第1章「冤罪と檻」
土の匂いは、血の匂いを忘れさせてくれるはずだった。
夜明け前のビニールハウスに、小気味よい鋏の音が規則正しく響く。桐生陣の手は、かつて日本刀の柄や重厚な拳銃を握り潰すように握っていた頃と同じ無骨さを保ちながらも、いまは瑞々しく張ったトマトの細い蔓を傷つけぬよう、息を殺して繊細に動いていた。爪の間には、洗い落とせない土の色が深く染み込んでいる。
五年前、盃を返し、背中の昇り龍を自ら焼き潰す勢いで極道の世界から足を洗った。ヤクザを辞めるというのは、過去の罪を清算して無罪放免になることではない。背負い続け、贖い続け、世間の片隅で息を潜めて生きることだ。
暴力団離脱者の受け入れを掲げるこの地方の小さなアグリスタートアップに拾われたとき、社長は言った。「過去は問わねえ。だが、嘘をついたら一発で追い出す」。
毎朝四時に起き、泥と堆肥にまみれて土を耕す。手渡される日当は決して高くはなかったが、陣にとっては人生で初めて手にした「他人の血も涙も吸っていない、真っ当な金」だった。
作業着の胸ポケットのジッパーには、汗で濡れぬようビニールで二重に包んだ一枚の写真が収まっている。
元恋人の楓と、今年で七歳になる一人娘の彩葉。
組を抜ける際、二人に抗争の火の粉が降りかかるのを避けるため、籍を入れることは許されなかった。陣はただ姿を消し、遠く離れたこの寒村に身を潜めた。許された繋がりは、代理人の弁護士を通して月に一度送る養育費と、年に一度の誕生日に交わす数分間の電話だけだ。
『お父さん、おくってくれたトマト、すごくあまかったよ。またたべたいな』
先月、弁護士の封筒に同封されていた、拙いひらがなで書かれた彩葉の手紙。文字をなぞるだけで、凍てついていた陣の胸の奥に確かな温もりが宿った。
日の当たる場所を歩けなくてもいい。抱きしめてやることも、父親だと名乗ることもできなくていい。あの二人がどこかの街で、怯えることなく笑って暮らせているのなら、泥水をすすって野垂れ死んだところで悔いなどなかった。
そのささやかな静寂を、砂利を撒き散らすけたたましいスキール音が切り裂いた。
ハウスの外に、見覚えのない黒塗りの大型ワンボックスカーが横付けされる。深くスモークの貼られたスライドドアが勢いよく開き、降りてきたのは作業着でも、昔ながらのヤクザの背広でもなかった。
蛍光色をあしらったハイブランドのジャージ、分厚いソールの限定スニーカー。首元には無機質なタトゥーを覗かせ、手には最新型のスマートフォンを構えた二十代前半の若い男たち。彼らは無遠慮にレンズを陣へ向け、まるで珍獣でも見つけたかのように薄笑いを浮かべていた。
「おいおいマジかよ。本当にこんな肥溜めみたいなとこで百姓やってんのか。“狂犬”と恐れられた元・東雲組若頭補佐、桐生陣さんがよォ」
嘲笑を帯びた声の主は、車の後部座席から最後に優雅な足取りで降りてきた。
プラチナブロンドの髪を無造作に遊ばせ、底知れぬ冷淡さと退屈さを宿した切れ長の瞳。|匿名・流動型犯罪グループ《トクリュウ》の頂点に君臨する男、流星だった。顔の半分を覆うスマートグラスの奥で、微弱なインジケーターが点滅している。
「何の用だ」
陣は剪定鋏を静かに作業台へ置き、低く濁った声で返した。肺の奥に吸い込んだ朝の冷気が、かつての戦場の空気を思い出させて全身の毛穴を粟立たせる。
「用? 挨拶だよ、先輩。あんたが昔シマにしてた港湾の倉庫街、あれさ、うちのグループの管理下に入ったんだよね。んで、あんたの古い筋の残党どもが『ここは桐生さんの縄張りだ』ってグチグチうるさいわけ。だからさ、桐生さんの口から一本電話入れて、大人しく従うように言ってほしいんだよね」
「俺は五年前に足を洗った。ヤクザの看板も、利権も、何もかも捨てた。今の俺には関係のない話だ。敷地から出ろ」
「つれねえなァ。昔の看板で飯食ってた人間が、泥いじり始めたからって急に聖人君子ぶるなよ」
流星は吐き捨てるように笑うと、胸ポケットから真新しいスマートフォンを取り出し、乾いた黒土の上に無造作に放り投げた。
泥にまみれた端末の画面で、ある映像がループ再生されている。
陣の視線が、釘付けになり、次の瞬間に凍りついた。
地方都市の閑静な通学路。黄色い通学帽をかぶり、ランドセルを揺らしながら友達と笑い合って歩く少女――彩葉だった。至近距離の路肩に停まった軽自動車の車内から盗撮されている。そしてカメラがわずかにパンした先には、助手席のダッシュボードの上に置かれた、鞘を抜かれたアイスピックが映し出されていた。
「お前……ッ!」
陣の喉から、内臓を削るような唸り声が漏れた。足元の土が抉れる。瞬時に間合いを詰め、流星の頸椎をへし折るための獣の初動。
だが、流星は身じろぎ一つせず、手元の端末の画面を優雅にタップした。
「動くなよ、おっさん。これ、リアルタイム配信。俺の指がこのボタンから離れたら、あの軽自動車が急発進して、その可愛いお嬢ちゃんの背中を跳ね飛ばす手筈になってる。……あ、そうそう、楓さんだっけ? 調剤薬局で事務やってる母親の方も、うちの『闇バイト』の受け子がすぐ隣のベンチで待機中だぜ。健気だよなあ、人殺しの過去がある男の帰りを、名前も変えずに待っててさ」
「貴様……ッ!」
陣の拳がギリギリと軋み、皮膚を突き破った爪から手のひらに血が滲み出た。
暴力でねじ伏せることはできない。かつてのヤクザ社会にあった「女子供には手を出さない」という仁義も、組織の掟も、この連中には一切通じない。彼らは顔も名も持たず、ただ金と欲望のアルゴリズムだけで動く、冷酷な現代の捕食者たちだった。
「……何が望みだ」
陣は血の味のする唾を飲み込み、絞り出すように問うた。
「簡単な仕事だよ。トクリュウ対策法の網をかいくぐるための、ただの『名義貸し』と『ブツの回収』。この泥まみれのスマホをポケットに入れて、そこに届く指示通りに駅のコインロッカーから荷物を一つ取ってきてくれ。それだけでいい。そうすりゃ、あの母娘には二度と手を出さないと約束してやるよ」
「……嘘をついたら、貴様がどこへ隠れようと地獄の底まで追って首を刈るぞ」
「ハハッ、怖いねえ。約束は守るよ、ビジネスだからね」
流星は嘲笑を残し、ワンボックスカーへと戻っていった。排気ガスの煙を残して車が走り去った後、陣の手には泥にまみれたスマートフォンだけが重く残されていた。
――罠だ。
頭の芯では、火を見るより明らかに理解していた。だが、娘の命が人質に取られている以上、選択肢など存在しなかった。陣は作業着のまま、泥を落とす間もなく指示された地方都市のターミナル駅へと向かった。
薄暗い地下連絡通路。湿ったコンクリートの壁に沿って並ぶ無機質なコインロッカー。
スマホの画面に表示されたロッカー番号『B-42』の前に立ち、指定された暗証番号を打ち込む。
カチャリと重い解錠音が響き、扉を開けた。
そこにあったのは、ずっしりとした重みを持つ黒いアタッシュケースが一つ。
陣がその取っ手に指をかけた、まさにその瞬間だった。
『対象を確認! 突入、突入ッ!』
鼓膜を破るような怒号とともに、通路の前後、さらには天井の点検口から、黒塗りの防弾ベストとバイザー付きのヘルメットで全身を固めた異様な武装集団が雪崩を打って現れた。
所轄の警察官ではない。胸元に光るエンブレム――内閣府直属の超法規執行機関「特区治安維持隊」の隊員たちだった。
「桐生陣! 組織犯罪処罰法およびトクリュウ特別規制法違反の現行犯で拘束する!」
「待て! 俺は罠にハメられた! ケースの中身など知らない!」
「ケース内には特殊詐欺グループの回収資金五千万円、およびマネーロンダリング用の暗号資産コールドウォレットを確認! さらに貴様の所持端末から、トクリュウ中枢サーバーへのリアルタイム通信ログを現認した!」
頭上を見上げると、通路の天井付近で、赤と青のLEDを禍々しく点滅させた数台の小型ドローンがピタリと静止していた。
その無機質なカメラレンズの向こうで、流星がモニター越しに冷たく嗤っているのが見えた気がした。
アタッシュケースの中身など、最初から何でもよかったのだ。
流星の本当の狙いは、かつての伝説的な武闘派・桐生陣に「現役のトクリュウ幹部」という決定的な濡れ衣を着せ、合法的に社会から抹殺すること。邪魔な旧世代の巨頭を排除し、その背後に眠る利権をそっくり奪い取ることだったのだ。
「俺は五年前に足を洗った! 証拠は全部偽造されたものだ!」
陣の叫びは、冷徹な隊員たちの耳には届かなかった。
背後から放たれたテーザーガンの電極が背中に突き刺さり、数万ボルトの電流が全身の神経を焼き尽くす。視界が真っ白に弾け飛んだ。
膝から崩れ落ち、アスファルトの冷たい床に顔面を叩きつけられる。二人がかりで腕をねじり上げられ、冷たいチタン製の手錠が肉に食い込んだ。
意識が急速に混濁する中、隊長の機械的な肉声が、逃れ得ぬ死刑宣告のように耳朶を打った。
「被疑者・桐生陣。弁護人の選任権および通常裁判の請求権は、特別法第三条に基づき即時停止。これより、第七指定隔離区域への強制収容を執行する」
ヤクザ特区。
その名が脳裏をよぎった瞬間、陣の全身から温もりが失われた。
一度足を踏み入れれば、二度と生きては出られない巨大な檻。
法も人権も存在せず、世界中のネット民の好奇の目に晒されながら、男たちが互いの肉を食らい合って数を減らしていく、現代の巨大な流刑地。
「楓……彩葉……」
二人の名を呼ぼうとした口は、荒々しく被せられた黒い遮光フードによって塞がれた。
暗闇の中、装甲車の硬い床に転がされ、不気味なエンジンの重低音と振動が骨を揺らす。
手錠の鎖が擦れる音だけが響く中、陣はフードの中で奥歯を噛み締めていた。
(死ねるか。こんな理不尽な汚名を着せられたまま、あいつらにあの街を奪われてたまるか……)
何としても生き延びて、あの檻から這い出さなければならない。家族を守るために、あの流星という男をこの手で地獄へ引きずり落とすまでは。
車が止まり、プシューという油圧の解放音とともに重厚なハッチが開いた。
フードが乱暴に引き剥がされる。
強烈な光の奔流に、陣は思わず目を細めた。
視界に飛び込んできたのは、夜空を昼間のように白く焼き焦がす無数の巨大サーチライト。そして、天を突くようにそびえ立つ、高さ二十メートルを超える灰色のコンクリート防壁だった。壁の頂部には幾重にも張り巡らされた高圧電流フェンスと、侵入者を感知する赤外線センサーが不気味に瞬いている。
『――ゲート・オープン。新規収容体、識別番号K-0914、入場』
地響きのような警報音とともに、巨大な鋼鉄の二重ゲートが鈍い音を立てて横にスライドしていく。
その瞬間、空気が変わった。
鼻を突くのは、焦げたゴムとオイル、そして乾いた血の饐えた匂い。
頭上では、鳥の群れのように無数の監視ドローンが飛び交い、赤い撮影ランプを一斉に陣の全身へと向けていた。
フェンスに埋め込まれた巨大な街頭モニター群が一斉に発光し、おどろおどろしいテロップと大音量のシンセサイザー音が鳴り響く。
『――緊急生配信! 今夜の目玉、伝説の“狂犬”桐生陣が強制配属! オッズはすでに大荒れだァッ!!』
背中を電磁警棒で強く小突かれ、陣はつんのめるようにして特区の冷たい大地へと足を踏み入れた。
背後で、退路を断つ鋼鉄のゲートが、二度と開かぬ重みをもって轟音とともに閉ざされる。
胸ポケットに忍ばせた二人の写真だけが、陣の荒い鼓動に合わせて冷たく脈打っていた。




