樹の下で
私はベットから起き上がると石造りの床へ降りた。床の冷たさが私の不安を助長する。音を立てないように気をつけて廊下にでると、しんと静まり返った建物内を歩いた。
私たち研究員はこの宿舎で暮らしていた。石造りの建物は築200年以上たっているという。私はついこの前まで同期のルナと二人で暮らしていたが、ルナがいなくなってしまった今は広い部屋も物悲しく、早いうちに部屋を変えてもらう予定だった。
中庭に面した廊下を歩く。三階のここからは公園のようになった中庭が見下ろせる。私は階段をおり、中庭へと続く扉を開けた。木製の大きな扉は重く、いつも現実との境界のようだと思っていた。ルナはいつもこの扉の真鍮製のドアノブに着いた鍵穴から中庭を覗いていた。
「ここから見える景色、おとぎの国みたいなの。私大好き。」
そんな子供のように無邪気に笑うルナのことはこの宿舎に住む同僚たちも大好きだった。
ルナはとても感情が豊かだった。よく笑い、よく泣く。どんなことにも正直なルナが私は大好きだった。ふわふわした茶色の髪が頬にかかり、くるくるとした瞳がとても可愛らしく子リスのようだったのだ。研究員としては珍しく洋服にも気を使っていた。
中庭に出ると薔薇の花があちこちで咲いている。木陰を作るように木々も植えられ整備されているが、私はその中でも一番大きな樹の下ベンチに腰を下ろした。このベンチに座って私とルナは語り合った。
「コウ、コウは今幸せ?」
ルナのこの言葉が私は忘れられない。私はルナのこの問いかけにすぐに答えることができなかった。幸せって何?確かに自分がとても幸せなのは分かっている。でも、いつも何かが足りないような、大切な何かを忘れているようなそんな気持ちになることがある。私が答えられずにいると、ルナは楽しそうに続けた。
「私は幸せだよ。うまくいかないこともあるし、悲しい日もある。憂鬱な日もあるけど、なんでもうまくいくことが『幸せ』って事じゃないでしょ?自分が幸せって思えたら幸せなんじゃないかな。」
ルナは私に言った。ほんの少しルナ自身に言い聞かせるように。
「ねえ、コウ。」
ルナは私に少しだけ向き直って続けた。
「『辛い』と『幸せ』っていう漢字は線が一本あるかないかの違いなの。ほんの少しの違いなんじゃないかな。」
ルナの茶色の瞳には真剣な色が浮かんでいた。
そう、今思えばそんな話をしているあたりまえの時間が一番幸せだったと思う。