常州鹿島灘鹿島神宮前・頼義、鞭声粛々、夜河を渡るの事(その二)
冬の海中を頼義たち先遣隊が慎重に進んで行く。幸運にもここまで一人の脱落者も無く通し果せている事にホッとする。最後尾の隊が足の着く浅瀬に杭を打ち、その突端に目印代わりの白布を結びつける。川の流れに沿って白布が幾条もの線となって後続の者たちが通るための目印となる。ここまでは順調に行っているが、この季節、冷たい海水にいつまでも長くは浸かっていられない。体温が奪い取られる前にできるだけ早く向こう岸までたどり着く必要があった。
「若様、若様」
ここまで水先案内人を務めてくれていた地元の郷士、眞髪高文が頼義に声をかける。
「ここです。ここから先があっしの申し上げた『竜宮門』になりやす」
頼義と金平を乗せた馬が足を止める。この辺りが浅瀬の切れ目、地元の漁師たちが夜船を出す際に座礁を避けるために通過するという海溝地帯らしい。金平が目を凝らしても、その向こうには静かに海に注ぐ河口の流れしか伺えなかった。
「再び浅瀬に着くまではどのくらいの距離がありますか?」
頼義は高文に尋ねる。高文は顔をしかめて
「おそらく、十間(約18メートル)をやや超えるぐれえかと思いやす。ここらは流れも早く、おかげで夜船を出すにしてもここはなるたけ避けるほどで」
確かに大船で十間の幅を通り抜けるのは至難の技だろう。逆に馬にしてみれば重武装の人間を乗せて泳ぎ切るには距離が遠すぎる。このまま進んでも馬は間違いなく泳ぎ切る事なく力尽きて流されて行ってしまうだろう。
頼義も一瞬躊躇する。だがこうしている間にも兵士たちの体力は見る見る冷たい海水に奪われて行ってしまう。
頼義は覚悟を決めた。
「金平」
「あいよ」
「刀で私の鎧の縅糸を切りなさい」
「はあ!?何言ってんだよお前!」
金平は頼義の突然の命令に色をなして怒鳴った。縅糸とは「札」と呼ばれる板金に通して鎧を形成するための組紐のことである。それを切れば鎧はたちまちまとまりを失いバラバラとなってしまう。
「鎧を脱ぎます。この難所を乗り切るには少しでも身を軽くせねば」
「そうは言うが、お前が着込んでる『澤瀉縅』の鎧は代々源氏の惣領が受け継いで来た由緒正しい逸物なんだろ!?こんなところで捨てるわけにも行くめえよ!!」
金平は思わず声を荒げる。頼義はそんな金平を無視して後続の者に号令をかける。
「皆の者よく聞け!これより先は馬も脚の届かぬ深い場所になる。鎧、兜、手甲、最低限の装備を残して全て脱ぎ捨てよ!鞍も外せ、少しでも身を軽くするのだ!!」
頼義の突然の命令に兵たちは驚き、動揺した。これから敵陣の真正面に向かうというのに鎧兜を脱ぎ捨てて丸裸でその前に立てというのか!?
「躊躇している暇はない。こうしている間にも敵に気づかれ、矢を射かけられてはこちらは鴨撃ち同然、一手の抵抗もできずに全滅ぞ。手柄を立てたくば我に続け!この衣川十町三十間を渡り抜いたそなたらこそ真の勇者である、その豪勇後世まで語り継がれようぞ。金平、やれ!!」
「ええいくそっ、わかったよ覚悟決めろや大将!!」
金平は小太刀を抜いて頼義が着込んでいる具足の縅糸をぶつりと切り落とした。胴丸が外れ、背当てと別れて海中に没する。頼義は自分で手甲を外し、肩の大袖を引きちぎって投げ捨てる。愛用の大弓と矢筒、そして叔父頼光より授かった安綱の小刀だけを残して、頼義は装備のほとんどを海に投げ捨てた。
「者共、私に続け!敵は眼前であるぞ!!」
怯える兵たちに発破をかけて頼義は馬を海に投ずる。内衣一枚の襟元がはだけ、晒できつく巻いた胸元が月の光に青く浮かび上がる。その壮絶な不退転の決意の姿を見て、金平は場違いにもその姿の美しさに思わず見入ってしまった。
飛び込んだ馬は一度大きく海中に沈み、再び海面に顔を出した。金平は馬を降りて素泳ぎで馬の轡を取る。馬自体の浮力でなんとか浮いてはいられるようだ。金平と頼義は二人で手綱を操り、馬を泳がせて向こう岸を目指す。後続の兵士たちも指揮官が自ら率先して飛び込んで行ったのを見ると、慌てて全員具足一式を脱ぎ捨て、身一つとなって頼義に続いて行った。
「こりゃあ、トンデモねえ殿様に従っちまったなあ」
その光景を呆然と見ていた眞髪高文も、いよいよ覚悟を決めて上半身をもろ肌ぬぎとなって裸馬を泳がせた。
狭い海域を通る潮は流れが早い。しかもどうやらこの開口部は下に沈むほどその「門」の幅が狭まっているようである。こうなると海面と水中での流れの速さも違ってくる。頼義と金平は馬が流れに持っていかれないように必死で手綱を繰った。
(まだか、まだか……!?)
頼義も金平も意識を失いそうになりながら永遠に続くかと思われるような距離を泳いで行く。馬が体力の消耗とともに少しずつ流れに負けて行く。馬が水を飲み込んだらしく、急にむせて荒く咳き込む。その一瞬、力を抜いてしまったのか、馬はどうという音ともに流れ込んで来た急流に押し負けて河口へ流されて行く。思わず手綱を手放してしまった頼義もそのまま流れの勢いに持って行かれてしまう。
「!!」
金平は手を伸ばすが一瞬の差ですり抜けて行く。
「殿!!」
金平の声が響くのが聞こえる。
(もはや……これまで、か……)
冷たい海水に髪の先まで没した頼義が完全に意識を失いかける。このまま失神してしまえばその身は完全に潮に飲まれて鹿島灘の沖にまで流されて行ってしまうだろう。
(父上……!)
最後に頼義の頭に浮かんだ言葉は、主命を果たせなかった事に対する父への謝罪の言葉だった。




