第2章「男たちのディストピア」
鋼鉄の二重ゲートが地響きを立てて完全に噛み合った瞬間、外の世界のあらゆる音が真空に呑まれたように途絶えた。
冷え切った夜気の中に残されたのは、無数に群がるドローンのプロペラが立てる耳障りな超高周波と、遠くの廃墟街から風に乗って届く男たちの獣じみた怒号、そして重金属が骨肉を砕く鈍い打撃音だけだった。
夜空を昼間のように白く焼き焦がす無数の巨大サーチライトが照らし出すのは、崩壊した近代都市の成れの果てだった。
アスファルトは爆撃でも受けたかのように各所でめくれ上がり、ひび割れた隙間からは汚水が滲み出ている。頭上には、外壁が剥がれ落ちた雑居ビル群が朽ち果てた巨大な墓標のように連なり、窓ガラスの割れた暗がりからは無数の赤い吸殻の光がチリチリと瞬いていた。
壁という壁を埋め尽くしているのは、縄張りを主張する極彩色のスプレーアートと、乾いて赤黒く変色した夥しい血痕。路肩には放置された車の残骸が積み上げられ、至る所でドラム缶の炎が燻っている。
「おい、見ろよ……新入りが放り込まれてきやがったぞ」
「なんだあいつ? 泥まみれの作業着なんか着て……地方の百姓でも迷い込んできたのか?」
「馬鹿、上の電光掲示板をよく見ろ! “狂犬”だ……! 昔、東雲組で一人で一個小隊壊滅させたっていう、あの桐生陣だぞ!」
瓦礫の影、マンホールの縁、ビルの非常階段。闇に沈む至る所から、飢えた野良犬のようなぎらついた視線が一斉に陣へと突き刺さる。
そこにいるのは、例外なく全員が男だった。
全身に極彩色の刺青を彫り込んだ旧世代のヤクザ崩れ、顔面に無数のピアスを埋め込んだ若い半グレ、異様な筋量を誇る外国人マフィア、薬物で瞳孔が開ききった狂人。だが、彼らの濁った瞳の奥底には、共通してこびりついているものがあった。――底なしの退屈と、暴力への飢餓、そして他人の肉を喰らってでも生き延びようとする浅ましい執念だ。
風が吹き抜け、陣の足元に黒いススと紙屑が舞い散る。
陣の頭上わずか数十センチをかすめるように、手のひらサイズの漆黒のドローンが二機、獲物を品定めするようにホバリングした。
ドローンの底部に組み込まれた超小型プロジェクターが、陣の足元のアスファルトへ鮮烈な赤いホログラム文字を照射する。
『桐生陣/初期レート:生存確率 3.2倍』
『コメント:伝説の狂犬キターーー!/作業着のおっさんじゃねえか草/初日で首獲られて消えるに1000pt賭けたわ/昔の名前でどこまでやれるか見ものだな』
チャリン、チャリン、とコインが擦れ合うような軽快な電子音が、ドローンの内蔵スピーカーからけたたましく響き渡る。
これが、壁の向こう側の世界で消費されている「エンタメ」の正体だった。
安全なリビングで酒を煽りながらスマートフォンを眺める数百万、数千万のネット民が、指先一つで檻の中の男たちの命にオッズをつけ、死にゆく姿に喝采を叫んで投げ銭を投下しているのだ。国家が認めた、世界最大規模の公開闘技場。
「……反吐が出る」
陣は奥歯を噛み締め、低く濁った息を吐き捨てた。
胸ポケットのジッパーに指を滑らせ、ビニールに包まれた楓と彩葉の写真を確かめようとした、まさにその刹那だった。
「――伏せろッ、おっさん!!」
背後を切り裂く鋭い警告と同時に、空気を引き裂く凶悪な風切り音が後頭部に迫った。
考えるよりも早く、五年間泥にまみれてもなお骨の髄に刻み込まれていた修羅場の本能が、陣の巨体を沈み込ませていた。
頭上わずか数ミリを、太い鉄パイプが猛烈な唸りを上げて薙ぎ払っていく。
空を切った切先の突風が、陣の硬い短髪を激しく揺らした。
「チッ、勘のいい野郎だ!」
アスファルトを蹴って振り返った陣の視界に飛び込んできたのは、モヒカン頭に傷だらけのレザージャケットを羽織った、身長二メートル近い大男の姿だった。
男の両手には、コンクリートの塊と錆びた有刺鉄線が幾重にも巻きつけられた特注の鉄パイプが握られている。太い首筋には、荒々しい筆文字で『死』のタトゥーが刻まれていた。
「ギャハハハッ! おいおいおい、桐生さんよォ! 初日から大物が釣れたぜ! あんたの首をへし折って配信カメラの前に吊るし上げりゃあ、今夜は視聴者共からの投げ銭で、特上の合成ステーキと冷えたビールがたらふく胃袋に流し込めるんだよ! その古びた看板、俺のメシ代に変えさせてもらうぜぇッ!!」
大男の咆哮に呼応するように、上空で待機していた十機以上の撮影ドローンが一斉に高度を落とし、最適なアングルを奪い合うように陣たちの周囲を旋回し始めた。
廃ビルの壁面に埋め込まれた巨大な街頭スクリーン群がフラッシュし、陣の無骨な横顔と、獰猛な笑みを浮かべる大男の顔がスプリットスクリーンで大写しになる。
『ファースト・ブラッド発生か!?』
『モヒカンいけえええ! 叩き潰せ!』
『狂犬、避けただけで腰抜けてんじゃねえぞ!』
『開始5分で即死キル見せてくれ!』
嘲弄と欲望が入り混じった無数のチャットログが、赤や黄色のホログラムとなって夜の闇を乱舞する。
だが、その喧騒の真ん中に立つ陣の双眸は、どこまでも冷徹で、静まり返っていた。
相手の重心の位置、右肩の筋肉の収縮、踏み込む足裏の角度――。
かつて無数の刃を潜り抜けてきた極道としての視界には、男のすべてがスローモーションのように透けて見えていた。五年間の農作業のブランクなど、娘の命を奪おうとする者への怒りの前には塵芥に等しい。
「死ねやァッ!!」
大男が鉄パイプを両手で頭上高く振り上げ、全体重を乗せて振り下ろしてくる。
コンクリートをも粉砕する一撃。
だが、陣は動じない。パイプの切先が鼻腔をかすめる極限のタイミングまで引きつけ、半歩だけ右へ軸足をスライドさせた。
空振りを確信した大男の目が、見開き、驚愕に歪む。
その無防備な懐へ、陣の足が吸い込まれるように滑り込んだ。
長年の畑仕事で土を耕し、踏み固めてきた強靭な下半身が、アスファルトの地面を強烈にグリップする。
「――図体ばかりで、芯がない」
氷点下の声とともに、陣の右掌底が下から突き上げられ、大男の顎の先端を正確に捉えた。
ゴキリ、と鈍く重い骨の軋む音が響く。
脳を頭蓋骨の内側に叩きつけられた大男の視線が一瞬で宙を泳ぎ、巨体が棒立ちになった。
その隙を、陣は見逃さない。腰の回転を乗せた左フックが、大男の右脇腹――無防備なレバーへと深々とめり込んだ。内臓を破裂させんばかりの衝撃が、男の巨体を内側から揺さぶる。
「ガッ……ハッ……ゲボッ……!」
肺の空気をすべて吐き出し、大男の手から鉄パイプが転がり落ちた。
男は白目を剥き、まるで糸の切れた巨大な操り人形のように、顔面からアスファルトへ崩れ落ちた。ピクリとも動かない。
一呼吸、わずか二秒。無駄な動作を極限まで削ぎ落とした、絶対的な力の証明だった。
一瞬の静寂の後、頭上のドローンから耳をつんざくようなファンファーレが鳴り響いた。
『――勝者:桐生陣!』
『ファースト・ブラッドボーナス:+5,000pt!』
『鮮烈KOスパチャ殺到! 現在獲得:22,000pt!』
『ランキング急上昇:初登場48位!』
街頭モニターが派手な星のエフェクトを撒き散らし、遠巻きに見ていた凶悪な男たちが、息を呑んでジリジリと後ずさりしていく。
「マジかよ……ワンパンかよ……」
「触るな、あの野郎は本物の化け物だ……!」
陣は荒い呼気を一つ吐き出し、足元に倒れ伏す大男には目もくれず、拳についたわずかな血を自分の泥まみれの作業着で無造作に拭った。
「すげえな、おい。ブランクがあるって聞いてたから、もっと苦戦するかと思ってたけど……マジで伝説の“狂犬”そのまんまじゃんか」
瓦礫の山となった雑居ビルの影から、パチパチと乾いた拍手を鳴らしながら歩み出てくる若い男の姿があった。
二十代半ば。銀色のリングピアスを耳と唇にいくつも光らせ、首元にはオーバーサイズの黒いハイテクパーカー。両手には特区の支給品である小型の情報端末を、まるで体の一部のように器用に弄んでいる。
軽薄そうな口調とだらしない立ち居振る舞い。だが、その細められた切れ長の瞳の奥には、周囲の状況やドローンのカメラワークを冷静に分析し切る、異常なまでのクレバーさが光っていた。
「……何者だ」
陣が重心を落とし、冷たい視線で射抜く。男は慌てて両手をひらひらと振って見せた。
「おっと、待ってくれよ! さっき最初に『伏せろ』って教えてやった命の恩人に、その殺気はねえだろ? 俺はカイ。見ての通り、このクソッタレなテーマパークでなんとか頭使って生き残ってる、しがない半グレだよ」
カイは懐から電子タバコを取り出し、親指でスイッチを入れて紫煙を燻らせた。
甘ったるいケミカルな香りが、饐えた血の匂いと混ざり合って鼻を突く。
カイは倒れている大男の脇腹をスニーカーの爪先で小突いた。
「こいつはハイエナのトモ。新入りの有名人を奇襲して、初狩りのスパチャを稼ぐのが手口だったんだけど……完全に相手を間違えたね。あんた、さっきの一撃だけで二万ポイント以上かっさらったぜ。ここじゃあ、そのポイントがパンにも水にもなるし、傷薬や武器の配給チケットにも化ける。まさに命の残高ってわけだ」
「ポイントなどどうでもいい」
陣は吐き捨てるように言い放ち、一歩、カイの間合いへ踏み込んだ。
作業着越しにも伝わる圧倒的な威圧感に、カイの息が一瞬止まる。
「ここから出る方法を教えろ」
カイは煙を吐き出しながら、目を見張り、それから吹き出すように喉を鳴らした。
「出る方法? ……ハハッ、冗談だろ、おっさん! ここは『ヤクザ特区』だぜ? 外周は高さ二十メートルの強化コンクリート防壁、上空は電磁バリアで覆われ、壁の上の監視タレットには自動追尾の重機関銃が装填されてる。一度ぶち込まれたら、骨になって焼却炉に送られるまで、カメラの前で殺し合いを見世物にするのがこの檻の絶対ルールだ。脱出なんて言葉、口にしただけで運営ドローンに目をつけられて、ペナルティで賞金首にされるのがオチだぜ」
「出なきゃならんのだ」
陣の低く絞り出すような声が、夜の重気を切り裂いた。
その瞳に宿る光は、狂気でも絶望でもなかった。ただ一点、己の命すべてを賭けて果たすべき目的を見据えた、刃のような覚悟だった。
「俺には……外に、娘がいる。俺をハメた奴らに、あの母娘が狙われているんだ。ここで野垂れ死んでいる暇など、一秒たりともない」
カイはくわえていた煙草の煙を止め、陣の顔をじっと見つめた。
特区に送られてくる連中は、誰もが金、保身、あるいは暴力の快楽のために動く下劣な捕食者ばかりだ。だが、目の前に立つこの大男の瞳には、一切の濁りがなかった。泥まみれの服の胸元を、まるで宝物でも守るかのようにかばう仕草。
カイはふっと口元を緩め、電子タバコをポケットに仕舞った。
「……娘、ね。あんたみたいな伝説の極道が、そんな湿っぽい顔するんだな」
カイは頭上を旋回するドローンの群れをちらりと見上げ、顎をしゃくった。
「立ち話はここまでだ。血の匂いに釣られて、次はもっとタチの悪い連中が集まってくる。……ついてきなよ、おっさん。あんたが本気で、死ぬ気でここから生きて出たいって言うなら――表向きの法律の裏側に隠された、前人未到の『公式脱出ルール』を教えてやるよ」
カイは身軽に向きを変え、崩落した廃ビルの地下へと続く、闇の深い階段へと足を踏み出した。
陣は胸ポケットの写真をそっと指先で確かめ、迷うことなくその背中を追った。
全世界の悪意が注ぎ込まれる巨大な檻の底で、生還への針路が、静かに刻まれ始めていた。




