ドヴェルグヘイムの英雄
「よお、新入り。お前も捕まった口か」黒髪のエルフが軽薄そうに話しかけてきた。だから僕は黙って頷いた。母さんから、ここでは皆と仲良くするように、と言われているから。
足の裏から伝わってくる石畳の触感が冷たい。
「お前、まだ小せぇな。60くらいか?」黒髪が訊ねてくる。
「ううん、43」僕は深く考えず素直に答えた。
「43歳!?にしては、デカくねぇか?」黒髪は訝しげに片眉を上げた。
何かマズイことでも言ったのだろうか。途端に不安になる。
「こら、ダニエル!新しく入ってきたコを虐めないの!」
見ると茶色い髪の女子が眉を吊り上げていた。ダニエルと呼ばれた黒髪よりも年上に見える。その後ろには赤い髪の女子が金髪の幼子の手を取って立っていた。
「いや、だってよ、43には見えねぇんだもん。ハーフじゃねぇのか」そう言いながら黒髪が冷たい眼差しを向けてきた。
それに赤髪の女子が反論した。「ハーフじゃないと思うよ。わたし、見たことある。ハーフの43歳はもっと大きいよ」
「ほら!姫もこう仰ってるじゃない!ダニエルが悪いんでしょ!個人差だってあるんだから」
「へいへい。俺が悪ぅございました」
「そうじゃないでしょ!そのコに謝んなさいよ!」
「ったく、うっせぇな!何でお前に指図されなきゃなんねぇんだよ!」
「私の方が魔法も上手いし、歳上なんだから、トーゼンでしょ!」
「それがなんだってんだ!ここじゃ魔法なんて使えねぇだろうが!」
黒髪の言う通り、この空間では魔法は使えない。使えないように領主権限が働いているからだ。
この空間は『箱庭の牢獄』というもので出来ている。セイズ級の空間魔法の一種で、『箱庭の城』と対を成す。『箱庭の城』は中のものを守る為のもの。侵入することは難しいが、出ることは容易に出来る。『箱庭の牢獄』はその反対。中のものを外に出さない。術者の許可なく出ることは困難だ。魔法が使えれば可能性はあるけど、領主権限で制限がかかっているから、どうやっても出られないようになっている。
「悪かったよ、俺はダニエル・メリルオトだ」ばつ悪そうに黒髪が自己紹介してきた。だから僕も母さんから名乗るように言われた名字を口にした。
「パトリック・ヴァルト」
「ヴァルト?!ヴァルトってあの、公爵家の?」茶髪が鋭く反応した。
「うん」母さんが言うには、僕の父さんはヴァルト家の御曹司だそうだ。
「へぇ。名家ってのは生き残れるもんなのかね」黒髪が意味深ににやついた。「なぁ、姫」
「もうわたしは姫ではないわ。国は…滅んだんだもの」赤髪の女子は寂しげに目を伏せた。しかし、気丈に笑顔を作る。
「わたしはフレイヤ。フレイヤ・アルフヘイム。で、こっちのコは─」そうして右手の先に繋いだ幼子に目をやる。その子は繋いだ手を離すと、フレイヤの脚にぎゅっと抱きついた。警戒した目を僕に向けてくる。「─もう、恥ずかしがり屋さんね。このコはセリシアよ。セリシア・エルヴァスティ」
続いて茶髪も挨拶してきた。「私はアマリア・テルヴァハルユ!よろしくね、パトリック」
僕はしばらく、この子ども達だけで出来たグループに身を寄せた。『箱庭の牢獄』の中には他にも大人のエルフが幾人も居たが、その姿は日に日に減っていった。トロールの獄卒がどこかに連れていっていた。魔法さえ使えればどうと云うこともない相手でも、この空間ではそうはいかない。あの膂力に敵うエルフはいなかった。
そうしてある日、遂に最後の大人も連れていかれた。牢獄に残されたのは僕達だけになった。
翌日、ドワーフが一人やって来た。僕達を一列に並べると口を開いた。
「貴方達には選択肢を与えましょう。このまま、ここで死ぬまで過ごすか、或いは仕事をするか」
「そんなもの、選択肢ねぇじゃねぇか」ダニエルがすかさず反論した。
フレイヤはじっと考え込んでいたが、やがて首肯した。ドワーフのことをじっと睨む。「いいわ。わたし達に何をやらせようと言うの?」
ドワーフは申し訳なさそうに耳をぱたぱたとさせると、意を決したように顔を上げた。
「貴方達には楽園の管理をお願いしたいのです。今日から貴方達は新たなワルキューレ、『クライム・ヘイヴン』よ」
「─もう逃がさないわ。フレイヤ」その声を聞いただけで、心臓が凍りついた。金色の髪に白すぎる肌。全身を真っ黒な衣装で包んでいる。その黒いブーツがかつかつと音を立てた。
岩壁のような本棚の間を、少女がゆったりと歩いてくる。彼女が歩を進める度に、周囲の空気が冷えていくように感じた。
何で、何でここに…。かちかちという音がうるさい。何の音かと思うが、すぐに自分の顎が震えていることに気付いた。知らぬ間に下の歯が上の歯を叩き続けている。その事実が更に恐怖を煽ってくる。
「…フレイヤ?フレイヤって言った?あなた誰よ!」ソフィアが大声を上げた。その彼女の方に手を伸ばす。ソフィアのジャケットを強く握った。
急にジャケットを掴まれたソフィアは驚いたらしかったが、俺が震えていることに気付くと俺の手に自分の手を重ねて優しく握ってくれた。
「…レイ…。…そう、こいつね?こいつが!アレックスを!!」ソフィアがきっと少女を睨み付けた。俺の手を握る力が強くなる。
「あらフレイヤ。脅えているの?可愛らしいところもあるのね。そちらのお巡りさんにそんなに縋っちゃって」少女がくすりと笑った。
「何がおかしいのよ!この人殺し!」
「あら、何のことかしら?お巡りさん怖いわ」
その飄々とした少女の態度に、ソフィアは我慢が利かなくなったらしく、椅子を蹴飛ばすような勢いで立ち上がろうとした。しかし、それを俺は必死に制した。「ダメだソフィア!逃げよう!早く!」
「バカ言わないで!逃げないわよ!逃げられるわけない!絶対に逃がさない!!」ソフィアは今すぐにでも飛びかかりそうだ。
「おやおや、これはストレングス刑事じゃないか。お昼以来だな」突然背後から男の声がした。振り返ると高校生くらいの男がにやにやしながら近付いてきていた。漆黒の髪に透き通る白い肌が目立つ。少女と揃えたように全身を黒で覆っている。
「あんた、誰よ!」名前を呼ばれたソフィアも振り返ったが、見覚えはないらしい。
「あー、この格好じゃ分かんないか」男はそう言うと徐に敬礼して見せた。「警察国レイクダイモン所属、コリンソス領アブア村駐屯署のドリス・カッペリーナ巡査であります!」
俺は目をひんむいた。こいつ、あの時の─。
「あんた…!あんたがドリスを殺したのか!」ソフィアの指が俺の手に食い込む。
その時、不意に頭の後ろで、かつんと音がした。同時に背後から声がする。「プロテクション魔法くらいしなさいよ」
頭の上で破裂音がした。手に食い込んでいた力がなくなり、右の方で何かが崩れる音がする。
音がした方を見ると、隣にいた筈のソフィアが少し離れたところの本棚に背中をつけて倒れ込んでいた。辺りに白い紙がいくつも舞っている。
「あ………っかぁ…」ソフィアが苦しそうに悶えた。
「全く、だらしのない。あなたストレングスなのよね?歴史に名前を遺した英雄?とかの末裔なんじゃないの?ミュテイネラにいたのと云い、ストレングスなんていうのは大したことなかったのね」
「ソ、ソフィアっ!?」俺は慌てて彼女に駆け寄ろうとしたが、立ち上がる前に後ろから襟を引っ張られ、椅子に戻された。
「こらこら。どこ行くんだよ。じっとしとかねぇとダメだろ?フレイヤ」ドリスの偽物が、とはいっても最早ドリスには化けていないのだが、彼が俺の首に腕を回しながら笑いかけてきた。触れられた箇所から鳥肌が立つ。
「あん…た…。あんたが…アレックスを…!」ソフィアはどうにか体を起こそうと、本棚に寄りかかってもたついている。
そこへ少女がかつかつと靴を鳴らして近付くと、右脚を振った。
ソフィアの顔が仰け反って飛ぶ。後頭部を本棚にしたたかに打って、前のめりに倒れた。
呻くソフィアへ少女が更に右脚を、振る。爪先が腹に食い込む。ソフィアはぐえ、と言いながら本棚に背中を打ち付けた。
「やめろ…!やめてくれ!」気付くと俺は口走っていた。それでもソフィアへの暴力は止まらない。
少女がソフィアの左肩を思い切り踏みつけた。途端に酷い悲鳴が上がる。
また右脚が振られた。ソフィアの腹を踏むようにする。呻き声を上げたソフィアは痙攣を起こした。口から吐瀉物が飛び散る。さっきソフィアが食べたもの。アレックスの分もと、詰め込んで咀嚼したパン、スープ、フルーツ、肉。ソフィアが懸命に消化しようとしていたものが、どろどろと広がった。
「うわ、汚ならしい。あたしのブーツに付いたらうしてくれるの、よ!」少女がソフィアの脇腹を踏む。動物的な悲鳴が上がった。
「やめて…やめてくれ……頼むから…」いつの間にか俺は泣いていた。ソフィアを助けないと。そう思うのに、首根っこを掴まれた俺は身動ぎさえ出来なかった。動けと何度も命じても、反応しない体。何て情けない。泣くことしかできないなんて。
少女は俺の懇願を合いの手のようして脚を奮った。ソフィアの叫び声がどんどんと小さくなっていく。
「─おい。その辺にしとけよ。1日に何人警察殺すつもりだよ」ドリスの偽物の男が俺越しに少女に投げかけた。するとようやく、暴力が止んだ。少女が振り返る。
「プロテウス、あんたも殺したんでしょ?どの口でいうのよ」
「それ3日前な。てか、あれ仕事だし。お前のそれも、夕方のも業務外だろ」
「だから何よ。そこのフレイヤ殺すの邪魔したんだから、仕様がないでしょう」
「だからって仕事以外で殺すなよな」そう言う男を見る。もしかして彼は仕事だから仕方なしにしているのかもしれない。そう思ったが、違った。
「今後そいつらの依頼もあるかもだろ?だったらその分タダ働きじゃねぇか。勿体ねぇだろ」
諌められた少女は、分かったわよ、とソフィアから離れてこちらに来た。そうして見えたソフィアは虚ろな目で顔から血を流し、口は吐瀉物で汚れ、服は擦りきれ、左脚は変な方向へ曲がっていた。ぴくりとも動かない、変わり果てたその姿に、戸惑って震えた。
「でもこのコ、何か二つ名もあったんじゃなかったかしら?手応えすらなかったのだけど」
「“豪腕のソフィア”な。手当たり次第に犯人殴るし、下級魔法なのに結構威力もあるってんでそう言われてるけど。まあ、エルフと比べちゃ可哀想だろ」男が軽やかに嗤った。俺の頭の中で何かが沸騰する。怒りと恐怖で頭が変になりそうだった。
「さて、と」少女が俺の前で立ち止まった。いつどこから取り出したのか、右手には大きなナイフ然としたものを持っている。その刀身はしかし、黄ばんだ白をしていて、まるで何かの骨のようだった。「では殺すわ」
あまりに呆気のない物言いに、理解が遅れる。少女がナイフを振り上げてようやく悟った。
「おいおい、まぁ待てって」男が、俺の首に腕を回したまま少女を制した。
「どうして?ようやっと見つけたのだから、さっさと殺してしまいましょう。裏切り者に弁明は必要ないわ」少女は不満げに首を傾げた。
「確かにそうなんだけどよ、こいつ、自分が何で殺されるのかも分かってないっぽいぜ」反省の色もねぇもん、と俺の頭をわしゃわしゃとしてくる。それだけで俺の体は縮み上がった。
「そらそうよ。記憶喪失なんでしょ?プロテウス、あなたがそう言ったんじゃない」
「そうそれ。でもさ、それじゃあダメなんじゃねぇか?自分の仕出かしたことも分かってねぇ奴殺してもさ。それよりも、ちゃんと思い出して、理解して、その上で反省して、哀願してくる奴を殺す方がいいだろ?」
俺は男が言っていることが全く分からなかった。しかし、少女の方は納得したらしい。彼の提案に最初は眉間に皺を寄せたものの、少し思案すると嬉しそうな笑みがじわじわと広がった。
「それもそうね。そちらの方が面白そうだわ。フレイヤのちゃんとした泣き顔をぐちゃぐちゃにするのは愉しそうね」
その笑顔に戦慄する。しかしそこで、少女が、でも、と言い淀んだ。「でも、あまり時間もかけてられないのではないかしら」
「大丈夫だろ。ミトレシアだからあいつが居るかもって思ってたけど、居ねぇみたいだし。じっくりやろうぜ」
「あいつ?…まぁいいわ。ならそうしましょう」そう言って少女がにっこり笑った。状況が違えば愛らしさすら感じていたかもしれない、きれいな笑顔だった。
「よし決まり!じゃあ、そういうわけだから─」俺の頭を撫で付けていた手に急に力が入った。視線がぶれる。右頬に衝撃があった。同時に脳も揺れる。じんわりとした痛みの向こうに、頬に触れる机の冷たさがあった。「─ちゃっちゃと思い出そうか、フレイヤ」
男の手が、机に向かって圧迫してくる。必死に抵抗しようと両手を机についてみたが微動だにしない。圧迫が徐々に強くなる。それに合わせて痛みも増していく。
頭が割れる。そう思った。目の前にある、こちらを覗き込んでくる男の顔がちかちかとした。
そこで男が不意に声を上げた。「ん?何だこれ─」間もなく体を揺らして笑い始めた。圧力が少し緩む。「─お前、こんなの着けてんのか」
「おい、見ろよこれ」男はそう言いながら俺の左手に嵌まった腕輪を指でつついた。
「…なにそれ。上級魔力抑制錠?何でそんな玩具着けてるの」
「エルフにこんなもの通用しねぇのにな」警察もバカだよな、と男は上機嫌な声を出した。「で、何でこんなの着けてんだよ。ふざけてんのか?」
「お…俺はフレイヤじゃない…魔法なんて使えないんだ」無理矢理机に突っ伏された状態で、どうにか声を荒げた。だがその声がか細く震えていて、落胆する。
俺の言葉を聞いた二人は初めきょとんとしたものの、すぐに腹を捩って笑い出した。
「ちょっと…!笑かさないでよ、もう!」
「ははは!…お前、記憶無くして面白くなったな」机に押し付ける力がまた強くなる。
「本当に魔法なんて…!…うぐっ!」痛みで言葉が続かない。辺りが暗くなっている気がする。
頭蓋骨が軋み、悲鳴を上げる。それがそのまま喉を揺らす。けれど蚊の鳴くような呻きが漏れるだけだった。光が点滅する。視界が白と黒が交互するだけになる。意識が遠く─。
「…なぁメドゥーサ、記憶喪失って魔法も使えなくなんのかな」
「知らないわよ。あたしに聞かないで」
「んー…まぁいっか。思い出させることには違いないんだし。じゃああれか。プロテクション魔法も使えないっことか。…あんまり強くやると、死んじまうのかな」男の圧力が弱まった。視界に光が戻る。ようやく水面に顔を出せた時のような解放感が満ちる。辺りは随分と明るい白で霞んでいた。
朦朧としている中、後頭部の毛根が強く引っ張られ視線が滑った。喉が伸びて弱々しい息が漏れる。左耳の近くで男の声がした。
「じゃあどーすかなぁ。んー…」
「記憶を刺激してみるとか?ありきたりではあるけれど」
「記憶ねぇ。…じゃあやらかしちゃった辺りとかからいくか」男の声のトーンが下がる。「ミーミルの首、盗っただろ」
ミーミル…何だったか。どこかで聞いた覚えが…。頭の動きが鈍っていることが分かる。
取り留めのないイメージや絵が浮かんでは消えた。トーマスの鼻。村長の溶けた顔。ユッコの笑い声。シャーロック・ホームズの冒険の表紙。割れたマグカップ。温かく乾かされた服。ケンタウロスの馭者。ソフィアの赤く腫れた目。絵里愛の金色の髪留め。
そこで思い出した。先程、ソフィアが見せてきた本、あのペンダントのことか。
それを盗んだとは、どういうことか。
「どういうこと、と来るか」男の返答がある。いつの間にか口に出ていたらしい。「てことは、ミーミルの首自体は覚えてるんだな」後ろ髪を引っ張る力が強くなる。首の骨がみしみしと鳴った。
このままでは首がへし折られる。そう恐怖に駆られた俺は必死に、 さっきの本が開いていた筈の辺りを手で叩いた。
「…あ?なんだ、この本読んだってだけか」男がその本を認めたらしい。首にかかっていた負荷が弛んだ。覚束ない安堵が俺の喉を弱く鳴らす。
「じゃあ、これがどういうものかってのは分かんねぇ訳か」
天井の巨大なシャンデリアがひっくり返って見える。天井から生えるその根本は鎖。その先で幾つもの蔦が絡まったような球体の装飾、そこから無数の光源へと枝が噴水のように広がっていた。先端の光源付近が膨らんでいるため、無数の蛇が頭を垂れているようにも見える。蛇の群れで出来た枝垂れ柳だ。
俺の反応がないからか、男は俺が知らない、と判断したらしい。小さく溜め息を吐いた。
「これは、魂を集める収集箱だ」
魂の収集箱?何を言っているのだろう。
「ワルキューレ」男は構わず次の言葉を口にした。しかしその単語も当然ながら知らなかった。
正面から、つまり天井を見上げたままになっている俺の顎先の方から、紙を捲る音がした。少女が暇を持て余しているのかもしれない。
男がむしゃくしゃと自分の髪を掻く音がする。「あーもう!お前が提案したんだろ!楽園にある筈のミーミルの首を盗めばいいんじゃねぇかって!あれのログを調べようって!それなのに、お前が勝手に─」俺の髪が乱暴に離される。ぐらん、となって前に傾いた。軽く咳き込む。
視線の先では、少女が頬杖をついて、つまらなさそうに本を捲っていた。俺に向き合う形で座っている。その少女の澄んだ青い瞳が俺の左隣を見る。「あまり上手くないわね。記憶の戻ったフレイヤをいたぶるのは愉しそうだったのだけれど、一朝一夕に、とはいかないものね」
「そうだなー。…テュポーンの言う通りかもな」男が大きく落胆の息を吐く。
「あれが何て言ったの?」少女の口調に幾らか、侮蔑の色が籠る。
「仕事に遊びはいらねぇんだってよ」
「なにそれ。何事も面白い方が良いに決まってるわ。仕事なんて人生の大半を占めるのよ。愉快でなくてどうするの」きっとあれの人生、とても張り合いのないものなのね。そう鼻で嗤う。
「お前、あいつのことほんと嫌いだよな」
「当たり前よ。何だかいつも威張っていて、鬱陶しいたらないわ。何様のつもりなのかしら」
「こいつがいなくなったんだから、しょうがねぇだろ」男の手が、俺のつむじの辺りをぺしぺしと叩いてくる。
少女がぱたん、と本を閉じた。椅子を引いて立ち上がる。「もういいかしら。記憶も戻らないみたいだし」
「んー…だな。医者の真似事なんてするものじゃない」
「あなた、お医者さんに化けるのは下手だものね」
「うるせぇよ」男が不機嫌そうに鼻を鳴らす。代わりに少女は機嫌良く微笑んだ。その右手が持ち上がる。「では殺すわ」
俺はまだ上手く働かない頭のままで少女を見上げた。その顔に浮かんだ表情と言葉との温度差に、現実味が湧かない。
少女が逆手に持った黄ばんだナイフを振りかぶる。反射的に俺の体が動こうとしたが、男が背後から押さえているからか、かさかさと服が擦れる音しかしなかった。その俺の左肩目掛けて、少女のナイフが振り下ろされ─。
少女の頭に白い何かが当たって跳ねた。少女の動きが止まる。跳ねたそれは、俺の目の前の机の上に軽い音を立てて落ちた。見ると、丸めた紙だった。少女の顔からは先程までの微笑が消え、酷く冷たく凍り付いていた。
「…お嬢、さん……警察舐めたら…ダメ、だよ」
慌てて声の方へ目をやると、ソフィアが寝転んだ体勢のまま、苦しそうに笑っていた。上手く開けられないのか、目をうっすらと開けて左手を伸ばす。痛むのか、呻きながらも、懸命に伸ばした先で落ちていた紙をくしゃくしゃと丸め始めた。まだ投げるつもりなのか。
その時、俺の向かい側でかつかつと音がした。視線を戻すと、少女がソフィアの方へ歩み出していた。目はまっすぐにソフィアに向いている。煩わしい羽虫でも見るかのように、温度がない。
「おい、だから無駄に殺すなって」
「駄目よ…。ええ、とても駄目。選りにも選ってあの人間と同じ言葉を口にしたわ。人間の分際でこのあたしを侮辱した、あの男と」
そのままソフィアに歩み寄るのかと思ったが、少女はソフィアからも机からも少し離れた、広めの空間の空いた場所に移動した。ソフィアの方へ振り返り微笑む。しかしその目は相変わらず冷めている。
「…お前、まさかアレ出すつもりじゃねぇだろうな」男が警戒した声を出した。
「まさか。その通りよ。そこのストレングスに、同じ試練を与えて上げるの。今度はちゃんと生き残れるかしら」背後には巨大な本棚の渓谷が聳えていた。
「あん…た、やっぱり……絶対に、許さな…い!」ソフィアの掠れた声が零れる。彼女は目に涙を溜めながら、懸命に紙を丸め続けた。
男の溜め息が後ろから聞こえる。「ったく…ほどほどにしとけよ」
男のその言葉を合図にするように、少女がナイフを動かした。自身の左手の掌に力強く突き立てる。
俺は思わず息を飲んだ。まるで自分の左手が刺されたような錯覚に陥る。
少女が鈍い悲鳴を噛み殺した。赤い鮮血が床にぼたぼたと落ちる。しかし、少女の自傷行為はそこでは止まらない。血を吸ったナイフを力みながら引き抜くと、果汁を絞るように左手を握った。抑えた悲鳴と共に血がばしゃばしゃと音を立てた。
俺はその光景に混乱した。猟奇的殺人鬼とも言うべき少女の、唐突な自傷行為。何が起きているのは理解が追いつかない。
ソフィアも呆気に取られているらしく、紙を丸める音が止んでいる。
やがて少女の静かな笑い声が本の渓谷に響いた。肩で息をしながら、途切れ途切れに笑った。
「ふ…ふふふ…ふふ………たとえ、相手がどれだけちっぽけでも…潰すときは全力を以て、するべきよね」そして呪文を唱えた。『─汝、王冠を頂く者。森羅万象を殲くす毒の王。我が契約の血を貪り、我が名の下に顕現せよ!レクス・アングイス!』
少女の血溜りがぼこぼこと音を立てながら膨らみ始めた。みるみる膨張していき、巨大などす黒いトマトようになる。妙な粘り気と光沢のある、腐りかけのトマト。それが周りの本棚と肩を並べるくらい膨張したのち、不意に破裂した。
余りに呆気ない破裂音と共に赤い霧が舞う。その中に、巨大な黄色い目が二つ、見えた。
「…本日二度目の出番。バジリスクの女のコ、あたしの大切なリリィちゃんよ。仲良くしてあげてね」いつの間に移動したのか、赤い霧の傍らで少女が嬉しそうに微笑んだ。その赤がゆっくりと、霧散する。
蛇がいた。見たこともない程巨大な蛇。日本神話に出てくる化け物、大蛇、あるいは蟒蛇と呼ばれるもの、その実物だと言われても納得出来るほど、リアリティーの欠けた大きさだった。その感情のない眼球が、穴があくほど見つめてくる。
少女はその、化け物を愛おしそうに見上げた。孔の空いているはずの左手で、その鱗をそっと撫でる。赤黒い血がべったりと付く。
「…バ……バジリ…スク…」上擦ったソフィアの声がする。見ると彼女も蟒蛇を凝視しながら固まっていた。蛇に睨まれた蛙のように動かない。
「お前、血足りてんのかよ」男が少女の隣で呆れている。どのタイミングで移動したのか分からない。とにかく拘束は解けているらしい、と俺は急いでソフィアに駆け寄った。
「ソフィア!大丈夫!?」
すると彼女は、痛め付けられて所々蒼くなり、血と吐瀉物で汚れた痛々しい顔をこちらに向けた。「……レイ…逃げないと」
「うん、逃げよう!早く!」俺は彼女の後ろに回り、脇に手を入れ抱えるように引っ張ろうとした。途端にソフィアが獣のような悲鳴を上げる。その声に怖じ気づいて、思わず手を離してへたり込んでしまった。ソフィアが目の前で、痙攣したかのようにひきつり、悶える。
どうすれば、いいのか。視線を上げると、絶望の権化のような蟒蛇がこちらを見据えて、舌をちろちろとさせている。背後の本棚と相まって、遠近感が崩れている。その麓には暴力を振るうことの愉しさを隠すことのない笑顔と、呆れ顔が並んでいる。
ソフィアを、出来るだけ痛まないようにと抱き寄せた。俺の、力の入らない膝の上に背中が乗ってくる。ソフィアが呻いた。こんな状態のソフィアを連れては動けない。かといって、一人で逃げるわけにも行かない。ソフィアを置いていけない。そんな勇気はどこにもなかった。
打つ手はもう…いや、初めから無い─。
その時、どこかでかたかたと何かが震えるような音がした。
その場の空気がすっと謐かになる。誰もがそのかたかたを、気を張り詰めて確認した。
机の上だ。全員の視線がそこへ集中した。先程まで腰掛けていた机の上、崩れた書物の下から音がする。そこで思い出した。確かあそこに置いていたのは、トーマスが渡してくれた木の札のお守りだ。本を読むのに邪魔になり、端に置いて、そのまま忘れていたもの。
しかし、今さら何なのだ。俺は苦しそうに息をするソフィアへ視線を落としながら思った。何がお守りだ。何の役にも立ってないじゃないか。
皆が警戒しながら机を見つめる中、その正体を思い出した俺だけ溜め息を吐いた。
すると、その溜め息を引き金にするように、机の上で軽い爆発音がした。書物が飛び、白い煙がもくもくと上がる。
正面の、黒髪の男が急に気色ばんだ。顔に狼狽と苛立ちが浮かんでいる。
白い煙の中から、くぐもった声がした。「─ふむ、思ったよりも早いな。今のうちに食べておこうと思ったのだが」
低く渋い声。この夢の中で、よく耳にした声。煙の中でひくひくと揺れる細い線。大きく伸びた楕円形の耳。周りに白が漂っているため、いつもより膨張して見え、余計に違和感が強まっていた。
トーマスが机の上に鎮座していた。足を投げ出し、ちょこんと座るその姿は、兎らしい愛くるしさを備えていた。
「やはり、バジリスクか。予想通り幼体らしい」
手には人参がある。伸びた葉が下を向いて、反対側の先端は噛られている。それをまだ噛ろうと口に運びながらこちらを振り向いた。途端に人参を放り出し、跳んできた。「ソフィア!ソフィア刑事!大丈夫か!?」
ソフィアもトーマスの姿を認めたらしく、警部、と反応した。「申し訳…ございません……。この、ような…」
「おい、やべぇ!逃げるぞ!」向かい側から声がした。見ると男が少女の袖を引っ張っている。
「何?どうしたの、急に」
「あいつだ。あいつはやべぇんだって!」
「だから何なの?ただのドワーフでしょう」
「違う!あれは、黄金竜だ!」
「…ファフニール?」
目の前のトーマスがむくりと体を起こした。「…これは、お前達がやったのか」ひくひくとする鼻、くりっとした黒い目からは感情の起伏が感じ取れない。その顔がゆっくりと振り返る。俺の目の前を通り過ぎたその手は、拳が固く握られていた。
「そうよ。そのコがフレイヤを殺すのを邪魔したのだから─」
「おい、やめろ!さっさと逃げるぞ!」
「何故よ?プロテウス、意気地がないにも程がなくて?」
「バカ!トーマス・F・キャロットだ!千年戦争の三英傑の一人だぞ!」
「何それ。いつの昔話よ」
「その通りだ。Fの称号はもう100年前に返還した。今はレイクダイモンの、ただの課長のトーマス・キャロットだ」そう答えながら、トーマスが一歩進み出た。「だから、逮捕する。殺しはしない。仕事だからな。命は保証しよう」
すると少女がかたかたと笑い出した。ゼンマイ仕掛けの人形のように、小刻みに揺れながら苦しげに身を捩る。
「─はぁ、可笑しい。ふふ。可笑しいわ、お巡りさん。さっき、あなたと同格の人間も同じことを言っていたわ。結果は…ご存知かしら?」
「勿論、知っているとも。彼の検死を行ったのはこの私だ」
少女は更に口角を吊り上げた。「なら、無謀というのも判るでしょう。その人間はこのコに手も足も出なかったのですもの」そう隣の蟒蛇の鱗を撫でる。
「挑発はやめろ!さっさと逃げるんだって!」
「プロテウス、いい加減にして。あのドワーフの言うことを聞いてなかったの?あれは課長よ?レイクダイモンの十課長。夕方にあたしが殺したあれと一緒。それが三英傑の一人ですって?100年以上も昔の話でしょ?どんな武勲を上げたのかは知らないけれど、かつて名を轟かせた英雄と、現役のエルフの殺し屋。結果は見えてるわ」
俺はトーマスの背に声を投げた。「逃げよう、トーマス!ソフィアも危険だし、相手はエルフ二人だ!一旦引いて応援を─」
手に何かが触れて思わずぎょっとした。見るとソフィアが制すように手を重ねてきていた。「大…丈夫……。警部は、ドワーフ…だから─」
「ソフィア、あんまり喋らない方が」俺は気ばかり焦っていた。今ここで、この状況であいつらを確保しようというのは、あの少女の言う通り無茶だ。トーマスは何やら凄いらしいが、それでも懸命な判断とは思えない。
「─ドワーフはつまり…ドヴェルグ……。別名は─」ソフィアがうかされたように微かな声を出す。けれど、俺はそれどころではない。
対岸で動きがあった。少女は蟒蛇に寄り添うように身を寄せる。そして子どもに言い聞かせるように、優しく囁いた。
「リリィ、あれ、食べていいよ」
その言葉に蟒蛇がびくっと反応する。うねうねと動きながら鎌首をもたげた。
噛みついてくる。そう思った次の瞬間には、視界に巨大な口の中が広がっていた。
咄嗟に手元のソフィアをぎゅっと抱き締めた。もう駄目だ。反射的に目を強く閉じて丸くなる。尻の下から衝撃が来た。地面ごと頬張るつもりなのか。
今、飲み込まれる。今、今すぐに。その思いに支配されて、身を縮めたまま固まった。蟒蛇の、生臭い口内の臭いがするのではないかと、息を止める。
そこでソフィアの声がした。「─別名は…ダークエルフ」
何も起きない。瞼の向こうが蛇の口に包まれて暗くなった感じもしない。恐る恐る目を開けると、白く丸い、ふわふわとした尻尾が揺れていた。その回りを砂煙が走る。
トーマスの背中があった。粉塵が上がっているが、ここが蟒蛇の腹の中ではないらしい。辺りを見ると紙が雪のように舞っていた。
蛇はトーマスの前で伸びていた。ついさっき、大きく開けられた口は何故か閉じていて、蛇の鼻先にトーマスが右手を乗せていた。ここだけ見ると、まるで猛獣と調教師のようだ。蛇は顎を床にめり込ませ、微動だにしなかった。
「…リリィ?リリィ!?」少女の刺々しい声が響いた。「あんた、今何をしたのよ!」
「ふむ、何とは。空間転移と加速、強化魔法を組み合わせただけだ」トーマスは事もなげに返した。「私を倒したければ、世界蛇でも連れてくるべきだな」
「だから言っただろ!逃げるぞ、早く!」男は少女の襟首を掴もうとしたが、それより先に少女が蟒蛇へ走り寄った。
「…まだ……まだよ!リリィはこんなものじゃないんだから!」
唾を飛ばしながら倒れた蛇の元へ突進した少女は、その胴体にひっしとしがみついた。そして右手に持った刃物を高々と掲げると、自分の左手ごと蛇の背に突き立てた。少女は呻き声を漏らしながら、呪文を唱えた。
『…っ!い、今、仮初めの時を紡ぎ、汝の真の力をここに示せ!インクレーメントゥム・エクスプローシヴ!!』
何かが割れる音がした。それが伸びる地割れのように続く。
トーマスの向こうで、蛇の体がもぞもぞと動いた。巨大な卵が割れるような壮大な音が鳴る。そしてより一層大きな蟒蛇の頭が持ち上がった。トーマスの手はまだ伸びた蛇の鼻先の上。にもかかわらず持ち上がる頭は、別の蟒蛇のものかと思った。
「…脱皮か。バジリスクの強化を狙ったものだとすると、つまり成体まで成長させたということか」トーマスの落ち着き払った声がする。周囲に舞っていた紙は、落ちずに漂っていた。
「…ふふ……そうよ。バジリスクの成体…邪視の餌食になりなさい!」少女は蟒蛇の傍らでへたり込んでいた。ずいぶん苦しそうに息をしながら、それでもその目は爛々とくすんだ輝きを見せていた。
蟒蛇の黄色い目が、インクが染み込むように、じわりじわりと赤く染まっていく。
「バジリスクの邪視か。一瞥するだけで、対象を絶命させる魔眼。…ふむ、確かに強力ではあるが─」
空中に漂っていた無数の紙がぴたりと止まった。そして何かに絡め取られるようにくるくると巻かれると、鋭利な円錐形になった。それらの先端が一斉に蟒蛇の方を向く。「─しかし、対処の仕方は往々にして相場が決まっているのだよ」
無数の紙が、磁石に吸い寄せられるように蟒蛇に飛びついた。そのほぼ全てが蛇の両目に深く突き刺さる。
蟒蛇が声にならない悲鳴を上げて、のたうち回った。激しく頭を振り回し、辺りに血飛沫を飛び散らせる。蛇の脱け殻もその衝撃に砕けて飛び散った。
「─っ!!」少女が蛇に代わって悲鳴を上げた。
「さて、これで後は上級魔力耐性だけだな」トーマスは淡々とした様子で、拳を振るためか右手を引いた。その姿はどこか、絵里愛のそれに似ていた。『─神鎚の一撃を、ここに。エクス・イクトゥ・ミョルニル!』
蒼い閃光が走った。同時に轟音が響く。視界が全て蒼白い光に包まれ、何が起きているのか分からなくなる。激しすぎる明るさに目が眩む。
再び辺りが見えるようになるまでにしばらくかかった気がする。何度も瞬きをして徐々に青白さが抜けていった。
トーマスの前に黒く巨大な炭があった。うねうねとした、蛇の形をしたそれは、芸術作品のオブジェのようだ。
その傍らに、それを見つめて茫然としている少女の姿があった。しばらくそうして座り込んでいたが、突然電気でも走ったかのようにびくっと体を震わせると、よたよたと炭に近付いた。足も立たないのか、四つん這いのままにじり寄る。
少女がその細く白い手を、黒い炭に伸ばして触れた。すると触れた先からぐずぐずと崩れる。
少女は、受け入れ難い現実を確かめるように、首を振った。「…ぃや………いや……ああ─」苦痛に歪む顔に涙が浮かぶ。
『正義を我に、光を我が拳に─』トーマスの右拳に光が灯った。
「─っ!やめろ!このっ!」黒髪の男が声を上げる。点滅するように姿を消すと、瞬間的に少女の前に姿を表した。少女を庇うように両手を広げる。その眼前にトーマスも突如として現れた。左腕を振ったのか、黒髪の男が吹き飛ぶ。棚に激突する音と本が崩れる音がした。
「プロテクションくらいは張りたまえよ」トーマスがまた右腕を引く。
茫然としたままの少女は虚ろな目をトーマスに向けると、突然その目に烈火を灯した。「お前─っ!」
『ユスティーツィア─』
「絶対に、許さな─」
『─プグヌス!』
光が迸った。崩壊音がする。埃が舞ったその向こう、崩れた本棚の瓦礫の中に白く細い足が二本、覗いていた。
「今のは、ソフィア刑事の分だ」
「ぐっ─!セリシア!!」黒髪の男が少女の名前を叫んだ。「くそ!…くそが!この野郎!!」崩れた本の山から這い出てくる。
「さて、次は君だな」トーマスは黒髪の方に向き直った。
黒髪は両手を地面に着けると、猫のように伸びをした。「ふざけんな!次なんてねぇんだよ!くそが!!」そう言うと両目を見開き呪文を唱えた。
『─幸運の流星よ、再び降り注げ!ジェネラティオ・リントヴルム!!』
男が呪文を唱え終えるや否や、男の体が歪に膨らみ始めた。顔が伸び、黒髪を真っ白い皮膚が覆い出す。目が赤く、つぶらに光った。その皮膚が全身を走るように覆い、滑り気のある光沢がてらてらと踊った。むくむくと大きくなる。
そして遂には、巨大な山椒魚のようなものへと変貌した。艶やかな粘膜の中で小さな赤い目が光った。
「ほぉ、これはセイズ級の変身魔法か」
「てめぇとは遊ばねぇよ、この化け物め!」どこからか、黒髪の声が響いた。
山椒魚は大きく裂けたその口をぱかっと開くと、少女の倒れている辺りにかぶり付いた。崩れた本棚ごとまとめて口に含む。
山椒魚がそのまま踵を返そうと方向転換を始めた。
「逃げられると思っているのか」トーマスが足を踏み出した。
すると山椒魚の体の側面に紫色の光の円が現れた。円の中央に魔方陣のような模様が浮かぶと、そこからトーマスに向けて炎が吹き出した。
トーマスが炎に飲み込まれる。しかしその中から、落ち着いた声がした。
「だがこの程度か…。やはり平和というものは強者を生まぬものなのだな。──『神を恫喝したる者。財宝を護りし愚かな厄。栄誉にして罪禍を示すその名は─黄金竜!』」
猛火の中できらりと何かが光った。炎に燻されながら、妖しいその輝きはみるみる大きく膨らんだ。炎を養分にするように、圧倒するようにそれは現れた。
ぎらぎらと周囲を照らす金色の鱗。それに包まれた巨躯。遠慮を知らない野太い尾。この大図書館を覆わんばかりに拡がる翼。大山椒魚が貧相にすら見える、兎の耳のようなものが生えた黄金の竜がそこに居た。
山椒魚の化け物は絶句したように一瞬身を固めたが、しかし果敢にも、無謀にも魔方陣を顕にし火炎を竜に浴びせた。竜はそれをただ左手で正面から制すと、そのまま腕を伸ばし山椒魚を押さえつけた。
山椒魚が派手に床に食い込んでへしゃげた。床材が割れ、捲れた。山椒魚は苦し気に口を開く。だが竜の追撃は止まない。
黄金竜が噛みつくように口を開いた。その中で蒼い光が燃えている。閃光が辺りを染めた。その光に包まれて、俺は何も分からなくなる。ただ、ソフィアの温もりだけを腕の中に感じながら。
その時、左の頬に、びりびりとした感触が走った。
黒髪のエルフが目の前で、金髪の少女を守るように倒れている。気は失っているようだ。
トーマスは溜め息を溢しながら自分の隣に浮かぶ使い魔の口の中に手を突っ込んだ。繋げた空間の先から手錠を引っ張り出す。
神話級魔力抑制錠。この手の職人であるドワーフの間でだけ、その作り方が受け継がれていると云う拘束具。この手錠が手に入ること、クライム・ヘイヴンを捕縛するためにこの国を選択した理由のひとつだ。
取り出したその手錠を、二人のエルフの手首に嵌める。それから二人の襟首を持って、近くにあった本棚の残骸を背に座らせた。
周囲は粉塵が舞い上がって殺伐としていた。巨竜へ変身し蒼炎を吐いたこともあって、大図書館内は悲惨な状況になっていた。この辺りの本棚は全て倒壊し、所々では火の手が上がっている。
散らかしてしまった事は申し訳ないが、司書のクレハなら元通りに直せるだろう。彼女が罪に問われなければ、だが。
トーマスは捕らえたエルフらに視線を戻した。遂に逮捕した。50年近く追って漸くだ。本来はこのような形で逮捕する予定ではなかったのだが、彼女があの状態では仕方がない。そんなことを考えながら、フレイヤを振り返ろうとした時、思わぬ声がした。
「これはまた、随分とやってくれたな、キャロット課長」
何故ここに?そう思いながらも敬礼の姿勢を取った。「お疲れ様です。パトリック・キーロニウス課長」
入り組んだ渓谷のような本棚が崩れ去り、見通しが良くなった大図書館の、入口に通じる階段を一人の男が降りてきていた。揺れる金色の短髪、まだあどけなさの残るその顔には表情がなかった。その感情のない顔が、ゆったりとした足取りでトーマスの元へとやってきた。
「それで?何故ここに君がいるのかな、キャロット課長?コリンソスの領主殺害事件は解決したのか?」
「いえ、そちらは今、鋭意捜査中です。しかし今回、その被疑者と思しき者たちを─」
「仕事も済んでいないのに里帰りか、キャロット課長。中々に良い身分なのだな」
「いえ、今回のは─」
「違うのか。今回のこれは捜査の一環だと?申請を受けた覚えはないのだが」
「申し訳ございません。緊急だったため─」
パトリックが溜め息を吐いた。「この一件の処置は追って知らせよう。それで君がここにいるのは、そこのエルフを保護する事と何か関係が─」
パトリックが目を見開いて言葉を失った。トーマスの肩越しに何かに目を奪われているらしい。トーマスも振り返ってみて、その理由が分かった。
「……く、くふふ!ふぁーはっはっは!!ありがとうございます!ありがとうございます!依頼した通り、この私から目を離さないで下さっていたようですね!」
先程まで、保護対象のエルフが居たはずの場所に、男が居た。窮屈そうな囚人服に身を包み、負傷したソフィアを膝に乗せて、その男が溌剌とした声を出した。
「─そう!この私、名探偵アンディ・レイから!」
第八話「クライム・ヘイヴン」は4月25日に公開予定です。