(どうした)
『ここから先は、政治と宗教の場です』
(……そうだな)
昨夜も聞いた言葉だった。
でも、朝の光の中で聞くと重さが違う。
森の危険は、まだ読みやすい。
濁りは濁りで分かる。
足場は沈む前に気づける。
牙がどこへ伸びるかも、線で見える。
でも、人の都合は見えない。
笑って近づいてくるやつが、どこで消す気なのかまでは、線になってくれない。
「難しい顔してるね」
ミナさんが俺の横に並んだ。
「王都が嫌いになった?」
「まだ入ってないのに、嫌いとは言いづらいです」
「じゃあ」
「危険が読みにくいです」
「ああ。それは分かる」
ミナさんは前を見たまま、小さく笑った。
「森は『危ない』って顔をしてくれるからね。町は、ちゃんとした顔のまま削ってくる」
言い方が軽いのに、妙に刺さった。
昼前、ガランさんが一度だけ馬車を止めた。
街道の脇に、低い石垣と枯れ草の斜面がある場所だった。
休憩に見える。
でも、本当の目的は違う。
「ここで最後に詰める」
ガランさんが言った。
「王都の手前で、持ち方をもう一度揃えるぞ」
荷台の影に集まる。
人目はある。
だからこそ、長話はできない。
「生き証人はこのままリアンが受け持つ」
「はい」
「表で声を出すのは俺と必要最小限だけだ。テオ、数字は」
「見せていい版がこちらです」
テオさんが紙を一枚だけ出した。
「王都寄りの役人名や、繋がりを確定できていない部分は伏せています」
「いい」
「帳簿の原本は最後です。最初に出すと、相手は帳簿ごと消せばいいと考える」
「証人も同じだな」
バルドさんが低く言った。
「顔を見せた瞬間、狙いが一つに絞られる」
「だから、人の多い場所を避ける」
コルトさんが戻ってきて言った。
「前の分かれ道、右は露店が多い。左は遠回りだけど、視線は減る」
「左だ」
ガランさんが即答する。
迷いがない。
それだけで、息が少し楽になった。
「セイ」
ガランさんが俺を見る。
「お前はどう見る」
「狭いところは避けたいです」
俺は街道の先を見た。
「人の流れが詰まる場所は、止められた時点で危険が上がる。あと、斜面の下側も嫌です。荷馬車の足が取られると、証人を動かせなくなる」
「分かった。そこは切る」
切る。
その言葉が、今はありがたかった。
再び動き出してから一刻ほど。
街道は緩い下りになって、右手に乾いた用水路が見え始めた。
左は低い林。
街道は王都へ近づくほど、人も荷も増えていた。
商隊の荷車、巡回の騎馬、急ぎ足の旅人。
流れそのものは途切れていない。
なのに、その先だけが少し引っかかった。
道の端に、壊れた荷車が寄せてある。
困った旅人に見える形だった。
荷袋を抱えた男が一人。
もう一人は、外れた車輪を押さえている。
けれど、そこで足が止まった。
「止まらないでください」
俺は声を落とした。
「そのまま。でも少しだけ、荷馬車を寄せすぎないで」
男の片方は、車輪を押さえているくせに、足の向きが道の外へ開いていた。
逃げる足じゃない。
飛び込む足だ。
もう片方は、困った旅人の顔をしている。
でも、視線だけが荷馬車の奥を探っていた。
嫌な線が一本だけ見えた。
短い。
でも、証人の喉まで届く長さだ。
「コルトさん」
「見えてる」
「右です」
「任せろ」
荷馬車が横を通る、その瞬間だった。
「今だ!」
荷袋を抱えた男が、袋ごとこちらへ投げた。
中身は荷物じゃない。
砂だ。
視界潰し。
同時に、車輪を押さえていた男が短剣を抜いて荷台へ踏み込む。
俺は右足を半歩だけ前に出した。
相手の視線を、自分へ寄せるためだ。
男の肩が前へ落ちる。
踏み込みが来る。
左足を外へ半歩逃がす。
つま先から薄くマナを流した。
相手の踏み込み先の土だけを、ほんの少し柔らかくする。
男の前足が沈んだ。
膝が落ちる。
短剣の軌道が、俺の肩ではなく脇を滑った。
「そこだ!」
バルドさんの盾が横から叩き込まれた。
鈍い音。
男の体が地面へ転がる。
もう一人は荷台の奥へ回ろうとした。
でも、その前に矢が飛ぶ。
コルトさんの矢が、男の袖を石垣に縫い止めた。
「動くな」
短い声だった。
でも十分だ。
男が腕を引く。
抜けない。
そこで、ミナさんが低く唱えた。
地面すれすれに熱が走って、男の足元の草だけがぱちぱちと焦げる。
「次は袖じゃ済まないよ」
笑ってるのに、目が笑ってない。
ああ、この人が後ろにいると本当に助かる。
荷馬車の中では、リアンさんがもう証人をかばっていた。
毛布ごと体を押さえ、頭を伏せさせている。
「大丈夫です。顔を上げないで」
その声で、荷台の震えが少しだけ収まった。
テオさんはすぐに道の脇へ回っていた。
風を細く流して、砂をこちらへ戻さない。
ついでに、周囲の音を拾っている。
「追加二名」
テオさんが言った。
「林の奥。でも、出てきません。様子見です」
「出てくる前に見せろ」
ガランさんの声が飛ぶ。
俺は石垣の上へ一歩だけ上がった。
林の境目を見る。
枝の影。
呼吸。
迷っている気配。
「聞こえてるだろ」
ガランさんが前へ出た。
「ここで続けるなら、王都軍の巡回が来る前に終わらねえぞ。拾える首も、拾えなくなる」
返事はなかった。
でも、気配が一つぶん遠ざかった。
もう一つも、少し遅れて消える。
切られた。
そう判断したんだろう。
地面に転がった男を、バルドさんがうつ伏せに押さえる。
コルトさんは矢を抜かない。
逃がさないためだ。
「誰の差し金だ」
ガランさんが聞く。
男は笑った。
鼻で笑うみたいな、乾いた笑いだった。
「遅いんだよ」
「何がだ」
「持っていく順番を考えたつもりか」
男は口の端を歪めた。
「王都に入れば同じだ。あっちの方が、もっと綺麗に消える」
ぞくりとした。
脅しじゃない。
知っている言い方だった。
「綺麗に、ね」
ミナさんが吐き捨てる。
「汚いやり方するやつほど、そういう言葉好きだよね」
「黙れ」
「そっちがね。でも安心して。こっちには、まだ話を通せる先があるのよ」
ガランさんは男の胸元を確かめ、短く息を吐いた。
「末端だな」
「でも、十分です」
テオさんが言う。
「この言い方は、“王都の中に受け口がある”前提で動いている」
「分かってた話だ」
「分かっていたのと、口に出されるのは別です」
テオさんは淡々としていた。
でも、その声は少し硬かった。
俺は白い城壁を見た。
朝より、ずっと大きい。
近づいている。
確実に。
なのに、入るほど安全になる感じはしない。
むしろ逆だ。
森の危険は、牙や爪や濁りだ。
見えれば避けられる。
見えれば引ける。
でも、王都の危険はきっと違う。
門をくぐっても、剣を抜いたままじゃ来ない。
「縛って、支部経由で回す」
ガランさんが言った。
「ここで時間は食わねえ。王都の手前で止まるぞ」
「はい」
俺は答えた。
答えながら、自分でも分かっていた。
街道の危険は、まだ前座だ。
白い城壁は、もうはっきり見えている。
見えるのに。
その向こうの危険だけが、まだ輪郭を持たない。
それが一番、嫌だった。




