第108話 消えた二人
翌朝。
俺たちは、王都西寄りの倉区画へ向かっていた。
昨日、記録庫で拾った名前と日付、それに受け渡しの抜け。
帳面の上では切れていた流れを、今度は現場で確かめるためだ。
頭の奥で、リラが静かに言う。
『昨日見た帳面の位置関係を、王都の水晶網の簡易地図に重ねました』
『入都記録、補修材搬入、保護札の欠落地点』
『三つとも、西寄りの倉区画で一度だけ近づきます』
俺の視界の端に、薄い線の地図が浮かんだ。
道。
倉。
補修灯。
表通り。
裏手の搬入路。
祈り灯から伸びる白い流れが、街の形に沿って細く走っている。
その上に、昨日拾った記録の位置がひとつずつ重なった。
帳面の上では途切れていたものが、現場に来ると一本の道になっていく。
「見えてるか」
前を歩くバルドが聞いた。
「見えてます」
俺はうなずいた。
「西へ抜ける流れはあります」
「でも、ただの荷の道じゃない」
「人を別の道へ回しやすい裏通りが、このあたりでいくつもつながってる」
「記録の抜け方とも合っています」
テオが板を見ながら言う。
「人の受け渡しを消すなら、表通りよりこっちです」
「倉の裏口同士をつなぐ道なら、荷に紛れさせやすい」
サラも祈り灯へ目を向けたまま続けた。
「表通りの守りの方が厚いです」
「裏へ回すなら、薄いところを選ぶ方が自然ですね」
王都側の連絡役が、少しだけ肩を強張らせた。
「この裏手は、普段は補修や搬入の人間しか使いません」
「人目にはつきにくいです」
「ただ、その分、長く調べると逆に目立ちます」
「なら、さっと見て、さっと押さえるだけだな」
バルドが言う。
「はい」
俺は答えた。
「向こうに気づかれる前に、道の形だけでも掴みたいです」
倉区画に入ると、朝の王都の音が一段遠くなった。
表通りの賑わいはすぐそこにあるはずなのに、角を曲がるだけで空気が変わる。
各倉の裏口と搬入口をつなぐだけの細い通り。
壁の角には、布や箱を何度もこすった跡が残っていた。
荷は通っている。
でも、人や荷を長く留める場所じゃない。
飾り気はなく、利便性だけを優先した裏通りだった。
「いかにもだな」
バルドが周囲を見た。
「荷を通すにはいい」
「長居するには向かねえ」
「ええ」
テオがうなずく。
「作業場なら、もっと散らかります」
「ここは、通すためだけに整えられています」
俺は、祈り灯から伸びる見えない流れを追った。
白い筋は倉の外壁に沿っていくつも走っている。
守りはある。
でも、場所によって働き方が違った。
普通なら人を守る方向に回るはずの流れが、ある場所だけ手前で脇へ逃がされている。
「一つ目は、あそこです」
俺は左手の倉を指した。
「守りが弱いんじゃない」
「守る向きだけが、壁際から外されてます」
『帳面上でも、その倉への補修材搬入が不自然に多いです』
リラが重ねた。
『同じ日の別倉より、木枠と布の出入りが多い』
『ですが、修繕記録は薄いです』
「行きましょう」
連絡役がうなずき、下役人に扉を開けさせた。
中は広かった。
保管庫にしては荷が少ない。
帳面ではもっと運び込まれているはずなのに、外へ出した記録はない。
それなのに、中央だけが妙に広く空いていて、奥へまっすぐ通りやすくなっていた。
箱はある。
木枠も布もある。
だが、倉を埋めるような置き方ではない。
ここは荷を溜める場所というより、何かを通すための場所に見えた。
「空きすぎですね」
下役人が顔をしかめた。
「帳面の量なら、もっと詰まるはずです」
テオはすぐに床へしゃがみ込んだ。
「車輪跡が多いですね」
「ただ、重い石材ではありません」
「浅いです」
「軽い荷を何度も通した跡です」
「人を乗せた台でも、こうなるか」
バルドが聞く。
「なります」
テオは即答した。
「しかも、慌てて暴れた跡がない」
「止まる位置がきれいすぎます」
俺は右奥の壁際へ歩いた。
足裏の返りが、一歩だけ遅れた。
床の硬さが違うわけじゃない。
でも、踏み込んだ瞬間だけ、そこを通る守りの流れが脇へ逃げる。
「ここです」
俺が言うと、サラがすぐ横へ並んだ。
「この壁の下を通る守りだけ、少し逃げてる」
「切れてない」
「でも、ここだけ守らないようにされてる」
サラは札に指を添え、すぐに目を細めた。
「……本当ですね」
「祈りそのものはあります」
「けれど、搬入口から見て右奥の壁際だけ、働き方が違う」
「自然にこうはなりません」
テオがその壁の継ぎ目を見た。
「一枚だけ、石の削り方が違います」
「後から替えていますね」
バルドが軽く叩く。
鈍い音の奥に、少し空いた響きが返った。
「裏に細い通しがあるな」
「人一人ずつなら通せます」
テオが言う。
「倉の中に隠すためじゃない」
「横へ流すための隙です」
一つ目を出る時点で、話はかなり固まった。
逃げた人間の痕跡じゃない。
誰かが通した痕跡だ。
二つ目の倉は、布材置き場の顔をしていた。
扉を開けた瞬間、鼻にひっかかる匂いがあった。
木と布の匂いの奥に、薄い薬臭さが混じっている。
サラの顔が変わる。
「これ、治療用ではありません」
「眠らせる側の匂いです」
「強くはないですが、残っています」
「生かしたまま運んだか」
バルドが低く言った。
「可能性は高いです」
テオが答える。
「処分だけなら、もっと雑な跡が出る」
「でもここは違う」
「静かに通すための場所です」
俺は倉の奥の流れを見た。
一つ目と同じだった。
祈りは動いている。
灯りも生きている。
なのに、人を守る向きだけが奥へ通っていない。
頭の中でリラに問いを投げる。
北外れの板と比べられるか。
『比較中です』
一拍おいて、リラが返す。
『一致までは言いません』
『ただ、やり方が近いです』
『祈りを止めるのではなく、届く先だけをずらしています』
『この倉も、見た目は正常に近いまま、守りだけを薄くされています』
やっぱりそうか。
祈りが届かないんじゃない。
届く先を少し曲げられている。
灯りがついているだけで安心しやすい、この世界の常識に寄りかかったやり方だ。
「二人は、まだ生きてる可能性が高いです」
俺は言った。
「ここで処分してない」
「処分したなら、もっと乱れる」
「でも、これは通した跡です」
「俺もそう見る」
バルドが言う。
「逃げたやつの消え方じゃねえ」
「誰かが押さえて、先へ流してる」
「問題は、その先ですね」
テオが杖を握り直した。
「ここまできれいに消せるなら、次の場所も用意されているはずです」
倉を出て、さらに奥へ進む。
倉の裏口同士をつなぐ細い通りは、途中で右と左に分かれていた。
西へ抜ける道。
内側へ戻る道。
記録の上では、西側の搬入が目立っていた。
だが、実際の流れは少し違う。
俺はその場で足を止めた。
左の、内側へ戻る道の方が重い。
見えない通り道が、そこだけ妙に細い。
危険が上がる時の感覚だ。
「待ってください」
俺が言うと、全員がすぐに止まった。
「どうした」
バルドが聞く。
「人がいます」
俺は路地の先を見た。
「二人」
「角の死角に一人ずつ」
「荷運びじゃない」
「待ってる立ち方です」
『視覚までは取れませんが、足音の位置は合います』
リラが続ける。
『短剣か、短い棍棒』
『右手側の一人は、動く気です』
「詰所兵は下がってください」
俺はすぐ言った。
「正面から行くと、角でぶつかります」
「バルド、半歩左です」
「右は足を取られます」
バルドは一言も返さず、言われた通りに左へ半歩ずらした。
その瞬間、角の向こうから影が飛び出した。
短い棍棒を持った男だった。
狙いは前に出たバルドじゃない。
後ろにいる連絡役だ。
足止めと混乱。
そのための一撃だった。
だが、バルドの方が早い。
左足を前へ送り、盾を立てる。
棍棒が鈍い音を立てて弾かれた。
「雑だな」
バルドが吐き捨てる。
「使いっ走りか」
もう一人が右から走り込んだ。
俺には、その踏み込み先がはっきり見えていた。
石の継ぎ目の下が、右へ半歩ぶんだけ痩せている。
浅い。
でも、走って踏み込む足には十分だ。
右の男が角を抜けるなら、次は右足を大きく前へ出す。
その先に入れば、足首が流れる。
「右、次の一歩です」
「テオ、その半歩手前」
男が右足を送り出す。
俺は足裏から薄く土へ触れた。
大きくは動かさない。
見た目は石畳の継ぎ目が少し浮いただけに見える程度。
男の踏み込み先の、つま先が入る位置だけをわずかに柔らかくする。
そのさらに手前に、爪先が引っかかるほどの小さな突起をひとつだけ作った。
「はい」
テオの土魔法が、その突起のさらに外側を指一本ぶんだけ持ち上げる。
高くはない。
だが、走っている足には十分だった。
男の右足が先に小さな突起へ触れる。
思ったより早く爪先が上がる。
次の瞬間、着地した足裏の下がわずかに沈んだ。
爪先が浮き、踵が逃げる。
膝が内側へ入り、腰が遅れた。
「そこだ」
バルドが左足を半歩前へ出した。
右足は引かない。
押し返せる形のまま、盾だけを先に入れる。
男の棍棒が盾の縁に当たり、腕が外へ流れた。
そのずれた胸元へ、バルドが右肩を入れる。
叩くんじゃない。
前に立つ。
それだけで相手の進む線が死んだ。
「ぐっ……!」
男は転びきらずに耐えた。
けれど、もう終わりだった。
足首がずれた時点で、逃げる線は折れている。
サラの祈りが白く走る。
光は強すぎない。
だが、男の目が一瞬だけ細くなる。
その瞬間に詰所兵が横から入り、腕を押さえた。
もう一人も、正面でバルドに止められていた。
斬るより先に、前へ立つ。
左へ半歩。
右へ半歩。
盾の向きを変えるたびに、相手の逃げ道が消えていく。
前に出るだけで、動きが削られていく。
本当に壁みたいだった。
「後ろだ」
バルドの声で振り返る。
路地の奥。
補修員みたいな服の若い男が、布に包んだ細長いものを抱えていた。
逃げる気じゃない。
置くつもりだ。
『北外れの板と形が近いです』
リラが告げる。
『小型です』
『補修灯の根元を狙っています』
男が灯りへ走る。
俺は前へ飛び出さない。
そこはもう決めていた。
俺の役は取ることじゃない。
通る条件を崩すことだ。
「テオ、灯りの手前に低い壁」
「サラ、灯りを先に守ってください」
「俺が足をずらします」
「分かりました」
「行きます」
男の進路を見る。
最短で行くなら、左足、右足、もう一歩で灯りだ。
なら、触るのは二歩目だけでいい。
俺は石畳の下へ薄く土を流した。
男の右足が落ちる位置だけを、わずかに柔らかくする。
その右外側に、今度は踵が逃げるくらいの浅い傾きをつける。
目で見て分かるほどじゃない。
走って踏み切った人間だけが、嫌なずれを感じる程度だ。
同時に、テオの土壁が膝丈で立った。
まっすぐ進む線が消える。
男は避けるために半歩右へ寄った。
その先が、俺のずらした場所だった。
右足が沈む。
踵が逃げる。
足首がぶれる。
上体が前へ流れる。
そこでサラの祈りが、祈り灯の根元を包んだ。
白い守りが先に入る。
男は無理に布包みを投げた。
だが、体勢が崩れたままだ。
狙いが短い。
包みは石畳に落ち、布がほどけた。
中から黒い薄板が滑り出る。
昨日見たものより小さい。
だが、嫌な沈み方は同じだった。
周りの光を吸うみたいに、そこだけ白さが痩せる。
「やっぱりそれか」
バルドが吐き捨てた。
男は板を置けなかった時点で終わっていた。
テオが短く風を走らせる。
足元の埃がふわりと巻き、視界が一瞬だけ白く濁る。
その間に詰所兵が飛びついた。
一人が腰。
もう一人が肩。
男は半歩だけもがいたが、足首が流れたままでは踏ん張れない。
すぐに地面へ押し倒された。
路地に荒い息だけが残る。
倒れた三人。
盾を下ろさないバルド。
祈りを切らないサラ。
杖を地面へ向けたままのテオ。
そして石畳の上に転がった黒い板。
俺は板へ近づいた。
だが、手前で止まる。
補修灯の白い流れが、板の周りだけ細く削れていた。
触っていいものじゃない。
「直接は触らないでください」
俺は連絡役へ言った。
「灯りの流れに近すぎる」
「床から離せば、影響は少し下がるはずです」
「できます」
テオがすぐに動いた。
石畳の隙間から、板の下だけに土を持ち上げる。
薄い台座だった。
指二本ぶんほどの高さ。
板が地面から離れると、補修灯の揺れが少し戻る。
細くなっていた白い流れも、さっきよりはまっすぐになった。
『接地の影響が下がりました』
リラが告げる。
『完全停止ではありません』
『ですが、周辺の乱れは軽減しています』
サラも祈りを重ねた。
札を胸の前で押さえ、呼吸をひとつ整える。
白い膜のような祈りが、板の周りへ薄く広がった。
「漏れは抑えられます」
「でも、長くは持たせたくありません」
「早く運んだ方がいいです」
連絡役が青い顔でうなずく。
「研究棟へ回します」
「昨日と同じ扱いで」
「箱も手配します」
俺は押さえられた三人を見た。
棍棒を持った二人は、どう見ても末端だ。
だが、補修員の格好をした男は違う。
板を持っていた。
道を知っていた。
置く位置も、灯りの弱い角も知っていた。
ただの使いっ走りでも、流れの外にはいない。
この道のどこで待ち、どこで足止めし、どこへ板を置けばいいか。
そこまで知っているなら、もう一段奥の命令につながっている。
「二人をどこへ回した」
俺が聞くと、男は口を結んだまま目を逸らした。
バルドが肩を掴む。
「黙っててもいい」
「だが、道はもう見えてきてる」
その言葉の直後だった。
俺の視界の端で、リラの地図が一気に書き換わった。
西へ抜けるはずだった薄い線が、途中で折れる。
外じゃない。
内側だ。
『更新します』
リラの声が低くなる。
『今の板の位置と、昨日の記録を重ねました』
『西の搬入路は囮です』
『本線は途中で内側へ折れています』
頭の中で問い返す。
どこへ。
『王都中央寄りの補修路です』
『倉区画の奥から、古い地下導線に接続しています』
『二人分の記録欠落点』
『黒い板の搬入流れ』
『さきほどの使い走りの待ち位置』
『全部が一本につながりました』
「内側か」
テオが息を呑んだ。
「外へ逃がしたんじゃない」
「王都の中に抱え込んでいる」
「しかも、古い補修路なら灯りの根元に近いです」
サラの声も固くなる。
「守りを外しながら人を運べる」
バルドは押さえた男を見下ろしたまま言った。
「足止めに三人出したってことは、その先にもっと触られたくねえ物があるんだろ」
その通りだった。
使いっ走りを置く理由は一つだ。
時間稼ぎだ。
俺は、地図に重なった新しい線を見た。
倉区画。
裏の細道。
折れた補修路。
そして、その先。
王都の中心へ向かうはずの白い守りの流れが、一本だけ不自然に引きずられている。
誰かが、祈りの通り道そのものを奥で引っ張っている。
「連絡役」
俺は言った。
「この三人と板は研究棟へ」
「道中の守りを厚くしてください」
「俺たちは先へ行きます」
「危険です」
連絡役が言う。
「相手はもう動いています」
「だから今です」
俺は答えた。
「二人を探すだけじゃない」
「向こうが次に何を動かすか、その前に押さえます」
バルドが盾を構え直す。
「前は俺が取る」
「お前は見ろ」
「次の角からは、もう迷うなよ」
「分かってる」
俺はうなずいた。
テオは杖を持ち直した。
「地形は私が合わせます」
「危険帯が見えたら、すぐ言ってください」
サラも札を束ねる。
「守りは通します」
「だから、戻る道だけは切らないでください」
俺たちは路地を走り出した。
倉区画の奥へ。
西へ見せかけて、内側へ折れる古い補修路へ。
その途中で、俺はもう一度足を止めた。
地図の終点が、さっきまでの予想よりさらに奥へ伸びていたからだ。
王都の中心へ向かう祈りの白い流れが、最後の一点だけ、地下へ沈んでいた。




