2020(2)
週末、私は美月を連れて姉の家に向かった。ある頼みごとをするためにだ。
しかし美月はその頼みごとに関して不服があるようで、道を歩いている最中、愚痴を零した。
「お父さん、わたし留守番くらいできるよ」
「子供を夜遅くまで一人にしておくわけにはいかないだろ」
「じゃあさ、いまみたいに夜は家で仕事すればいいじゃない」
「会社でやらないと効率が悪い作業もあるんだ」
明美が病に伏せてから、私は一切の残業を断ってきた。だが、勤続十五年を超えて相応のポジションにいるいま、これからもずっと早くに帰るというわけにもいかない。そこで、平日は私が帰宅するまで美月を姉の家に預けることにしたのだった。
ただし、それは表向きの頼みだ。実際には別のことを考えていた。
話は二日前に遡る。
その夜、私は、メリーさんと再会したのだった。
「……お久しぶりね。あなた、ずいぶん老けたわね」
「君は相変わらず可愛らしいね」
「あら、口が上手くなったみたいね」
そうは言いながらも、メリーさんは顔を綻ばせた。
「ところで、なにをしに来たんだよ」
「そんなの決まってるじゃない。殺しに来たのよ。怖いでしょ?」
私は椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩きながらメリーさんに語りかけた。
「怖いな。恐ろしいよ。俺はいま、仕事は順調で子供もいて、とても満たされている。幸せだ。君は幸せな人間を殺すんだろ? どうにか許してもらえないかな」
そして、彼女の目の前で足を止めた。
メリーさんは冷めた面持ちをして、私の顔を見上げた。
「あなた、口は上手くなったみたいだけど、嘘は下手くそね」
「どういう意味だよ」
「そういう意味よ。あなた、死にたがってる」
「そんなわけないだろ」
「駄目よ。バレバレだわ。心で泣いているのが手に取るように分かるもの」
胸の奥の想いを引きずり出されるような感触がした。それでもどうにか堪え、更に反論をしようと口を軽く開いてはみたが、その瞬間、限界に達してしまった。
気が付くと、私は床に膝をつき、手をつき、必死に懇願していた。
「殺してくれ。いますぐ、できるだけ早く、一秒でも早く殺してくれ。明美のいない世界は地獄だ。見るものはすべてドス黒く、吸い込む息は気道を焼く。苦しいんだ。もう生きてはいけない。頼むから殺してくれ、お願いだ……」
するとメリーさんは、腹を抱えてキャッキャッと笑い始めた。
「いい歳したおじさんがみっともないわね。面白いわ」
「楽しませたお礼に願いを叶えてもらえないか」
「嫌よ。幸せになるまで殺してあげない」
「幸せになんかなれるわけないだろ!」
声を荒げると、彼女は再び冷ややかな表情を見せた。
「おもちゃが一つ壊れたくらいで狼狽え過ぎよ」
「……ふざけんなよ……モノノケ」
「なにを言われようと、いまの、あなたには、手を下すつもりはないわ。死にたいのなら自分で方法を考えなさいよ。あたしは好きなようにやらせてもらうわ……」
そうして今日に至る。
死にたいのなら方法を考えろ。モノノケの言いなりになるのは癪に障るものの一理あると考え、この二日間、死について思いを馳せた。
あの晩は衝動的にすぐにでも殺して欲しいと願ったが、改めて考えてみれば、その前に解決しなければならない問題があった。美月だ。急に両親を失えば路頭に迷わせてしまう恐れがある。
それを回避するため、私の死後にどうすれば良いか、道筋を作ってやることにした。
美月は私と違って強い子だ。明美が息を引き取った瞬間も葬儀の時も、涙を流すことはなかった。私が死んだとしても、同様に、悲しみに暮れることはないだろう。生活の基盤さえ整っていれば、どうにでもなるに違いない。
幸い私には家庭を持つ姉がいる。いまのうちに頻繁に美月を預け、なかば既成事実を作っておけば、私の死後、姉の家の娘として育てられることだろう。養育のための貯えはある。姉としても文句はないはずだ。
準備が整い次第、私は明美のもとへ逝く。
時期は納骨を終えた頃が良いだろう。
つまり四十九日の時。
およそ一ヶ月後だ。
姉の家に着くと、まず少年たちの騒ぐ声が私と美月を出迎えた。
次いで、姉の声がする。
「こら、拓馬! 春馬! 静かにしなさい! 直樹おじちゃん来たよ!」
姉には三人の子がいる。いずれも男の子だ。騒いでいたのは次男と三男らしい。確か次男は既に中学生だったと記憶しているが、ずいぶんと落ち着きがない。
「直樹、ごめんね、うるさくて。まあ、上がってよ。ほらほら、美月ちゃんも」
通されたのはダイニングだった。私と姉は向かい合わせに席に着いた。美月には、話が終わるまで姉の子供たちと遊ぶよう伝えた。
「……家が近いんだし、預かるよ。あんたの帰りが遅いなら夕飯も食べさせようか?」
用件を伝えると、すぐにそういう返事があった。
「それは助かるよ。いまだに料理を作るのに苦労してるんだ」
「あんた不器用だもんね。よく頑張ってると思うよ」
そう言ってから姉は相好を崩し、私の顔をしみじみと眺めた。
「直樹、それにしても老けたねー」
「お互い様だろ。姉ちゃんは体型が母さんに似てきたよ」
「うっさいな。あんたは目が垂れたよね。というより、目の位置が少し下がったんじゃない? 昔はこの辺に目があったでしょ」
ペチペチと額を叩かれる。
「痛ってえな。そんなところに目があるわけないだろ」
その手を振り払うと、再び姉は私の顔を眺めた。
「元気そうで良かったよ。あんた、その顔をお母さんとお父さんにも見せてあげてよ。もう長いこと実家に帰ってないでしょ?」
「母さんと父さんとは、先月、会ってるよ」
「先月? ああ、葬儀の時でしょ? あれは会ったうちに入らないでしょ。それに、あの時のあんた、いまにも死んじゃいそうな顔しててさ、変な気を起こすんじゃないかって心配したよ。お母さんもお父さんも心配してるから、実家に顔を見せに帰ってね」
「目が下がった息子の顔なんて、いまさら見たくはないだろ」
「馬鹿ね。親からしてみりゃ、子供がいくつになっても可愛いもんだよ。ほら、うちの長男、高校生でしょ? 図体はでかいし、足は臭いのよ。それでも可愛いもの」
私は美月のことを可愛いと思っているだろうか。
彼女が生まれた時の喜びと、初めて抱き上げた時のぬくもりは、よく覚えている。三人で過ごした日々もそれは幸せだった。しかし美月は、明美の亡骸を澄ました顔で眺めていた。その表情のなさは、まるでモノノケのそれだった。
「貴子お姉さん、コンセントをお借りしても良いですか?」
美月の声がした。姉の子供たちと遊べと言ったのに、持参したタブレットで、またゲームをしていたようだ。
「良いわよー。どんどん使ってね。あちこちにあるから全部使っても良いからね」
美月は頭を下げ、走り去った。
「美月ちゃん、可愛いよねー。小さい頃のあんたとは大違い」
「俺のほうがまだ可愛げがあっただろ」




