2020(3)
休みが明けて早々に、さっそく美月を姉の家に預けることにした。そのため、急を要する仕事があったわけではないが、あえて残業をした。
久しぶりに遅くまで職場に残っていたことで、同僚たちから、「無理をしないでくださいね」と、心配の声をかけられはしたが、およそ一ヶ月後に多大な迷惑をかけてしまうことを思えば、いまのうちに会社に貢献しておくことのほうが、むしろ気持ちが楽だった。
夜八時を過ぎて、作業を切り上げる。オフィスにはもう誰もいない。オリンピックに関連した案件がいくつかあったが、遅くまで仕事をする者は少ない。
近年、コンプライアンス強化の一環として労働時間管理が徹底されている。私が若かった頃はサービス残業が推奨されていたものだが、時代は変わった。いまそんなことをさせれば、厚労省からお咎めを受けかねない。
荷物をまとめて席を立つと、スマートフォンが震えた。メールの着信だ。通知欄を開いてみると、それは美月からだった。
『夕飯は食べさせてもらったよ。お父さんもどこかで食べてきてね』
計画は、滞りなく進行している。
美月に言われた通り定食屋で軽く食事を済ませてから姉のもとへと向かう。時間は夜九時を過ぎていた。
家に着くと姉は、社交辞令かもしれないが、「良い子にしてたよー」と言って機嫌良さそうに笑った。当の美月も笑顔を見せ、胸の前で手を振る。
「貴子お姉さん、またねー」
私たちは、バス停に向かって歩き始めた。
美月には徒歩で姉の家まで行ってもらった。子供の足では小学校から三十分以上かかるが、そもそも自宅から小学校までがそう近くもないので、いままでに比べて大幅に負担が増えたというわけではない。とはいえ、姉の家から直接自宅までとなると、日中ならばともかく、こんな時間に歩くにしては結構な距離だ。ましてや今後頻繁に通うともなればなおさらだ。そこで、帰りはバスに乗ることにしたのだった。
到着した車両の最後列に座ると、美月はさっそくタブレットを取り出した。
そんな彼女に、そっと尋ねる。
「今日はどうだった?」
美月はゲームを操作しながら淡々と答えた。
「別に普通。男の子たちが少しうるさかったかな」
「上手くやっていけそうか?」
「うん。貴子おばさんは面白いし、ご飯は美味しかったし、なんとかなるよ。それに、上手くやっていかないといけないんでしょ……」
その言い方はどことなく不満げだった。
「なにか嫌なことでもあったか?」
「別に……ただ、これからはお父さんと二人きりで生活するんだって心構えをしていたのに、振り出しに戻っちゃったような気がしただけ」
「それは、悪いことしちゃったな」
「平気。なんとか、するよ」
男に比べて女性のほうが現実的だという言説を耳にしたことがある。根拠のない偏見程度にしか考えていなかったが、あながち間違っていないのかもしれない。明美は将来のための貯えを残していたし、美月も、幼いながらも、これからのことを考えている。
それに引き換え、自分は。
「……ねえ、お父さん」
不意に声をかけられる。振り返ると、美月がこちらをじっと見つめていた。
「どうした?」
「貴子おばさんが、お爺ちゃんとお婆ちゃんの家にも行ってねって言ってたよ」
「またその話か……」
美月にまでお願いをするほどだ、それだけ実家に顔を見せに行って欲しいのだろう。
「そうだな。次の週末にでも実家に行こうか」
死んでしまえば、もう会うことはできない。その前に一度くらいは両親に会っておくのも悪くはない。そう考えたのだった。
私の返事を聞いた美月は小さく微笑み、そしてゲーム画面に視線を戻した。
滞りない。滞りなく、時間が流れていく。
『……あら、直樹、急にどうしたの?』
スマートフォンの電話口から母の声がする。
「ああ、急で申し訳ないんだけど、明日さ、そっちに行こうと思って」
連日に亘って遅くまで仕事をしていたため、実家への連絡が直前になってしまった。それでも母は快く受け入れてくれて、二三言葉を交わすと、こう言ってきた。
『美月ちゃんも一緒でしょ? 泊っていきなさいよ』
実家は埼玉だ。それほど遠くはないので日帰りのつもりでいた。ところが、子供部屋が空いているから一泊していけと、強引に押し切られてしまった。
とはいえ、あまり長居をしたくはない。結果、明日の夕食頃に行くということになった。
電話を終えてから、ソファに寝転ぶ美月に声をかける。
「明日は遠出をするから、もう寝なさい」
「えー、まだ早いよ」
「ここ最近、ずっと寝るのが遅かっただろ。今日くらいは早く寝ろよ」
「……分かりました」
なにか言いたげではあったものの、彼女は素直に自室に向かった。
気持ちは理解できる。姉の家に行って就寝時間が遅くなったのも、実家に行くために早くなったのも、すべては私の都合によるものだ。文句の一つも言いたいところだろう。ただ、強く反論をしてくるようなことはない。
美月は、心構え、という言葉を口にしていた。それはいわば、覚悟。
休みの前日ということもあって今日は残業をしなかったが、昨日までの四日間については美月を遅くまで姉の家に預けていた。
急な環境の変化にもかかわらず、彼女は、最初こそ不服を漏らしていたものの、いまではごく普通に日々を過ごしている。曰く、タブレットがネットワークに繋がりさえすれば問題ないそうだ。元々明美に似て気丈かつ社交的な性格ではある。だがそれよりも、新たな生活に適応しなければならないという覚悟によって、そう振る舞えるのだろう。
思い返してみれば、明美が息を引き取った時の表情も。
冷酷なわけではない。そんなはずはない。美月は、美月なりに、考えていただけだ。嘆くよりも将来を見据えることのほうが大事だと、覚悟していただけに違いない。
ならば、父親である私は娘の意志に応えるべきだろうか。否、それは無理だ。私はもうすぐ、死ぬ。間違った選択であることは分かっている。最低だ。最悪だ。しかしそうせざるを得ない。『生きる』とは、能動的な行為だ。目的に向かって進む歩みだ。明美の消えた世界で目的を見出せるとは思えやしない。
「迷うんじゃない……」
もう決めたことだ。滞りない。滞りなく、進んでいる。
その時、背後から鼻で笑うような音が聞こえた気がした。慌てて振り返ると、赤いワンピースの裾が廊下へと吸い込まれていくのが見えた。
まさか、と思いつつ後を追う。しかしそこには何者もいなかった。暖色のダウンライトが仄かに闇を照らしているだけだ。当然だ。電話はかかってきていない。パソコンに至っては電源さえ入っていない。この状況で、メリーさんが、現れるはずがない。
死への羨望が見せた幻だろうか。あるいは、知らずしらずのうちに抱いた恐れによるものだろうか。否、恐れているはずはない。私は、確かに、死にたがっている。
いずれにしても少し疲れているようだ。
私は、自嘲気味に笑い、部屋の明かりを消した。




