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短編作品

訳あり転生令嬢は期限付き契約結婚のはずですが、なぜか執着されています

作者: 猫葉みよう

ボリュームのある短編になってしまったのですが、ご覧いただけるとうれしいです。

 目が覚めると、使い込まれた古い木製の机に突っ伏していた。


 連日にわたる激務を終え帰宅した深夜、一人暮らしのマンションの玄関で意識を失って倒れたはずだった。


 ゆっくりと顔を上げると、木の板が打ちつけられただけの隙間風が入る寂れた小屋、朝日が注ぐ窓ガラスは薄汚れてヒビが入っている。その窓ガラスの向こう、立ち並ぶ木々の隙間からは屋敷のような邸宅が見えた。


 立ち上がり、小屋の内壁にかかっているくぐもった鏡を覗き込めば、見覚えのない痩せぎすで不健康そうな少女の姿がある。


 どうやら自分は、どこかの世界に転生したらしい──。


 この体の持ち主の少女が突っ伏していた机の上には、ガラスの小瓶や秤、何かをすり潰すための道具など、何かしらの作業をしていたようないくつもの道具が所狭しと置かれている。


 その道具に埋もれないよう広げてあったのは、一冊のくたびれた日記帳。


 日記帳には日々の作業の詳細を書き記すとともに、自身が置かれている不遇に嘆く痛々しい気持ちも残されていた。


 ページの右半分、下側の空白部分には、乱れた筆跡で力尽きるように『ああ、もうだめかも──……』とあり、日記帳の脇にはあきらかにそれを書き記していたであろう状態のペンがただ静かに転がっている。


(……ああ、そうか)


 心の中でつぶやく。可哀想なこの少女は命を落としたのだと悟る。


 そして彼女が亡くなったと同時に、自分の魂が入り込んだのか、それとも引き寄せられたのか──。


 名前も知らない少女の最期を思うと、ぐっと胸が詰まる。


 そのとき、小屋の戸を乱暴に叩く音が響き渡った。


 ハッとして振り返ると、返事も待たずに戸が勢いよく開かれる。そこには中年と呼ぶにはまだ少し若い、身なりのよい男女の姿があった。


「──おい、ルース! 今日の分はできてるのか!」

 ややでっぷりとした男がまくし立てるように怒鳴り、

「ちょっと商人が取りに来たわよ、ルース! 早くしなさいな、本当にのろまなんだから!」

 続いて、女が耳障りな甲高い声をあげる。


 ”ルース”というのが、この少女の名前らしい。


 とすると、年齢的にこの目の前の男女はルースの両親だろうか。日記帳には、彼女が両親によって日常的に虐げられていたことも書かれていた。


 両親と思われる夫婦は、娘であるはずのルースに対して口汚く罵声を浴びせる。


 ひとしきり言い終わると、父親はズカズカと小屋の中に入ってきて、窓の前にあるテーブルの上に置かれた木箱をひったくるように持ち上げる。


 木箱の中にはいくつかの小瓶がおさめられていて、小瓶の中には黄色や水色、薄紫、鮮やかな緑などの色とりどりの液体が入っているのが見える。


「明日の分もちゃんと作っておくんだぞ!」

 父親が吐き捨てるように言う。母親は父親のあとに続いて立ち去ろうとするが、ふと足を止めて肩越しに振り返り、

「ああ、それとルース。明日の午後、お客さまがお見えなの。客間を念入りに掃除しておいてちょうだい。あとお客様にお出しするお菓子も必要だから、隣街まで行って高級洋菓子店の限定ブラシェ・ショコラも買ってきておくのよ、いいこと?」


 嵐のような両親が去っていくと、机の前にある椅子に倒れ込むように腰を下ろす。


 手のひらを見つめ、何度か握ったり開いたりする。当然のように、自分の意思に応じて体が反応する。


 転生したらしい、とは思うものの、あまりにも突然で頭が追いつかない……。


 でもひとつ言えることは、あの親とも呼べない夫婦の言うとおりにして無理をし続けた結果、この体の前の持ち主、ルースという名の少女は命を落としたのだ。そしてまた、今のルースもこの状況をこのまま受け入れてしまえば、いずれ同じことが起きるのは容易に想像できた。





 そこで今のルースは、まずは残された日記帳を最初から読むことにした。


 少女の名前は、ルース・アクトン。先月誕生日を迎えたばかりの十六歳、アクトン男爵家のひとり娘。


 そしてやはりあの横柄な態度の夫婦は、ルースの両親に間違いないようだった。


 アクトン男爵家は先代がひと財産を築いて爵位を得たものの、あの傍若無人の父親と母親が散財、さらに事業や投資にも立て続けに失敗し、家計は火の車らしい。


 しかし娘のルースが貴重な治癒力をもっていたため、彼女が作る治癒効果のあるポーションの売上げのおかげでかろうじて家門を維持できている状況だった。それなのに両親は節約し、借金を返して男爵家を立て直すどころか、反省もしていない。まだ両親の庇護が必要な若い彼女ひとりを、屋敷敷地内の隅にある粗末な小屋に追いやって、馬車馬のごとく働かせている。


 ルースは治癒力があるはずなのに、そもそもどうして命を落としてしまったのか。それはやはり過労のせいだと思われた。


(それもわたしと同じなんて……)


 世界は違えど、死んだ原因まで自分と同じとは皮肉なものだと感じる。そのうえ、両親の愛情に恵まれていなかったことも……。


 治癒力のあるポーションを飲んでも、病気ではないのだから栄養ドリンクにしかならない。いっときはそれで乗り切れても、きちんとした食事と睡眠がとれないままでは疲労は蓄積していく一方だ。そしてそれは体と精神をも蝕む。


 前世の自分は通勤の合間や寝る前などに、激務に追われる現実から逃避したくてウェブ小説をよく読んでいた。


 この世界も、おそらく読み漁った小説の中のひと作品だと思うが、タイトルやストーリーなどの記憶はあいまいで、頼りになる情報はまったく思い出せそうもない。


(少しでも思い出せることがあれば、役に立ったんだけど……)


 ただ日記帳を読むかぎり、しがない男爵令嬢のルース・アクトンは物語のヒロインでも悪役令嬢でも、絶妙なアシストをする友人枠でもなさそうだ。おそらく物語には出てこない、名もなき人物のひとり。でもだからと言って、なかったもののように扱われ、また命を落としてしまっていいわけがない。


「よし! 思い出せないなら仕方ない!」


 今のルースとして生きるために、この劣悪な境遇を改善するところから始めることにした。





   ◇ ◇ ◇





「それをすると治癒ポーション作りが滞りますけど、いいんですか? わたしは別に問題ないのですが……。では明日来る商人にもう一日待ってもらえるように伝えておいてください。あの商人は納期には厳しいですから、値段を下げろとか難癖をつけられなければいいですけどね。え、それは困る? だったら家事はメイドに頼んでください」


 この世界でも、まだ若い少女ひとりが家を出て、すぐに住む場所と仕事を見つけて生活できるほど現実は甘くない。


 ひとまず数日間はあの男爵夫婦の言うことを適度に聞きつつ、状況を見極めることにする。


 そしてタイミングを見計らって、攻勢に出ることにした。


 前のルースは言われるがまま家事なども行っていたようだが、とてもではないが治癒ポーション作りと家事を両立させることは無理だ。それこそ睡眠時間を削らないことには。


 だから今のルースは、はっきりと言ってやったのだ。


「わたし、このままでは倒れて死んでしまいそうです。ああ、そうなったら、お父さま、お母さま。お金は自分たちで稼いでくださいね」


 使い勝手のいい金を生む道具だと思っているルースがいなくなれば困るだろうと誘導し、週に一日休むこともなんとか認めさせた。


 人が変わったように強気に出るルースに、男爵夫婦は憤慨し、生意気だと怒鳴りつけた。


 しかし今のルースはただ聞き流すだけ。それでも手を上げられるときだけは恐怖心が表に出てしまいそうになるが、弱さにつけ込まれないよう必死で虚勢を張って乗り切った。ぶたれて傷を負っても、自分の治癒ポーションで治した。





   ◇ ◇ ◇





 そうして一か月もすれば、ルースを取り巻いている状況はだいたい把握することができた。


 どうやらルースが作った治癒ポーションは屋敷を訪れる馴染みの商人に渡し、国から許可された正規ルートで商人が販売、売った分から一般的に取り決められている手数料を引いた残りを、男爵に渡しているようだった。


 しかしそれは表向きの話。商人はルースが作った治癒ポーションを裏で高値をつけて横流ししていた。ルースのものは市場に出回っているものより格段に効果が高いらしく、高額でも買い求める客は多いのだという。中には名の知れた薬商までもが買い取って、自分のところで作ったものとして何食わぬ顔で販売している例もあるようだ。


 それなのに商人は低い金額でしか売れなかったことにし、さらに効果が薄いために数多く売らないともとが取れないと嘘をつき、納品するポーションの数を一本でも増やそうと男爵をそそのかしていた。


 間抜けな男爵は商人の思惑に気づかないまま、作り手のルースだけを叱咤してもっと作れと脅し続けていたのだ。


 あきらかな搾取。


 その事実を把握したあと、ルースは治癒ポーションの小瓶に細工をすることにした。


 ほかのものと区別できるようにするため、瓶の裏にこっそり小さなラベルをつけたのだ。そしてラベルの裏にはベタベタする薬品をつけ、簡単に剥がれないように対策した。剥がそうとしてもラベルのカスが残るだろう。


 どこにでもある小瓶だけでは見分けがつかないが、瓶の裏を見ればルースが作ったものかどうかがわかる。


 効果が高いものを求める人はいるはずだし、もしかしたらラベルに気づくかもしれない。


 今はルースが作ったものだと公に証明することはできないけれど、いずれ男爵家を出たあとで何かしらの役にも立つはずだ。


 そしてルースは時折隣街まで出かけ、男爵夫婦にはばれないようにこっそりと自分の治癒ポーションを売った。一般的な値段ではあるが、それでも貴重なもののため十分なお金になる。そのお金を少しずつ貯めていった。





   ◇ ◇ ◇





「ルース、いいか喜ぶんだ。お前の結婚が決まったぞ! 今すぐ支度をするんだ、迎えが来ている!」


 その日の昼前、突然男爵が小屋に来たかと思えば、嬉々としてルースに言い放った。


 ルースがお金を貯めるようになって半年ほど経ったころ、ある程度のお金が貯まり、そろそろこの家を出る計画を練ろうと考えていた矢先のことだった。


 ルースは驚いて声もあげられなかった。作りかけの治癒ポーションがタラリと机の上に垂れる。呆然としていると、男爵の後ろから男爵夫人も姿を見せる。


「よかったわね、ルース。素晴らしいお相手よ」


 母親が娘の縁談を喜ぶような笑みを浮かべているが、そんなことあり得るわけがない。


 この夫婦のことだ、娘のルースに無理な縁談を強要してくる可能性については考えていたが、それでもルースにしかできない治癒ポーション作りのこともあって、貴重な金を生む道具である自分をすんなり嫁に出すとは思っていなかった。まさかこんな突然話が進むなんて。


 どうやらルースの知らない間に縁談話が舞い込んでいたうえに、拒否権を与えないため今日まで黙っていたようだ。


「ほら、早くするんだ!」

「もうあなたに会えなくなるなんて悲しいわ。あちらでもしっかりやるのよ」


 ルースは怒りで我を忘れそうになるのを必死でこらえ、ひとまず準備するからと男爵夫婦を小屋から追い出す。急いで日記帳や治癒ポーション作りで使う道具、書き付けの紙の束、数枚の衣類、そして貯めた全財産をカバンに詰め込んだ。


 小屋を出た直後、隙を見て逃げ出そうとしたが無駄な抵抗だった。追い立てられるように、屋敷の外に待機していた豪奢な馬車にひとり無理やり乗せられる。


 男爵夫婦が御者に声をかけ、すぐさま発車させる。馬車はただの出迎えのようで、中には誰も乗っていなかった。


 ほっとする間もなく、あっという間に馬車は速度を上げる。


 御者に止まるよう大きな声で訴えても聞き入れてもらえない。飛び降りるわけにもいかず、ルースはカバンをぎゅっと抱きしめ、現実逃避しそうになりながらもどうするか考えていた。





 そうして日が暮れるころになって、ようやく到着した先は広大な敷地に立つ一際大きな屋敷だった。


 家令だと言う中年の男性に案内されて通されたのは、執務室らしき広々とした部屋。


 中には、体格のよいひとりの初老の男性が堂々としたたたずまいで立っていた。きれいに整えられた口元とあごのひげがさらに威厳を感じさせる。


 男性は、ラドウィンター侯爵家の当主だと名乗った。


 ルースの男爵家からすれば、関わることもないかなり格上の相手だ。


 あの男爵夫婦のことだ、金欲しさに親よりも年の離れたどこぞの金持ち老人の後妻や狂った変人のもとにルースを送り出すのではと疑っていたのだが……。


 侯爵の見た目の年齢から察するに、もしかして前者だろうか。自分が置かれた状況を判断するため、恐る恐る侯爵をうかがい見る。


「──迎えに行った御者から報告を受けたのだが、きみはアクトン男爵夫婦から何も知らされていないのか?」


 かけられた言葉は意外なものだった。


 侯爵は眉間にしわを寄せ、呆れ返っているようにも見える。


 ルースはハッとしたあとで、戸惑いながらも小さく頷く。


「はあ、何か行き違いがあったようだ。事前に承諾を得ているものだと思ったのだが……。まあ、かけたまえ」


 侯爵はルースが両親である男爵夫婦から何も聞かされていないことを理解したのだろう。強面ではあるが、たかだか男爵家の小娘にすぎない自分に対しても、血のつながった両親よりもよほど丁寧に接してくれる態度に内心ほっとする。いきなり暴力を振るわれるような、ひどい扱いはされなさそうだ。


 侯爵はルースがソファに座るのを待って、自身もその向かい側にゆっくりと腰を下ろす。


「まず、誤解のないように言っておこう。きみが結婚する相手は、わしの孫息子のエリオットだ」


 ルースよりもふたつ年下、十四歳の男の子らしい。


 侯爵の後妻ではないとわかってルースはひとまず安堵するが、なおさら疑問が湧く。


 侯爵家ともなればよほどの理由がないかぎり、下位貴族の男爵家から嫁を迎えるはずはない。ましてやルースの家は借金まみれで、男爵夫婦はあのとおり金の亡者だ。縁付きになっていいことなどひとつもない、むしろ害しかないだろう。


(なんで……?)


 ルースの疑問を感じたのだろう、侯爵はおもむろに部屋の隅に控えていた家令をそばに呼び寄せる。


「そうだな、まだ何も聞いていないのなら、先にきみに訊いておきたいことがある」


 侯爵はそう言いながら家令の手から何かを受け取ると、それをテーブルの上に置いた。


「この治癒ポーションを作ったのは、きみか?」





   ◇ ◇ ◇





「あ、エリオットさま、おはようございます」


 ちょうど廊下で、侯爵の孫にあたる小侯爵のエリオットとすれ違ったので、ルースは愛想よくあいさつする。


 しかしエリオットはふいっと顔を背け、何も言わずスタスタと行ってしまう。


 彼の場合、目鼻立ちが整っている分、真顔だとより一層冷たい印象になる。


(まあ、そうなるよね……。いきなり見知らぬ年上の女が来て、あなたと結婚しました、一緒に住みます、って言われても困るよね)


 エリオットはまだ十四歳、相手のルースは十六歳、結婚と言われても現実味がないだろう。今のルースの場合、前世で重ねた年齢もあるが恋人もいなかったこともあり、結婚を意識したことすらなかった。盛大な結婚式を挙げたわけでもなく、ただ結婚の書類を届け出ただけの関係、自分だって実感するのは難しい。


 心の中でエリオットに同情しつつ、彼の成長途中の小さな背中を見送る。


 あの日突然、結婚が決まったと男爵夫婦から言われたと同時に、このラドウィンター侯爵邸にルースが連れて来られてから、半月ほどが経過していた。


 今のところ、ルースはエリオットと会話らしい会話をしたことがないし、さっきみたいに彼はあきらかにルースを拒絶している。


 でもルースは悲観していない。エリオットのことは気になるが焦っても仕方ない、そのうち仲良くなれるだろう。


 そういえば先ほど彼の背中に、小さな白い花がついていたように見えた。フォスターなら侯爵邸の広大な庭園の先にある、高い塀の周辺にしか植えられていないはずだが。でもそんなところに彼が用があるとも思えず、すぐにそのことは忘れた。


(それよりも……)


 ルースは歩みを早め、目的の部屋へと向かう。


 ドアを小さくノックする。しばらく待っても返事はない。しかし許可を得ているルースは、慣れた様子で部屋に入る。


 部屋の中には控え目ながらもひと目で上等だとわかる家具や調度品が置かれ、カーテンやソファの生地は小花柄、クッションには見事な刺繍が施され、部屋のあちこちには瑞々しい花が活けられている。淡い色調の柔らかい雰囲気のある部屋だ。


 奥にある寝室に入ると、

「──今日のお加減はいかがですか?」

 薄い紗が垂れ下がる天蓋ベッドに近づき、声をかける。


 そっと紗をめくると、ベッドの上ではこの部屋の主が深い眠りについているのが見える。


 侯爵と同じくらいの年齢の女性、侯爵夫人だ。エリオットの祖母になる。


「失礼しますね」


 ルースはそう言って、シーツの上に置かれたそのか細い腕を取り、角度を変えながら確認する。そのあとで首元にも手を伸ばし、肌の表面にそっと触れる。


 寝巻き姿の侯爵夫人の手の甲や腕、首には、不自然なほどに黒い斑点が浮き出ている。


 昏黒斑(ヴルバ)病だ。


 その昔、異教徒の移民の間で流行した病らしく、今でも治療法がない不治の病とされている。罹患すれば黒い斑点が肌に現れ、斑点が増えるにつれて眠る時間も増えるのだ。そして斑点が全身を覆うころにはそれまでとは異なり、一睡もできないほどの苦痛に襲われ、そのまま息を引き取ると言われている。


 今では国内における昏黒斑病の広がりは収束しているものの、ごくまれに発症する人もいるらしい。しかし、この国では異教徒がかかるものとして忌避されているため、病にかかった者がいる家門は差別される傾向にある。だからこそ、その事実をみな隠したがる。


 この病がどういった経緯で発症するのかはわかっていないが、接触や飛沫によって感染する類ではないらしいと言われている。とはいえ、見た目の気味悪さと治療法がないことから、医師でさえも診療を拒否する者もいると聞く。


 ルースがエリオットと結婚し、この屋敷に滞在している理由、それこそまさに侯爵夫人が昏黒斑病にかかっているからだった。





「この治癒ポーションを作ったのは、きみか?」


 ルースが侯爵邸に連れてこられたあの日、侯爵はそうルースに尋ねた。


 差し出された小瓶の裏を見ると、見覚えのあるラベルが貼ってあった。ラベルは誰かが剥がそうとしたのか半分だけ残っている状態だったが、ルースが作ったものだと判別できた。


 そして自分がこの侯爵邸に連れてこられた理由をぼんやりと予想する。


 ルースは小瓶をテーブルに戻すと、足元に置いていた自分のくたびれたカバンを開き、中から同じラベルが貼ってある小瓶を取り出して侯爵に差し出す。ラベルを貼っている理由については、知らないところで横流しされるので区別できるようにつけたのだと説明する。さらに昨夜作り終えたばかりのものもカバンから取り出して渡した。


 侯爵は真偽を確かめるように、じっと小瓶を見つめていたが、

「なるほど、同じものに見える」

「あの……、では結婚というのも、わたしを連れ出すための方便だったんでしょうか?」

 ルースは恐る恐る尋ねる。もう少し別のやり方もあっただろうにと思ったが、口に出すのは控えておく。あの男爵夫婦に、見るからに裕福そうな侯爵がルースの治癒ポーションを欲していることを知られれば、弱みを握ったとばかりにとんでもない額をふっかけられるだろうことはすぐに想像できた。


「いや、それは本当だ。きみは孫のエリオットと結婚し、この屋敷に住んでもらう。ただし、ほかにも条件がある」


 侯爵はそう言って立ち上がると、ルースをある部屋へと案内した。


 そうして案内された部屋にいたのが、昏黒斑病にかかっている侯爵夫人だった。


 夫人は厚いクッションを背にして、ベッドの上でかろうじて上半身を起こしていた。目は開いているが、眠りそうになるのをこらえているのか苦しげだ。


 侯爵は気遣うように夫人の手を取ったあとで、ルースに目を向けて言った。


「何人もの名医と呼ばれる医師に診てもらって手は尽くしたが、どうあがいても病は進行するばかりだった。でもそんなときにたまたま手に入れた治癒ポーションを飲むと、妻の調子が少しよくなった。しかし同じ薬商で同じものを手に入れても効果に差がある。なぜだと思っていたところ、瓶底にラベルを見つけたのだ」


 そこから密かにたどり、作り手のルースを突き止めたらしい。


 侯爵の手がかすかに震えている。その夫の手に、夫人はそっと自分の手を重ねる。病に伏していても、意識を保とうとするその眼差しは優しげだった。


 夫人がゆっくりとルースを見上げる。


「ごめんなさいね……、治癒ポーションを作っているのが、まさかこんなにお若いお嬢さんだったなんて……。くれぐれも無理はしないでちょうだい、ね……──」


 それだけ言うと、夫人は制御できなくなったように眠りにつく。侯爵が夫人の体を支え、そっと横たえてから労るように毛布をかける。


「眠ったようだ。徐々に眠りにつく時間が増えている。それでもきみの治癒ポーションを飲むとわずかに斑点が薄くなるようで、感謝している……。昏黒斑病の罹患者が出ることによって、我がラドウィンター侯爵家に悪評が立つのは構わない、しかしそのせいで妻が奇異の目にさらされることだけはどうしても避けたい」


 侯爵はルースに向き直ると真剣な表情で、

「孫のエリオットと年の近いきみが結婚したことにすれば、きみが屋敷に滞在する理由がほかにあるなどと疑う者はいないし、事情が外部に漏れる心配もなくなる。家格差はあるが、それについてはわしがそれなりの理由を作るつもりだ。

 念のため結婚の書類は国に届け出るが、実態はともなわない仮の結婚だと思ってもらっていい。妻が快癒すれば、この結婚は白紙に戻す。その際きみには今後不自由なく生活していけるだけの金銭的な援助もすると約束する。念書も用意しよう。無理な願いだというのは重々承知しているが、どうか妻が回復するよう手を貸してもらえないだろうか」


 不治の病と言われている昏黒斑病を快癒させる、正直そんなことがルースにできるとは到底思えなかった。しかし侯爵はルースの治癒ポーションが効いていると言ってくれている。自分の力で誰かを救えるなら、力になりたいとも思う。


 それにルースにとってあの男爵家から逃げ出せるうえ、さらに侯爵夫人が快癒すれば、その後の生活も保障されるという。ありがたい条件には違いなかった。


 そもそも前のルースは貴族としての振る舞いやマナーなどは習得していないようだし、社交にも出してもらえていない様子だった。あの男爵夫婦のもとで育ったことを思えば致し方ないことだ。今のルースとて前世では普通の会社員でしかなかったこともあり、そんな状態で未来の侯爵夫人なんて想像もつかない。だからこそ、侯爵の言うとおり仮の結婚、つまり期間限定の契約結婚で、いずれ離婚できるというなら問題はないように思える。


 ルースの考えを見通すように、侯爵が付け加えるように言う。


「失礼ながら、実家のアクトン男爵家のことは調べさせてもらった。きみの治癒ポーションの売上げのおかげでなんとか保っているようだが、いつ没落してもおかしくはない。あの夫婦のきみに対する態度やきみが置かれている境遇も知っている。あの家から出られるなら、きみにとっても悪い話ではないはずだ」


 その言葉からも、侯爵はルースの治癒力だけでなく、ルースの状況までも調べたうえで、最適な仮の結婚相手だと判断したようだ。


 侯爵の言うとおり、ルースにとっても悪い話ではないどころか、これ以上条件のいい話はないだろう。ただ気になるとすれば……。


「あの、御令孫のエリオットさまは、このことは……?」


 祖母を助けるためという理由があるにしろ、本来は相手にもならない階級の娘であるルースと、一時的とはいえ結婚させられるエリオット自身はどうなのだろうと気になった。


「きみが妻の治療にあたるというのは伝える。きみと結婚するということも。でも一時的な仮の結婚だというのは知らせないつもりだ」


 なぜ? とルースの中で疑問が浮かんだが口には出さず、相手の次の言葉を待つ。


「エリオットのことも心配なのだ」

 侯爵は強い口調で言った。


 聞けば、侯爵の息子夫婦にあたるエリオットの両親は、彼が八歳のときに仕事で乗った大型旅客船が沈没し、帰らぬ人になっていた。以来、祖父母である侯爵と夫人の三人で暮らしてきた。


 両親の死後、エリオットは人にも会わず屋敷に引きこもりがちになった。しかしずっと引きこもって過ごしていくわけにはいかない、いずれ侯爵家を背負えるようになるためにも色々な交流が必要だ。侯爵としては孫をなんとか立ち直らせようとしたもののうまくいかず、どうしたものかと思っていたところに、侯爵夫人が病にかかってしまったのだという。以来、病のことが外部に漏れるのを防ぐために侯爵邸への人の出入りは最小限に抑えていることもあり、ますます心配が募るばかりだった。


 そんなとき、侯爵夫人の治癒のために若い令嬢のルースを屋敷に滞在させるにあたり、エリオットとの結婚という方法が最善だと判断した。さらに滞在中、エリオットとも交流をもつことで彼の社交性をも取り戻すことができたら──。


 だが、この結婚が一時的な関係だとエリオットが知れば、無意味な関係を築く必要はないと捉え、より一層ルースとは関わらないかもしれない。彼は両親がいなくなってから、極端に誰かと関わることを拒否するようになった。だが、妻となる女性であれば少しは見方も変わるだろう。しかしながら侯爵家である以上、今回の結婚を永続的なものとするわけにはいかない。


「──何もかも望みすぎだとはわかっている。そして、きみのような若い令嬢に無理なお願いをしていることも」


 侯爵は謝罪するように眉尻を下げ、ルースを見やった。


 一時的な仮の結婚だということをエリオットには伝えない一方で、ルースには念を押すように告げておく。その意図がルースにもはっきりと理解できた。


 エリオットは侯爵家を継ぐ者として、ルースと一時的に結婚したとしても、ときが来れば別れて、次はしかるべき相手と生涯を誓う結婚をする──。


 侯爵はそう言いたかったのだろう。そしてさらに続けて言った。


「きみの男爵家には当然ながら、妻が病に伏せっていること、きみの治癒力を頼りにしていることは一切伝えていない。だから、両親が亡くなってから屋敷に引きこもりがちになった孫のエリオットのためにそばにいてくれて、なおかつエリオットが立ち直ったあとは離縁しても問題ない相手を探していると伝えた。そのうえで彼らからは承諾をもらっていた」

「そうでしたか……」


 侯爵はすべてをルースに話してくれた。確かにかなり無理な依頼だとは思うが、それでも愛する妻を治療する相手として、大事な孫と交流する相手として信頼してもらえたからこそ、話してくれたのだということはわかる。


 納得する一方で、ルースに何も言わずに嫁がせようとした男爵夫婦に対しての怒りもふつふつと湧く。


 侯爵からの提案を受けて、お金に執着するあのふたりがすぐさま飛びついた様子が容易に想像できた。きっとルースが作る治癒ポーションの稼ぎとは比べものにならないほどの仕送り額を提示されたのだろう。そしてルースの将来のことなどお構いなしに、生贄のように差し出した。自分たちの優雅な生活のために。呆れてものも言えない。だが、もう関わることもないだろう。


 ルースは眠りについている侯爵夫人にそっと目を向ける。そのあとで侯爵に向き直る。


「──わかりました。侯爵夫人とエリオットさまのために最善を尽くします」


 しばらく考えたあとで、そう伝えたのだった。





 思わぬ形で侯爵邸に滞在することになった経緯を振り返ったあとで、ルースは侯爵夫人に視線を戻す。


 侯爵からはエリオットだけでなく、夫人にも、これが期限付きの仮の結婚であることは伏せておいてほしい、と頼まれている。侯爵としては夫人に伝えるつもりはないらしい。


 ルースが夫人とまともに会話ができたのはまだ数えるほどだが、思慮深く、優しい女性だというのは感じる。


 そもそも夫人は、治療を行う人間が若い令嬢のルースだと知ったのも最近のようで、いくら屋敷に滞在させる理由が必要だからとはいえ、無理に結婚させるのには猛反対したらしい。どうしてもというなら、あらかじめルースには孫のエリオットと顔合わせをしたうえで、ルースがエリオットに好意をもてて納得できるなら話を進めても構わない、と念押ししていたそうだ。とはいえ、それは侯爵の独断で実行されることはなかったようだが。


 まだ半月ほどしか経っていないが、侯爵夫人専用に治癒ポーションの改良を重ね、少しずつ効果も出始めているように見えた。


 それにはハドリーという若い男性医師の存在も大きい。


 侯爵夫人の治療に際して、侯爵はルースの医学知識を増やすため、信頼のおける医師のハドリーをつけてくれた。


 治癒ポーションを作ろうと思っても、たとえば水に治癒力を注げばポーションに変わるというほど単純なものではない。


 まずは傷や病に効く薬草などを調合した原液を作り、そこに治癒力を注ぐことで、効果のある治癒ポーションができるのだ。


 原液の出来が悪いと、いくら治癒力を注いでも発揮される効果はかぎられる。反対に優れた原液と治癒力が組み合わされば、相乗効果でより高い効能が生み出せる。


 そのことを今のルースは、前のルースが残した日記帳と書き付けなどから学んだ。前のルースはかなりの努力家で、膨大な数の調合を繰り返し、その効果を研究していた。しかしながらすべては独学だったため、本人も限界を感じる部分もあったようだ。


 その点、今のルースはハドリーから医学の基礎から応用までを幅広く学べたことで最適な原液作りができ、さらに治癒力も効率よく扱えるようになったので、以前よりポーションの効果も格段に高まっていた。


 また、前世の日常生活の中で知り得たうろ覚えの医学知識も、思いのほか役に立っている。ルースが話す内容は、ハドリーにとっては興味深いようでよく質問攻めにあう。


 このまま改良を重ねていけば、侯爵夫人の快癒も不可能ではないかもしれない、そう思えるくらいには希望も見えてきていた。





   ◇ ◇ ◇





 その日、いつもの時間帯よりも少し早く侯爵夫人の部屋を訪ねれば、そこにはエリオットがいた。


 ベッド脇にある椅子に腰かけ、眠りについている侯爵夫人に寄り添っていたように見える。彼はルースが入ってきたのを見るなり、すぐさま立ち上がる。


「エリオットさまもいらっしゃったんですね、お邪魔をしてしまいすみません。侯爵夫人の様子を少し診させていただくだけですから」


 エリオットは何も言わず、かすかに不機嫌さをにじませてさっさと寝室から出て行こうとする。


 どうやら彼と祖母との貴重な時間を邪魔してしまったようだ。


 ルースがいない時間帯を選ぶようにして、エリオットが侯爵夫人の部屋を頻繁に訪れていることには気づいていた。


 侯爵から聞いた話やルースが侯爵邸に滞在するようになって目にした彼の行動からは、祖母に深い愛情を抱いていることがうかがえる。


 幼いころに両親が不慮の事故で他界し、以来侯爵夫人が母親代わりになって彼をあたたかく見守っていたというから、その祖母が病に侵されている今の状況は彼にとっては不安でしかないだろう。


 エリオットと入れ替わるように、ルースは寝室に入るとベッドに近づく。


「──今日のお加減はいかがですか?」


 いつものように侯爵夫人に声をかけて、顔を覗き込む。そっと腕を取って角度を変えながら黒い斑点の状態を確認する。手を伸ばし、首元の斑点にも触れて様子を見る。


「──おい! 何やってるんだ!」


 出て行ったとばかり思っていたエリオットが突然大きな声をあげ、ルースの腕をぐいっと引っ張った。


 ルースは驚き、つかまれた腕に痛みを感じ顔をしかめる。


 ハッとした顔のエリオットが、パッと彼女の腕を放す。


 突然腕を引っ張られたこともあり、ルースはつかまれた腕をさすりながら、つい非難するような言葉を吐いてしまう。


「なんなんですか、いったい」


 治療のために侯爵夫人に触れているだけなのに。それとも治療のためでも高貴な人には触れるなと言いたいのだろうか。


 エリオットはどこかバツが悪そうに視線をさまよわせている。


「いや……、でも……」


 なんだか煮え切らない態度にルースもつい苛立ち、腰に手を当ててにらみつける。普段であればこんなふうに失礼な態度は出さない。何しろ相手は侯爵家の跡取りなのだから。でもこのときは、これまで無視され続けたことへの鬱憤(うっぷん)も溜まっていたのかもしれない。


 なおももごもごと口を動かすエリオットに、ルースは強く言い放つ。


「言いたいことがあるなら、はっきり言ってください!」

「……、恐く、ないのか……、触っても……」


 かすれるような小さな声だった。


 言ったあとで、彼はキュッと唇を噛みしめた。彼自身が吐いた言葉が、そのまま彼を傷つけているようにも見えた。


(ああ……、この子は大好きな祖母を恐がっていることを恥じてるんだ……)


 治療法のない昏黒斑病は、医師の中でさえ診療を拒否する者もいると聞く。うつらないと言われているとはいえ、まだ少年の彼にしてみれば恐ろしいだろう。ルースだって、まったく恐くないかと言われれば嘘になる。でも──。


「ええ、恐くないわ。うつらないもの。それにきっと治る。わたしが治してみせるから」

 ルースは彼の目を見て、はっきりと言った。


 本当のところ、治療に希望が見え始めてきているからといって、この先本当に快癒できるだろうかと不安に押しつぶされそうになっている弱い自分もいた。でもエリオットの言葉に、ルースは盛大に頬を叩かれた気がしたのだ。


(──絶対に治る。わたしがそう思わないでどうするの!)


 胸が熱くなり、涙が出そうになる。それをぐっとこらえながら、彼の手を取った。ゆっくりと導くように、彼の祖母である侯爵夫人の斑点が浮き出る腕に触れさせる。彼の指先が一瞬強張った気がしたが、すぐにそれはなくなる。


「……あたたかい」

 実感するように、エリオットがぽつりと漏らす。

 ルースは彼を見て微笑む。

「ええ、そうよ。侯爵夫人はがんばってくださってる。あなたも応援しなきゃ」

「……うん」




 

 その日以来、エリオットはルースに心を開いてくれるようになった。


 無視されることもなくなり、むしろ彼からよく声をかけてくれるようになった。笑顔を見せる機会も増えた。


 侯爵の勧めもあって、治療の合間にはふたりで庭で遊ぶこともあった。


 活発な彼の姿を見ていると、本来の姿に戻りつつあるのだろう。


 両親が亡くなる前はとても活発な子どもだったらしい。昔は屋敷に来る同世代の子どもたちと庭をよく駆け回っていたと、侯爵も懐かしそうに言っていた。


 今は侯爵夫人のこともあって屋敷に出入りする人間は最小限にしているようだが、夫人が快癒すればエリオットも多くの人と交流できるようになるだろう。


 そんな未来を思えば、ルースはますますがんばらなければいけないと思うのだった。




 

   ◆ ◆ ◆





 エリオットが知るだけでも、名医だと言われる何人もの医師がラドウィンター侯爵邸に来た。


 侯爵である祖父が、口止めも含めた多額の寄付をして国内外から呼んだらしいことは容易に想像がついた。


 なぜなら、祖母がかかっている病は昏黒斑(ヴルバ)病だからだ。


 かつて異教徒の移民の間で流行した病で、今でも治療法がない不治の病。この国では異教徒がかかるものとして、ひどく疎まれている。


 そばにいたり触ったりしてうつる病気ではないと言われているが、医師が祖母を診療する際、畏怖と嫌悪感を抱いていることは子どもの目から見てもありありとわかった。医師として尊敬はできなかったが、それでも祖母の病を治してくれるならと、エリオットは彼らに期待した。


 しかし期待するたびに裏切られた。そしていつしか期待しなくなった。


 と同時に、自分もその病を恐れていることに気づき、そんな自分にひどく失望した。病はうつらないと聞かされているのに、祖母の肌に現れている斑点に触れる勇気がもてないのだ。あの医師たちと自分は何も変わらない。いやそれ以上に、自分は違うと医師たちを軽蔑しておきながら、そのくせ大切な家族である祖母に対して恐れを抱いてしまう自分のほうがもっと醜く(けが)らわしい。


 エリオットは自分の気持ちに背を向けるように、その後は自分で何か治癒の糸口を見つけられないかと、庭園の先にある高塀の下に開いた隙間を通ってこっそり屋敷を抜け出し、異教徒の移民が集まっている移民街に足を運ぶようになった。

 彼らの間で流行していた病なら、何かしら得られる情報があるのではと思ったからだ。

 とはいえ、薄汚れた格好を装っていても子どもひとりがうろつくには治安がよくなく、何度も危ない目に遭った。


 そうこうするうちにも、祖母はどんどんと弱っていく。


 肌に現れる斑点が増えるほど、眠っている時間も長くなる。まるで真綿で首を絞められるようにじわじわと命が削られていく。そして斑点が全身を覆うころには一睡もできないほどの苦痛に襲われ、そのまま息を引き取るのだ。


 エリオットの両親は、彼が八歳のときに仕事の都合で乗っていた大型旅客船が沈没して亡くなった。


 あまりにも突然の別れだった。出かける前、両親は戻ってきたら今度はエリオットも一緒に乗ろう、と約束してくれていたのに──。


 葬儀は遺体のないまま行われた。両親がいなくなったことを実感できず、エリオットはただ息をして過ごすしかできなかった。

 人に会うのもいやになり、外にも出なくなった。


 それでも祖母が根気強く、自分のそばにいてくれた。


 祖父もいたが、祖父は両親が亡くなって以来、より一層エリオットを厳しくしつけるようになった。


「そんなことでどうする!」

「お前はこの侯爵家を継ぐ者なんだぞ!」


 何かにつけて、エリオットを叱咤した。


 エリオットを思ってのことだと理解しようとはしたが、受け入れることはできず、言われるたびにますます祖父を避けるようになった。


 それでもいつも祖母が優しく笑って、祖父とエリオットの間に立ってなだめてくれた。


 両親亡きあと、祖母は両親の分までエリオットにあふれるほどの愛情を注いでくれようとした。母親代わりにもなってくれた。


 その祖母までもがいなくなってしまうかもしれない──。


 両親のときは別れを覚悟する間もなく唐突に別れがきた。しかし病に伏せる祖母は違う。でも時間が残されているからといって、別れる覚悟ができるわけでもないのだ。むしろ残された時間があるだけ苦しい。子どもの自分にできることはかぎられるとわかっていても、祖母を救えないことへの憤り、怒り、不甲斐なさが絶え間なく押し寄せる。


 苦しくて苦しくて、どうすればいいのかわからなくなっていたころ、ルースが現れた。


 治癒力があり、彼女が作る治癒ポーションは祖母の病に効く可能性があるらしい。


 あんなにも病が治る糸口を欲していたはずなのに、また期待して裏切られるのが怖かった。期待して裏切られ続けた分、今度もまた裏切られ、本当に祖母が死んでしまったら、自分はもう一生立ち直れないと思った。


 と同時に、誰かがそばにいることに慣れてしまうのが怖かった。いずれいなくなるなら、最初からいらない。


 ルースを侯爵邸に滞在させるための理由づけとして、自分と結婚すると祖父から聞かされても、たいした感情も湧かなかった。両親が亡くなったことでいまだエリオットの婚約者は決められていなかったが、いずれ侯爵家のために祖父が用意したしかるべき相手と結婚するのはわかっていたからだ。


 そしてその相手が、釣り合いの取れる家格よりも祖母のことを優先した結果、ルースになっただけ。


 この先もルースはこの屋敷にいる相手だと頭では理解はするものの、それでも積極的に関わる気にはなれなかった。仲良くなることに何の意味があるのだろう。


 でもルースはエリオットを見れば微笑み、声をかけてくる。無視しても変わらず接してくる。


 優しくされるたび、どう接していいのかわからず動揺した。


「ええ、恐くないわ。うつらないもの。それにきっと治る。わたしが治してみせるから」


 ある日、祖母の部屋で鉢合わせしたルースが、エリオットに向かって力強く言った。

 そして病を恐れているエリオットの本心を見抜き、彼の手を祖母の斑点が浮き出る腕に触れさせたのだ。


「あたたかい……」

 思わず言葉が漏れる。


 眠ってばかりいる祖母を見るたび、次にこの部屋を訪れたときには息をしていないのではないかと怯えていた。


 でも今は──。生きてくれていることをはっきりと感じる。


「ええ、そうよ。侯爵夫人はがんばってくださってる。あなたも応援しなきゃ」


 そう言って笑ったルースから、エリオットは目が離せなかった。

 彼女はほかの誰とも違う──。





   ◆ ◆ ◆





 気づけば、ルースがラドウィンター侯爵邸に来てから四年の年月が経っていた。


 その間、侯爵夫人の治療は順調に進み、段々と眠りにつく時間も少なくなり、体に現れていた斑点も薄くなっていた。


 今では起きていられる時間が長くなったこともあり、会話も楽しめ、少しであれば散歩もできるようになっている。


「この時期はね、この銘柄の紅茶が一番美味しいのよ」


 体調が安定するにつれ、ルースを招いて侯爵夫人がお茶会を開いてくれる回数も増えた。そのときはもちろん、エリオットも一緒だ。


 優しく微笑む侯爵夫人を見ると、胸が詰まりそうになる。一緒に過ごせる時間が何よりもかけがえのないものだと感じる。


 そんな侯爵夫人の日々の回復を目にするたび、侯爵は潤んだ瞳で喜び、その都度ルースと医師のハドリーに深く感謝した。


 屋敷の中も明るくなった気がする。


 それに、屋敷に来たばかりのころはどうなるかと思っていたが、心を開いてくれて以来エリオットとの仲も良好で、ルースはとても満足している。


 気がかりだった侯爵とエリオットのギクシャクしていた仲も、ルースが仲介に入ることでいくぶん和らいだかのようにも見える。


 ルースから見ても、侯爵はエリオットに対して、かなり厳し過ぎるしつけをしていた。


 おそらく息子夫婦が早くに亡くなり、さらには祖母である侯爵夫人も病に伏せり、侯爵としてはこの先ひとり残していくことになるエリオットを思い、焦りからますます厳しく接していたのだろうと思われた。


 以前は侯爵夫人が、侯爵とエリオットの間に入りそれぞれなだめていたようだが、病のせいでそれもままならなくなり、ますます祖父と孫の関係は悪化していったのだろう。


 また二年ほど前から、侯爵夫人が快癒に向かうにつれてルースにも時間的な余裕ができたことで、侯爵の勧めもあり、エリオットとともに家庭教師の授業を受けることができるようになったのも、ルースにとってはうれしいことだった。


 長い期間を侯爵邸で過ごしているので、実家のアクトン男爵家のことは忘れそうになるが、侯爵家からの仕送りで潤っているのかまったく音沙汰がない。そのこともルースがここで安心して過ごせる理由になっている。


 さらに、侯爵夫人の肌にある斑点が服の下に隠れる範囲にまでおさまると、徐々にだが侯爵邸に人を呼ぶ機会も増えていった。


 侯爵夫人は人前にはまだ出られないが、屋敷にこもりがちなエリオット、そしてルースのために、侯爵が家門に縁のある年の近い子どもや若い紳士、令嬢を招いて、ガーデンパーティや楽団を呼んでの演奏会などを時々開いてくれた。


 家族のあたたかさとは無縁だった男爵家、そして前世。それらとは正反対の穏やかでときに賑やかで、とても満たされる日々。

 ここでの生活は、部外者のルースもまるで家族の一員にでもなったかのような気持ちにさせてくれる。


 だからこそルースは怖くなる。


 それは今このときだけの、いずれ終わりが来る仮初めの幸せだ。


 侯爵夫人は着実に快癒に向かっている。それが何よりもうれしい。快癒する日もそう遠くないだろう。治療をしているルースだからこそわかる。


 でもそれは、ルースがこの侯爵邸を去る日が近いことも告げていた──。





   ◆ ◆ ◆





 庭園からはルースと祖母の楽しげな笑い声が聞こえてくる。

 エリオットは家庭教師が話す内容もそこそこに、先ほどから庭園を見下ろしている。


 今日はエリオットだけの授業の日だった。

 それをわかっている祖母は、ルースだけを呼んでふたりだけのお茶会を開いている。


 ルースがラドウィンター侯爵邸に来てから、もう四年が経った。


 昔、両親が不慮の事故で突然この世を去り、その後病を発症した祖母までもいなくなってしまうと悲嘆したときから、エリオットの世界はずっと灰色だった。


 でも今は違う。ルースがいる。


 彼女の笑顔を見るだけで、その声を聞くだけで、そばにいるだけで、エリオットの心は深く満たされる。

 時折、ふとした拍子に触れる彼女の華奢な指先や肩を思い出すだけで、こんなにも胸が熱くなる。


 ルースと出会ったばかりのころは結婚の意味もわからなかったが、今ではルースと結婚できて本当によかったと心の底から思っている。


 強引で身勝手に見えた祖父の行動も、こうしてルースとの縁をつないでくれたのだと思うと、今となっては感謝するしかない。


 ルースは年々きれいになる。


 出会ったときは痩せぎみで髪にも艶がなかったが、侯爵邸に来てからは見違えるほど健康的になった。そして年を重ねるごとに、女性らしい柔らかさも出てきて、幼い蕾が大輪の花を咲かせるようにきれいになった。


 エリオットは気づくとルースの姿を探し、見つけるともう目が離せなくなるのだった。


 最近では祖母の調子がよくなってきたこともあり、祖父が気を利かせて自分やルースのために屋敷に人を招く機会も増えた。


 年の近い子どもやそのうち関わることになる若い紳士、令嬢たちともっと交流を、ということだろう。


 もちろんエリオットだって、将来のことを思えば交流することが重要だとはわかっている。百歩譲って、招く相手が令嬢なら問題ない。人選には祖父が細心の注意を払っていて、ルースが男爵家出身であってもあからさまに見下すような人物はいない。だからこそルースも楽しそうに会話している。


 でも男はだめだ。彼女にあきらかな好意を向けるやつらもいて、エリオットは常に目を光らせていなければならない。


 そもそもルースはエリオットに対してもそうだったように、誰にでも気さくに声をかけて自然な笑みを見せ、すぐに仲良くなるので気が抜けない。


 そのためエリオットは、屋敷に人を招くのもどうかと思う、と祖父とルースの前で不満を口にしたこともあったが、逆効果だった。

 ルースは困ったような顔で、エリオットは色々な人と交流すべきだとたしなめ、祖父はルースにも交流する機会は必要だと言った。

 ルースが自分のことを心配してくれているのはわかったし、祖父の言うことも理解できたので、エリオットはそれ以上言うのはやめた。


 彼女を狙う不届き者は自分の手で排除すればいい。


 どのみちルースと結婚しているのはエリオットで、近い将来祖母が快癒したら、彼女ときちんとした結婚式を挙げる。今はまだ書類だけの関係だが、そうなれば本当の意味でルースはエリオットの妻になる。


 相手にもならない連中が周りをいくらうるさく飛び回ろうとも、自分たちの間には誰も割り込めない。エリオットは本気でそう思っていた。


 だからこそ、ルースが自分のそばからいなくなる日が来るなんて、夢にも思っていなかったのだ。





   ◆ ◆ ◆





「──では、そのように進めてまいります」

「ああ、くれぐれも外には漏れないように注意してくれ」


 あと一か月ほどもすれば、侯爵夫人が快癒すると思われたある日。


 ルースは偶然、侯爵と来客の会話を立ち聞きしてしまう。相手は弁護士だった。


 聞こえてきた会話から察するに、どうやらルースとエリオットとの結婚を白紙に戻して、ルースに養子縁組を用意すべく動いているらしい。


 ルースは小刻みに震えながら、ついにこのときが来てしまったと感じた。


 いずれこの日が来るのはわかっていた。心づもりができるように努力してきたつもりだった。

 でもいざそれを目の前にすると、全然覚悟はできていなかったのだと痛感する。


 しかし迷っているひまはない。


 迷惑にならないうちに、離婚を受け入れられなくなる前に、ここを去らなくてはいけない──。


 ルースは急いで自分の部屋に戻ると、キャビネットの引き出しを開ける。奥にしまっていた木箱を取り出す。


 中には、侯爵家を去ったあとのルースに対する金銭的援助に関することが記された念書と、離婚の書類が入っていた。


 どちらも侯爵邸に来たときに、侯爵から渡されたものだ。


 ルースは離婚の書類を取り出すと、震える手を押さえながらサインをする。


 それを人目につきやすい部屋の中央にあるテーブルの上に置く。


 あとはエリオットがサインして届け出れば、無事に離婚は成立する。


 次に念書を取り出すが、それは無造作に破ってから、テーブルの上に置く。


 侯爵邸に来たあのときは、金銭的な援助はありがたいと思った。でも今はあのころと違い、手切金のように感じるお金はとても受け入れられそうもない。


 援助がなくとも、男爵家にいたときに貯めたお金や、侯爵邸で過ごしていた間に密かに街に出て治癒ポーションを売って貯めていたお金がある。


 ひとまずこれだけあれば、しばらくは暮らしていけるだろう。


 それにルースには治癒力があってポーションも作れるのだから、薬商か治療院にでも雇ってもらえば普通に働くよりもよい賃金を得られるはずだ。


 きっとひとりでも暮らしていける。前世でもひとり暮らしの経験は長かった、慣れている。


(──うん、きっと大丈夫、大丈夫)


 心の中でつぶやき、不安な気持ちを抑える。


 お世話になった侯爵邸の人たち一人ひとりに別れのあいさつがしたかったが、それは叶いそうもない。

 侯爵に、侯爵夫人、そしてエリオット……。


 顔を見て、一言でも言葉を交わしてしまえば、別れがたくなる。きっとみっともなくすがってしまう。


(それだけはだめ──)


 ルースは涙があふれてしまいそうになるのを、必死でこらえる。


 侯爵邸に来る前に持っていた数少ない私物を、かつてこの屋敷に来たときに持っていたくたびれたカバンに詰め込む。


 エリオットや侯爵と夫人からは、ドレスやアクセサリー、化粧品などさまざまなものを数えきれないほどもらった。でもそれはどれもエリオットの妻という立場だからこそ。離婚するルースは持ってはいけない。


 テーブルの上に、この間作っておいた治癒ポーションが入った大きめの瓶をそっと置く。

 侯爵夫人があと一か月ほど飲む分は入っている。こんなつもりで用意していたわけではなかったけれど。


 でもいつかは去る身だとルースは理解していたため、今後のことを考えて以前から、侯爵夫人の治療に一緒にあたってくれていた医師のハドリーには治癒ポーションの作り方は説明していた。作り方を記した書類も渡しているので、たとえルースの作った分がなくなっても、治癒力を持つ人に協力を依頼できればきっと同じものが作れるだろう。

 あとは、万が一侯爵夫人の容態が変わる場合に備えて、自分の住む場所が決まったらハドリーには手紙を出そう。それなら連絡さえもらえれば、ただの治療師のひとりとしてルースが駆けつけることもできるはずだから。


 最後に、ルースはすっかり馴染んだ自分の部屋を振り返る。


「ありがとうございました……」


 侯爵邸に滞在した四年間、その時間はルースにとってかけがえのないものを与えてくれた。


 そっとドアを閉めて、足早に廊下を進む。


 すれ違った使用人には街へ買い物に行ってくると伝えると、ルースは侯爵邸をあとにした。





   ◇ ◇ ◇





 屋敷を出たあと、ルースは通りを走る辻馬車を拾い、中心街へと向かう。


 中心街に着くと馬車を降りる。大通りを歩きながら、まずは仕事案内所に行ってみようと目印になる看板を探す。


 だが歩いて間もなく、突然強引に腕を引っ張られ、路地裏に連れ込まれた。

 ガラの悪い男たちが正面と背後、それぞれ逃げ道をふさぐように立っている。

 そして男たちの間に立っているのは──、ルースの実親のアクトン男爵夫婦だった。


「ルース! ようやく見つけたぞ!」

「ルース、この親不孝者!」

 男爵夫婦がそれぞれ怒りをあらわにして叫ぶ。


 ふたりはいつも見栄を張るような身なりだったのに、今は着ている服はあきらかにくたびれていて、靴も汚れてすり減っている。男爵夫人にいたっては以前はこれでもかというくらい身につけていたアクセサリーも、今は小ぶりなネックレスがひとつだけ。


「お父さま、お母さま……」


 もうそんなふうに呼ぶ義理もないけれど、ほかに呼びようがないのでルースはそう口にする。その言葉に憐憫が混じっているのを見てとったのだろう、男爵夫婦はますます激昂し、口汚くわめく。


「連絡も寄越さず、よくも約束を破ってくれたな!」

「早くお金を渡しなさいよ!」


 その内容から推測すると、半年ほど前からになるのだろうか、ラドウィンター侯爵家からの仕送りが途絶えているらしい。


 ルースが侯爵邸に行って以来毎月決まった額が送られていたが、二年ほど前から金額が徐々に減り、期間も毎月から二か月に一度、三か月に一度というふうに延び、娘のルースに連絡を取ろうにもできず、侯爵家を訪れて面会を求めるも門前払いされ、ついには仕送りすら途絶えてしまったらしい。


 それを聞いて、思わず笑いそうになった。


 侯爵家からは十分な額のものをもらっていたにもかかわらず、相変わらず節約すること貯めることももせず、この夫婦は毎度湯水のごとく使い切っていたのだ。


 しかしそれをルースに言われても困る。すべては侯爵の采配だ。ルースは契約どおり、侯爵夫人の治療を行っていた。だからこそ侯爵も、男爵夫婦の愚かな実態を把握していながらも、約束どおり仕送りをしてくれていたのだろう。


 ルースの白けた態度が癇に障ったのか、男爵夫婦は地団駄を踏みながら激怒している。


 そのとき、背後にいた男たちのひとりが、ルースの手からカバンを奪う。


 ルースは慌てて取り返そうと手を伸ばしたが、すぐさま男たちによって後ろ手に拘束される。


 男たちは乱暴にカバンを開け、中身を見たあとで、片眉を上げてヒューと軽く口笛を吹いた。


 男爵夫婦はハッと目を見張り、男たちからカバンを引ったくる。中身を確かめると、わなわなと震え、

「この金はなんだ、ルース! 金があるなら私たちに渡さないといけないだろう!」

「娘のくせに、私たちに渡す分を横取りしてたのね! この恩知らずが!」


 カバンの中のお金は男爵夫婦がこれまで受け取ってきた額に比べればささやかなものだが、かなりひっ迫しているらしい様子の彼らにしてみれば、そんな額でもルースが持っていることが許せないらしい。


 罵倒され続けるが、ルースとてカバンの中身を奪われるわけにはいかない。そこにはこれからひとりで生活するための全財産が入っている。お金のほかには、すぐに売ってお金に換えられる用の治癒ポーションの小瓶も何本かある。


「やめて、返して!」


 ルースはもがきながら叫ぶが、痕がつきそうなほど強い力で男たちに押さえつけられる。


 男爵はカバンから取り出した治癒ポーションをじっと見ている。ふと、何か思いついたようにニヤリと笑い、動きのままならないルースに近寄ると言った。


「なあ、ルース。何も侯爵邸で暮らす必要はない、また私たちのもとで暮らせばいい。侯爵はお前と孫息子を離婚させようとしているみたいじゃないか」


 その言葉にルースは息を呑む。

 ルースの反応で確証を得たように、男爵が粘りつくような声音で続ける。


「ああ、本当なのか。孫息子が立ち直ったから、お前のことはお払い箱になったのか? 万が一にでもお前が侯爵家に迎え入れられる可能性もあるかと期待したが、やはりお前なんかじゃ無理だったんだ。むしろ四年もよくもったほうだ。なあ、ルース、それなら私たちのもとに戻ってくればいい。前みたいにまた治癒ポーションを作ればいいだろう。家族だ、悪いようにしないから」


 すると男爵夫人もこれまで見せたことのないほどの笑みを見せ、真っ赤なマニキュアが塗られた爪が目につく不快な手をルースの肩に乗せる。


「そうよ、ルース。私たちは血のつながった家族よ。あのときあなたを嫁がせたのは間違いだったわ、後悔していたのよ。戻っていらっしゃい」


 気持ちの悪い空気が体にざわりと触れ、触れた箇所から悪臭を放って侵食されていく気がした。


「やめて──!」

 ルースは体を捻って、それを必死で振り払う。

「あんたたちなんか家族でもなんでもない! 血がつながってるなんて吐き気がするわ!」


「この──ッ!」

 男爵が手を振り上げる。バシンッと音がする。


 反動で拘束がほどけ、ルースの体は地面に叩きつけられる。

 ぶたれた頬は熱を帯びて、見る間に赤くなる。


 それでもルースはキッと顔を上げる。絶対屈服なんてしない。


(本当のルースを殺したのは、あんたたちじゃない──!)


 前のルースだって、あのとき命を落としてさえいなければ、きっと反発したはずだ。こんな相手にいつまでも従う必要はない。


 ルースはそっとスカートのポケットに手を入れる。


 反抗的な態度のルースに、我を忘れた男爵がまた手を振り上げる。


 その瞬間、ルースはポケットから素早く取り出した小瓶の蓋を開け、男爵めがけて投げつけてやる。


 ビシャリッと、瓶の中の液体が相手の顔にかかる。


 ふん、いい気味だ。瓶の中身は試作品で作った香水だった。少量なら好ましいにおいも、一気に浴びればもわっとした強烈なにおいが鼻につく。割れると困るのでそれだけポケットに入れておいたのだ。


 ルースは男爵が怯んだその隙に逃げようとするも、ガシリと手首をつかまれる。


 男爵は香水がかかった顔に手を当て、青筋を立てながら叫ぶ。

「ルースッ! こんなことをしてどうなるのかわかってるのか! 私は知ってるんだぞ! 侯爵夫人の病をばらされていもいいのか!」


 ルースの顔が瞬時に強張る。なんでそのことを──。


 男爵はニヤリと笑い、

「過去に何人もの医師に診てもらったのに治らなかったそうだな。なぜ四年前に引きこもりの孫のためとはいえ、あんな破格の条件でお前なんかを嫁にしたいなどと言ってきたのかと思っていたが、本当はお前の治癒ポーションが目当てだったんだな! でもどうせ無駄なあがきだったんだろう? あれは不治の病だからな。おおかた大した治療もできず、侯爵の怒りに触れたんだろう⁉︎ だからやつは金を送らなくなったんだ!」


 勝手な言いがかりもいいところだ。しかしこれ以上、侯爵夫人の病のことを大声で叫ばれるのは困る。

 口をつぐんでいると、男爵夫人がすっと前に出てくる。


「ルース、私たちだって、こんなことはしたくないわ。でも侯爵夫人ともあろう方があんな病にかかってるなんて、周りが知ったらどうなるかしらね。社交界どころか、この国にさえいられなくなるかもしれないのよ、それでもいいの?」

 そう言って意味深に微笑み、

「でもねぇ、あなたが我が家に戻ってくるのなら、このまま私たちの胸に秘めておいてあげる。娘がお世話になった家門ですもの。恩を仇で返すような真似はしないわ」


 その顔は笑っているが、おそらく秘密になどしない。今後も金を生む道具として使えるルースを言いなりにして手元につないでおく一方で、きっとより多くのお金を手にするために侯爵家をゆするに違いない。


 侯爵家、そして侯爵夫人のことを思うと、あまりの怒りで体が震える。


 侯爵夫人はようやく快癒するところまできている。ここに至るまでの長い間どれほど侯爵が夫人を思い、支えてきたか。エリオットだって両親が不慮の事故で突然亡くなったうえに、祖母である侯爵夫人までもが病に侵され、不安に押しつぶされそうになりながらも一心に回復を願っていた。


 この男爵夫婦は知らないからこそ、こんな卑劣なことが言えるのだ。


「何も、何も知らないくせに! 勝手なこと言わないで!」

 もがきながらルースは叫ぶ。自分が大切な侯爵家の足手まといになってはいけない。

「さあ、来るんだ!」

「大人しく私たちと一緒に帰るのよ!」


 男爵がルースの腕を引きちぎれそうになるほど引っ張り、男爵夫人もルースの肩にこれでもかと爪を食い込ませる。


 行きたくはない、でもほかに方法がない。


 力任せに引っ張られ、体が前に倒れそうになったそのとき──。





   ◇ ◇ ◇





 誰かがルースをつかむ男爵の腕を捻り上げ、男爵夫人も押し退け、ルースの盾になるかのように目の前に立つ。


「初めまして、義父上、義母上」


 ──エリオットだった。


 ルースは目を疑う。


「とはいえ、もうそう呼ぶことは金輪際ないでしょうが。このクソ野郎──!」


 エリオットは捻り上げていた男爵の腕をパッと離すと、すぐさま相手の頬目がけて拳をめり込ませる。

 あまりの衝撃で、男爵の体がいとも簡単に地面に叩きつけられる。


 それが合図になったように、エリオットのあとに侯爵家の騎士らしき隊服姿の人たちが続く。

 ひと気のなかった路地裏が、あっという間に乱闘騒ぎの場になる。


「──大丈夫か、ルース」

 呆然としていたルースが振り返れば、そこには侯爵の姿があった。

「ラドウィンター侯爵まで、どうしてこちらに……」

 侯爵はかなり焦っていたのか、いつもは完璧に整えられている髪やひげに乱れが見える。


 しばらくすると騒ぎは収まり、男爵夫婦、そして彼らが雇ったであろうガラの悪い男たちが縄で捕らえられた。


「ルース!」


 エリオットがルースに駆け寄る。乱闘のせいで彼の髪や服は乱れ、所々薄黒く汚れてしまっている。


 エリオットは駆け寄ってきた勢いそのまま、ルースを正面から力強く抱きしめ、すぐさま高く抱き上げる。


 そして無言のまま歩き出す。見下ろす先のその顔は険しい。


 もう会えないと思っていたエリオットの姿を見られて無条件に喜びがあふれそうになっていたルースだったが、彼の見たことのない表情にハッとして体を固くする。


 そうだ、自分は離婚の書類一枚残し、何も言わず屋敷を出て行ったあげく、さらにルースの両親である男爵夫婦は侯爵家を脅そうとしていたのだ。


(こんな女と結婚していたのかって、呆れてる、よね……)


 言うべきことはたくさんあるはずなのに、エリオットの口から何かを言われるのが怖くて、ルースは言葉を発することができなかった。

 せめて今だけはと思い、自分の体に触れている彼のぬくもりを忘れないように噛みしめた。


 路地裏を離れた先、そこには馬車が待機していた。馬車の前には、あろうことか侯爵夫人の姿があった。

 家令に支えられてかろうじて立っているが、今にも倒れそうなほど蒼白になっている。


 侯爵夫人のそばまで来ると、エリオットはルースをその場におろす。


「ああ、ルース。よかった、見つかって──。まあ、なんてこと──!」

 悲鳴のような声をあげた侯爵夫人がルースの頬に手を当てる。夫人の顔からはますます血の気がなくなる。


 ルースは一瞬何のことかと思ったが、すぐに男爵にぶたれたことを思い出す。思っている以上に腫れているのかもしれない。


 すると、エリオットが横からぎゅっとルースを抱きしめる。その体がかすかに震えている。


「どうして……、どうして離婚なんて……。お願いだ、ルース。いやなところがあるなら直すから、出て行かないでくれ。ずっとそばにいてほしいんだ」

「え……」

「そうよ、ルース、お願いよ。出て行くなんて言わないで。私たちもう家族じゃない」


 侯爵夫人は刺繍が入った白いハンカチをルースの頬にそっと当てる。ルースの唇の端からは血が滲んでいたようで、ハンカチがすぐに汚れる。

 あ……、と思い体を引こうとしたが、侯爵夫人がそれをやんわりと押し留める。


「わしは許さんぞ! 離婚なんて認めない!」

 ルースの背後から現れた侯爵が腕を組み、大きな声を発する。


 どうやら引き止められている、ということはわかる。でもそれは望んではいけないことではなかったのだろうか。


「でも……、そういうお約束で……」


 ルースは困惑しながら口を開く。かつて侯爵と交わした約束、そして先日侯爵と弁護士との会話を聞いてしまったことを伝える。


 侯爵はルースが侯爵邸に滞在する理由として、当初からこれは期限付きの仮の結婚だとはっきりと告げていた。そしてその時期がきたからこそ、弁護士に依頼して離婚を進めるとともに、ルースに養子縁組をさせるために動いていたのではないのだろうか。


 すると侯爵は苦悶の表情を浮かべる。

「うぐぐ! それは……」

「おじいさま、なんでそんな勝手なことを! 僕は離婚なんて絶対にしない! 侯爵家のためにルースを追い出すというなら僕も出ていく、爵位なんかほかのやつに継がせればいい!」

「あなた、ルースにそんな条件を出していたのですか! 私の治療のことだけでなく、事前にエリオットと顔合わせをして、この子に好意をもてたからこそ納得して我が家に嫁入りしてもらえたのではなかったのですか!」

 エリオットと侯爵夫人が怒りをあらわに侯爵を攻める。


「いや、じつは……」

 そう言って侯爵は説明し始めた。


 侯爵自身、ルースをなかば無理やりエリオットと結婚させたうえ、侯爵夫人の治療にあたらせていることもあり、ルースの実家の男爵家には十分な仕送りをするつもりだった。しかしルースが侯爵家に馴染めば馴染むほど、将来離婚させるなど考えられなくなり、さらにはこれまで彼女が置かれていた劣悪な境遇にはらわたが煮えくり返るように感じ始めたそうだ。


 侯爵家へのルースの献身を思えばこそ、男爵家の激しい浪費にも目をつぶり仕送りをしていたものの、男爵夫婦はルースのことを気にすることもなく散財するばかり。もうこれ以上の仕送りは不要と判断し、段階を踏んで仕送りを止めたのだという。


 しかし当然のごとく男爵家は抗議してきて、仕送りをやめるならルースを返せと言ってくる。侯爵家としては格下の男爵家など放っておいても問題ないが、そんな輩はいずれルースに害をなす。男爵家からの干渉を断ち切るためには、ルースをエリオットと一旦離婚させて侯爵家から外し、書類上の身元は男爵家に一瞬戻すものの、そのあと侯爵家に縁のある家門に養子に入れて男爵家とは絶縁させたうえで、再度エリオットと結婚させ侯爵家に入れるよう動いていた。


 なんでもこの国の法律では、虐待などで子どもに害をなす実親から子を守るため、一度他家へ養子に入った子どもに対して不当な理由で実親が子どもに干渉することはできない、と定められているからだ。その法律を利用するため、侯爵は密かに動いていたのだ。


「すまなかった、わしがルースにきちんと話していればよかったのだが……。とはいえ、親とも呼べぬあんな連中とはもう会わせたくもなかったし、わずかでも煩わしい思いをさせたくなかった。だから、お前に知らせることなく進めたほうがいいと思ってしまったわしの落ち度だ……」

 侯爵は見たことがないほど肩を落としている。


「そんなことが……」ルースは驚き、手を口元に当てる。


「あのときは侯爵家としての都合を優先するあまり、若いお前に無理な約束をさせてしまった、本当にすまなかった。でももうわしたちは家族だ、そうだろう?」

 侯爵が愛情のこもった瞳でじっとルースを見つめる。


 すると侯爵夫人が両手を伸ばし、ルースの手を優しく包み込む。

「ルース、もうあなたがいない侯爵家は考えられないわ」


「ルース」

 エリオットがルースの肩を強く引き寄せる。熱のこもった力強い眼差しを向け、

「僕たちは家族だ。一緒に暮らすべきだ、そうだろ?」

「家族……」

 その言葉がじんわりとルースの乾いた胸に染み込んでいく。ぽろりと涙がこぼれる。


「本当に……、わたしでいいんですか……? エリオットさまにはもっとふさわしい女性がいるはずなのに……」

 エリオットがそっと体を傾け、ルースの顔を横から覗き込む。

「きみ以上にふさわしい人なんていない。きみが僕たちをつないでいてくれたんだよ」

 そう言って、エリオットは優しく微笑む。

 侯爵と夫人がしっかりと頷き、穏やかに微笑んでいる。


 三人の笑顔を見て、ルースも笑った。心の底から笑った。すると、ふと本物のルースも笑ってくれたような気がした。


 彼女の止まることのない涙を、夫であるエリオットが優しく拭った。





   ◇ ◇ ◇





 ルースが本当の意味でラドウィンター侯爵家の家族になってから間もなく、ルースの元実家のアクトン男爵家は多額の借金を返済することができず、あっけなく没落した。


 それでも万が一のことを考え、ルースは侯爵の当初の計画どおり、エリオットと一旦離婚し、男爵家とはきれいさっぱり縁を切って他家に養子に入ったのち、改めて彼と結婚し直した。


 離婚の書類を届け出て、法律で定められた再婚できるまでの期間が過ぎるまでの数日間、エリオットは片時もルースのそばから離れようとしなかった。そして期間が過ぎると同時に、すぐさまルースに結婚の書類にサインをさせ、最速で国に受理させた。


 そのときのことを思い出すとルースは呆れてしまうが、その反面、それほどまでに自分は望まれているのだと感じ、胸が熱くなる。


 こうしてなんのしがらみもなくすっきりとした気持ちでラドウィンター侯爵家の一員となったルースは、その後自分の能力を活かし、治癒ポーションを扱う薬商を立ち上げることにした。扱うポーションの中には、昏黒斑(ヴルバ)病専用のものもある。


 侯爵夫人が快癒したあと、病に悩む多くの人の役に立ちたいと思っていたところ、侯爵から「それなら薬商を立ち上げてみるのはどうか?」とアドバイスをもらったのだ。


 さすがに前世でも事業を起こした経験はなく、右も左もわからないルースだったが、侯爵やエリオットの助けを受けながら準備を進め、さらに侯爵夫人の治療の際にもお世話になった医師のハドリーにもお願いし、引き続き治癒ポーションの研究にも協力してもらえることになった。


 薬商を立ち上げたあとは、昏黒斑病専用の治癒力の高いルースのポーションが国内に流通するようになり、これまで忌避される対象で公にできなかった多くの人々が昏黒斑病を克服できるようになったと聞いている。将来的には病に対する偏見も減ることを願うばかりだ。


 また、ほかの治癒ポーションの効果も上々で、人伝てによい評判が広がり、侯爵領の新たな産業にもなっている。


 侯爵領の役に立てているのもうれしいが、それ以上に自分の作ったポーションで多くの人が元気になってくれることが、ルースにとっては何よりもうれしかった。


 そして、それからさらに半年後。


 思いもよらないことに、手をかざすだけで人々を治癒できる力に目覚めた乙女が現れたそうで、国中が大騒ぎになった。


 遠い昔に聖なる癒し手と呼ばれた聖女がいたらしく、その再来として国で保護することになったのだが、王太子が聖女に一目惚れをして求婚したため、来年には盛大な結婚式を挙げるそうだ。それもあって国は祝賀ムード一色に染まり、とても活気づいている。


 『聖なる癒し手』『聖女』と聞いて、ルースは前世の記憶で引っかかるものがあったが、やはりそれ以上は何も思い出せなかった。たとえ思い出せたとしても今さらだろう。


 それに、国中にさまざまな効能のあるルースの治癒ポーションがすでに普及していたため、今のところさほど聖女の力が必要になることはないようだった。




「あの、エリオット。ちょっと近い……」

「いいや、ルース、僕から離れるなんてだめだよ」


 つい先月、エリオットは祖父から爵位を継承し、新たなラドウィンター侯爵となった。


 その日、ルースとエリオットは国の中央宮殿で開かれた夜会に参加していたのだが、エリオットのそばをほんの少し離れたとき、ルースは他国出身だという若い紳士に声をかけられ、お世辞のような褒め言葉を並べられたあとでダンスに誘われた。


 すぐさま駆けつけたエリオットによってルースはその若い紳士がいる場から離されたのだが、大勢の人の目もあるというのに、歩きながらもエリオットはお構いなしにルースの腰を強く引き寄せ、身動きが取れないほど密着してくるのだ。


 エリオットのぬくもり、そして馴染みのあるコロンの香りがわかるくらいの距離。


 ルースは頬が赤くなるのを必死でこらえながら、

「ただの社交辞令よ、本当に誘う気持ちがあったわけじゃないんだから……!」


 自分で言うのも悲しいが、こういった夜会でルースがダンスに誘われることはほとんどない。既婚者であっても、あいさつや交流を兼ねて夫以外の男性と踊ることはめずらしくはない中、ルースが声をかけられたとしてもダンスのお誘いではなく、主に彼女の薬商で扱う治癒ポーションに関する仕事の話ばかり。

 きっと自分は女としての魅力に欠けているのかもしれない。


 そんなだから、さっきルースに声をかけてくれた親切そうな若い紳士にしてみても、たまたまそばにいたルースと目が合ったからとりあえず声をかけてみた、それだけだ。社交辞令と好意を含む誘いを見分けられないほど自分は鈍くはない。


 それなのにエリオットは断言する。


「いいや、絶対狙ってた。他国出身だって? だからルースが僕の妻だってことも知らずに、平気で声をかけたんだからね」


 そう言いながら、彼は向こう側にいた知り合いらしき中年紳士に視線を送り、呼び寄せるとそっと耳打ちする。おそらくラドウィンター侯爵家につながりのある家門の者だろう。何か仕事のことかもしれない。その紳士はひとつ頷くと、何事もなかったかのようにエリオットのそばを離れていく。


 エリオットはルースに向き直ると、真剣な表情で、

「僕がちょっと目を離すと、すぐに声をかけられるんだから。きみのことが心配で死にそうになる僕の身にもなってほしい」


(そんなおおげさな……)


 ルースは少しばかり呆れてしまう。ぐるりと周りを見て確認したあとで、

「あのね、そんなこと言ったら、あなたに熱い視線を送るご令嬢がどれほどいるか……。声をかけられるのだってしょっちゅうじゃない」


 こうしてふたりで話している間にも、会場の中にはエリオットからじっと目を離さない令嬢や、頬を染めてチラチラと視線を送る令嬢がざっと見ただけでも数人はいる。


 エリオットは一瞬キョトンとした表情を見せ、すぐににこりと笑い、

「嫉妬してくれてるの? うれしいな。でも心配しないで、ルース以外は目に入らないから」


 そう言うと、今度は打って変わって艶のある笑みを浮かべ、ルースの下ろしている髪の一房を手に取って口づけた。


 あちこちから、キャーという声が聞こえたのは気のせいだろうか。


「僕の妻はルースだけだ、これまでも、これからもね」


 その言葉とともに、エリオットから熱のこもった視線を向けられ、あまりの破壊力にルースは心臓が壊れるかと思った。


 その周りでは一際大きな悲鳴のような甲高い声があがったのだが、もうそれどころではないルースの耳には届いていなかった。


 さらにルースの知らないところでは、先ほど彼女に声をかけてきた他国出身の若い紳士が、ほぼ成立していた商談が急遽破談になりそうだと叫び、慌てふためきながら会場を出て行く。


 その若い紳士の後ろ姿に向かって、会場にいる誰もが同情するような哀れな視線を送る。


「……ああ、あの他国の若者はラドウィンター侯爵の妻への執着を知らなかったらしい」


 誰かがポツリと漏らすと、周りにいた者たちは心の底から同感するように何度も深く頷いた。


 ラドウィンター侯爵家の若き当主であるエリオットは、妻のルースをことさら溺愛し、その妻が呆れるほどいつもそばから離れなかったというのは、国内では有名な話である──。





たくさんの素敵な作品がある中、目を留めていただき、ありがとうございます!

また最後までご覧いただき、ありがとうございます。少しでも楽しんでいただけるとうれしいです(*ˊᵕˋ*)


短編をお届けしたいと思って取りかかったはずが、思いの外ボリュームのある作品になってしまいました…。


「面白かった」「ほかの作品も読んでみたい」「応援しようかな」など思っていただけましたら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆評価で応援いただけると、次回作の励みになります!リアクションもよろこびます!がんばりますので、よろしくお願いいたします(*´▽`*)


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― 新着の感想 ―
お祖母様が優しくて、意外に怒ると怖いのが和みました。 一家でいつまでもお幸せに!
侯爵が公平な人でよかった。 ルースとエリオットの様子もきちんと見ての婚姻継続の判断だったのだろう。 ただ、先にルースに一言相談すれば面倒も無かっただろうに… でも、その結果男爵家を没落させられたし、エ…
一度離婚届を置き見上げに居なくなったわけだし、エリオットの気持ちもわからんでもないなー……。 エリオットのことだから、男爵家を搾取してた商人も消してるんだろうか。間接的にルースを追い詰めて過労死させた…
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