セイズ級兄貴の意地
アレックスは、レイが休んでいる病室の前に陣取っていた。病院から借りた簡易の椅子の上にふんぞり返り、腕を組んで目を閉じている。別に眠っているわけではない。周囲一体に魔力で編んだ結界を展開し、そちらに何とはなしに意識を集中させているのだ。
ここはミュテイネラにある中央大病院の13階フロア。その隅の方に位置する1325室前。アレックスはその階と上下1階ずつ、12階から14階までの全フロアを監視していた。その中で幾つもの動く存在が確認できる。それぞれの病室にいる病人と病院スタッフ、医師に看護師が思い思いに動いている様子が手に取るように分かる。勿論、アレックスの目の前の病室にいるレイの気配もばっちりである。
レイの周囲のマナはまるで静かな湖面のようだ。たまに風が吹くように、ノイズが揺れる。勿論、レイ自体には魔力がある。だが、今はほとんど使えないはずだ。左腕に付けた魔力抑制装具で、魔力の使用が制限されているからだ。
あの腕輪をしている限り、基本的には魔法を行使できない。超出力をかければ壊せるらしいが、普通の人間には不可能だ。もしかしたらエルフなら突破できるのかもしれないが、本人にはその気はないらしい。いや、出来ないのかもしれない。
微かに漏れているノイズは、まともに魔力制御が出来ているようには見えない。記憶障害の弊害か?いや、でもエルフが制御も出来ないなんて信じらんねぇな。暇を持て余したアレックスは、そんなどうでもよい事を考えていた。
その時、突然目の前の病室に気配が増えた。アレックスは驚いて目を開けた。
とてつもなく冴えた魔力だ。感知した体格は小さいものの、魔力がとてもよくコントロールされている。
空間転移か。アレックスはそう思いながら体を起こした。レイの見舞いかもな、と呟く。侵入を許しはしたものの、あり得ないことを口にするくらいには、余裕を持っていた。病室の空間に意識を集中させて、突然現れた気配の真後ろに転移した。
室内はなかなか暗かった。だが結界のお陰で目の前の相手の体格も挙措も全て思い描けた。相手はレイに向かって右手を振り上げていた。そこには大型のナイフのようなものが握られている。その手を後ろから掴んだ。
「おいおい嬢ちゃん、随分と物騒なもん持ち歩いてんだな」アレックスは表情を弛めながら、しかし気を張り詰める。見た目こそ子どもじみてはいるが、周囲のマナは相当の手練れであることを示している。
「…どなた?あたしの邪魔をしようというのは」
「…ア、アレックス?」
「ようレイ。すまねぇな、勝手に女の子の部屋に入っちまって。あんたの部屋に誰か入ったみたいだったから、確認しようと思ってよ。もしかしてあれか、友達とかだったか?だったら悪いことしたなぁ」アレックスは軽口を弄びながらも、自分のジャケットの内ポケットの中身を魔力で持ち上げた。円形の模様が描かれた紙が1枚、ふわりと浮かんで静かに床に落ちる。
「そうね。フレイヤとは友だちではないけれど知人ではあるわ。兎も角、ここではあなたがお邪魔虫よ、アレックスさん」少女は平然とした様子で言った。アレックスに背後から腕を掴まれていることも別段考慮するに値しない、とでも言いたげだった。
「フレイヤ?そこにいるのはレイだぜ。人違いだったな、お嬢さん。フレイヤちゃんの病室はここじゃあねぇよ」
「あなた、減らず口なのね。しつこい男はキライよ」
「ははは。そりゃあよく言われるんだがよ、イヤよイヤよも好きのうちって言うじゃねぇか」
「ろくでもないのね、あなた」
「ろくでもねぇのは、あんただろ嬢ちゃん。友達の見舞いに、んなもん持って来てんだからよ」
少女はふぅ、と溜め息を吐いた。「面倒臭い…ここでバラしてしまうわ」
少女は握っていた右手の平を開いた。握られていた刃物が自由落下を─せずに浮かび上がると、急速に反転してアレックスの顔に突進してきた。切っ先が猛然と目の前に迫った。
アレックスは目を見開く。右手を離し、捲し立てるように唱えた。『カストルム・イン・ミニマ・フォルマ・ホルトゥス!』
その呪文に呼応するように、アレックスの足元からとてつもない光の洪水が溢れ出した。
ただ単にだだっ広い空間が広がっていた。先程までいた病室は消え、天井なのか空なのか、黒い空間が頭上を覆っている。地面なのか床なのか、黒い足元も何処までも延々と続き、しかし黒い空と黒い地面の境界線は何故だかよく分かる、不思議な場所だった。そこにアレックスと少女だけが先程の距離ではなく、いつの間にか数メートルの間隔を空けて存在していた。レイはいない。
「─あら、凄いじゃない。これ、セイズ級の空間魔法かしら」少女はゆったりと振り返りながら、感心した声を出した。刃物は空中に留まっている。
「おう、詳しいじゃねぇか、嬢ちゃん」これを一瞬でセイズ級と理解するとは、一体何者なのか。アレックスは少女に対して少し気味の悪さを感じた。
振り返った少女は、やはり少女だった。短く整えられた金色の髪に、透き通るような白い肌。こぢんまりとした黒い帽子に黒いワンピース、その上から黒いローブ、靴も黒いブーツと全身を黒で統一していた。隣に浮いている刃物は刀身が黄ばんだ白で、禍々しく曲湾している。
少女もアレックスを、頭の先から爪先までじっくり観察するように眺めた。「ふーん…警察官だったのね。それにこの練度…あなた、レイクダイモンの十課長なのかしら」
「十課長も知ってるのか。物知りだな。…正解だ。俺はレイクダイモン国第二刑事課第六課長、アレクサンドロス・ストレングスだ」
「ああ、ストレングス。…噂通り、軽薄なのね」
「辛辣だねぇ。ソフィアみたいだな。…まぁそういうこった。あんたがどこの嬢ちゃんかは知らねぇが、観念しな。勝ち目はねぇからよ」
すると少女はふふふ、と笑った。「十課長の一人だからって自分の力を過信しすぎてはなくって?あたしがどこの誰だか分からない?じゃあ教えてあげるわ。我はクライム・ヘイヴン。あなたたちの代行者よ」
「クライム?男みたいな名前だな。訳の分からない事を言ってるが、過信してるのはあんただよ、嬢ちゃん」
少女は落胆したのか、小さく溜め息をついた。「知らないのね、あなた。残念な人。あたしはお嬢ちゃんではないし、クライムなんて名前でもないわ。…あなたと会話しても得るものもなさそうね。もう殺してしまうけれどいいかしら」
少女は空中に浮いた刃物を右手で取ると、横に振った。するとその先端から何かが幾つか飛び、黒い地面の上で跳ねた。その跳ねた軌道がそのままくっきりと残り、うねうねと動き始めた。
「おう、蛇かい。あんた、召喚師か」蛇のもたげた首は少女の身長ほどだった。それが4匹はいる。
「まぁ、そうよ。そういうあなたは空間魔法がお得意みたいね。少しは楽しめればいいのだけれど」少女は自らの左側にもナイフを振った。また何かが飛び跳ね、蛇の形となる。少女はナイフを突き刺すように前に出した。「5分くらいは踏ん張ってね。それ以下だと余りにも張り合いが無さすぎるわ」
そして少女は呪文を口にした。『その腸に残滓も残さず呑み尽くせ、ウンドゥラト・ヴェネーヌム・パルス』
少女の周りに侍ていた蛇達は少女の左右で、互いを巻き込むようにとぐろを巻いた。同時に少女の体が浮かび上がる。どうやら背後にも蛇が居たらしい。少女の足が離れるとその場から何かが湧いた。背後の蛇の腹がこちらの方に付き出され、少女はその蛇の腹に、さながら女王のようにゆったりと腰掛けた。そして左右の蛇の塊が少女に寄り添うようにした。それらの胴体が一つに成ろうと絡み付く。
そうして出来上がったのは、九つの頭を揺らめかせる怪物だった。その手前には沼のようなものが、じわじわと黒い地面を侵食していた。
アレックスはあまりのことに思わず口笛を吹いた。「中々の趣味じゃねぇか。可愛げってもんがねぇな」
「そうかしら。このコ達も可愛いと思うのだけど」少女は鎌首の一つを愛でるように撫でた。
「気が合わねぇな。…その沼は毒かい」アレックスは自身で作り出した空間を蝕む沼の性質を感覚的に察した。徐々に、だが確実にその面積を広げているあれは、恐らく呑み込んだ無機物を毒沼の一部に変換していく類いのものだ。
「そうよ、ご明察。幾つかの魔法を混ぜたの」
簡単に言ってくれるねぇ。アレックスは多頭竜と見紛う怪物を睨み付けた。機動力は無さそうだ。だが、近付くのは賢くねぇな。九つも首があるし。沼もどんどん広くなる。放って置いたら辺りが毒沼だらけになってしまう。ちんたらはしてられないってことだな。
アレックスが戦法を考えている間、少女は大蛇の上で寛いで待っていた。
「ずいぶん悠長なんだな」
「そうね。あなたがどうやって攻略するか、そこが見物なのだもの」
「言うねぇ。じゃあ、後悔すんなよ」言うと同時にアレックスは両手を広げた。
『連なれ双焰!ゲミナエ・ウェルティス・フランマエ!』
アレックスの両手に赤く燃える輪が二つ現れた。それをアレックスはそのまま前に押し出す。しかし、そこではそれ以上何も起こらなかった。まるで、伸び進もうとする焰の渦が空間に吸い込まれているようだった。
アレックスは畳み掛けるように、別の呪文を口にした。『アルクトゥールス・コメーテス!』
すると、黒い空が突然赤く照らされた。少女はその光に引かれるように空を見上げた。
空からは黒煙を纏った真っ赤な焰の渦が、何十と降り注いでいた。「まぁ─」少女は感嘆したような声を出した。
近付かずにあの怪物を焼き殺す。その為にアレックスは豪焰魔法と空間魔法、増幅魔法を組み合わせた。お嬢ちゃんの召喚魔法も大したものだが、おじさんも舐めてもらっちゃあ困る─。
「─まぁ、赤い流星の雨?きれいね。でもこっちの方が良くないかしら」少女の顔に軽い笑みが映えた。
直後、ヒュドラの、両端の頭が手前にある毒沼に突っ込んだ。その首がぐひぐびとうねる。すると残りの首もぐひぐびとうねり出し、それぞれの口から毒沼の水を放射した。
くっ、あんな芸当も出来るのか。七つの噴水が噴き上がる。それらが少女の真上にあった幾つかの赤い彗星に命中する。毒水と焰、結果は明瞭だった。
毒の噴水が数本の火焰を打ち消した。残りの焰が少女の周囲に落ち、黒い世界に爆炎を上げた。
アレックスは直ぐに次の呪文を唱えた。『我を護れ、スクートゥム・イルーシオ!』するとアレックスの頭上の空間が歪んだ。そこに小雨のようなものが降った。
黒い世界にしとしとと雨が降り始めた。その雨粒は黒い地面に触れては小さな水溜まりを作っていく。しかし、アレックスの頭上では、それらが何処かに吸い込まれ、アレックスに触れることはなかった。
「毒沼の雨かい」アレックスは苦々しい思いで言った。
「ふふふ。きれいでしょ」
水溜まりとなった箇所がじわじわと広がり始めた。水滴になっても侵食能力は変わらないらしい。中々厄介だな。毒の雨はようやく疎らになった。しかし、お蔭で辺りは水溜まりだらけである。足の踏み場もない。
さっきので大分魔力使っちゃったからなぁ。アレックスは勝機を見出だそうと周りを見渡した。黒い地面に先程落ちた焰がまだ、ちらほらと燻っていた。
「さてと…墓穴を掘ってくれたから、あなたはもうそこから動けそうにないわね。お得意の空間魔法を混ぜ込んだ遠距離攻撃もこの程度だったし。…セイズ級の空間創造魔法に豪焰魔法の流星群…人間だったらもう魔力も残ってないんじゃないかしら。あなたって減らず口の上に考えなしなのね」少女は大蛇の上から微動だにしていない。
こっちの懐事情を的確に推測してきやがる。まったく、厭らしい。そう思いながら、アレックスはまだ毒が侵食してきていない自分の足元に踞った。右手で黒い地面に触れる。それを見て少女は訝しんだ。「…何のつもり?」
「確かに、魔力はあんまし残ってねぇんだが、そんなもん使わなくても出来ることがあるんだよ」
アレックスは黒い地面に魔力を少し流し込み、呪文を唱えた。『箱庭よ、励起せよ、サトゥス・スルスム!』
黒い地面が蠕動するように波打った、ように感じた。少女は異変を感じ、眼だけで周囲を確認した。しかし、辺りは黒が支配しており、明かり一つもない。黒煙だけが黒い空中を漂っていた。
─!まさか─。少女がその考えに至ると同時に、大蛇の足下から真っ赤な光が溢れ出した。これは─。
『聳えろ獄焰、イグニス!』アレックスが唱えると、ヒュドラの真下から怪物を呑み込むほどの火柱が立ち上がった。ごうごうと音を立て、黒煙を巻き上げる。
熱がアレックスの頬を撫でた。アレックスはこの魔法では魔力をほとんど消費していない。この黒い異空間の特徴を利用したのだ。
この“箱庭の城”という魔法空間においては、黒い地面に触れている全ての物質は別座標に有りながら同時に、同一座標上にあるものとして扱える。その切り替えには多少の魔力を流し込む必要があるものの、この特徴によってアレックスは少女に対して任意の距離感を保つことが出来る。また、この特徴を利用することによって、周囲に散在していた豪焰魔法の残滓を一ヶ所に集めて、噴き上げさせることも可能なのである。
火柱は暫く燃え上がり続けた。毒沼の水で防ぐ暇も与えなかったため、流石にあの怪物も焼き尽くせたろう。アレックスは一つ溜め息を溢した。問題はあのお嬢さん諸共焼いてしまったことだ。死んじまってはいないだろうか。だとしたら被疑者死亡。…まぁ、正当防衛とも言えなくもないか。
火の勢いが収まってきて、こんがりと焼け焦げた9つの頭が見えてきた。それぞれが覆い被さるようにして、歪な球体を作り上げている。何やら香ばしい匂いがして、アレックスは顔をしかめて息を止めた。
中央で彫刻のように固まっている蛇の首が無造作に落ちた。地面にぶつかり鈍い肉の音を立てる。
「─お見事ね。ちゃんと攻略してくれて嬉しいわ」蛇が折り重なって出来た球体の中から少女の声がした。
ちぇ、やっぱり無事だったか。嬉しいような悲しいような、だな。アレックスは腰を上げて体勢を整える。
少女が蛇の死骸の中から姿を表した。衣服も無事、体にも火傷の一つもないようだ。「残り火を掻き集めて火柱にするだなんてね、少し感心したわ」
「お褒めいただいて光栄だね、お嬢ちゃん」
「…減らず口は相変わらずね。まぁいいでしょう。ではご褒美に、少し本気を見せて差し上げる」少女は右手に持った刃を、アレックスに良く見えるように掲げて見せた。「これは毒蛇の牙を加工して作ったものなの。さっきのとは段違いのコのものよ」
「…へぇ、そうかい」アレックスは辺りを侵食する毒沼の水溜まりを見やった。ヒュドラを殺しても、この毒沼は止まらないらしい。少女はぴんぴんしているようだし、結構ピンチだな。
アレックスが焦りを感じながら視線を少女に戻すと、少女は右手に持った刃物の切っ先を自身の左の掌に当てていた。そしてそれをそのまま突き刺した。少女の呻き声が漏れる。
「─なっ!?」アレックスは目を見張った。何だあいつ!?毒蛇の牙を自分の手に刺した!?手の込んだ自殺か!?「おい嬢ちゃん!何やってんだ!?大丈夫かよ!?」
少女は刃を手から引き抜いた。どぼどぼと血が溢れる。少女は肩で息をしていた。どう見ても大丈夫ではない。
目の前で被疑者に自殺されるだなんて、とんだ赤っ恥だ。アレックスは駆け寄ろうと脚を動かしかけた。しかし、その前に少女が返答を寄越した。
「─大…丈夫か、ですって…?ふぅ…ええ、大丈夫…。っ…お巡りさん、というのは…お人好しなのね…」少女は左手を握り締めた。鈍い悲鳴が上がる。血が絞り出されるように、ばしゃばしゃと地面に落ちた。
何がしてぇんだよ。訳分かんねぇ。少女の行動にアレックスは狼狽した。
「…ふぅ、じゃあ取って置きを見せてあげるわ。─『汝、王冠を頂く者。森羅万象を殲くす毒の王。我が契約の血を貪り、我が名の下に顕現せよ!レクス・アングイス!』」
途端にアレックスは膨大な魔力の波動を感じた。“箱庭の城”が揺れるのが分かる。アレックスは思わず息を飲んだ。
地面に溢れた少女の血が溢みるみる膨らんでいく。瞬間的に沸騰したように泡を弾けさせながら膨張した。少女は左手から血を滴らせながら、しかし悠々と横に歩いてその膨張を避けた。膨らみ続ける血塊は、ヒュドラの死骸を優に越える大きさまで達すると、不意に破裂した。血飛沫が煙のように立ち上ぼり、その向こうに巨大な蟒蛇が見えた。
アレックスの息が止まる。心臓が凍りつく。恐ろしく太い胴体。光沢のある艶やかな鱗には黒、紫、赤の模様が毒々しく踊っている。口元にちらちらと見える舌。黄色い眼はどこを見ているのか分からない。
アレックスはその蟒蛇を見た途端、それが有する危険性を肌で感じ取った。ヤバい、あれはヤバい。この魔力の感じ、こいつぁ─。
蟒蛇が出現すると、少女は子どもらしく嬉しそうに体を反転させてこちらを向いた。上機嫌に微笑んでいる。「…紹介するわ。あたしの眷愛隷属《最愛のペット》、バジリスクのリリィちゃんよ」
「─バ…バジリスク…!?」
「名前くらいはきいたことあるでしょ。このコはまだ子どもで、邪視は発現してないから安心して」
邪視。睨むだけで対象を死に至らしめる魔眼。ただそれがないからと言って安心など出来るはずはない。
アレックスはバジリスクなど、見たこともなかった。しかし、バジリスクの逸話は、子どもの頃から昔話や伝説として幾度も聞いた。コカトリスなどは比べ物にならない猛毒を有し、その毒は岩をも砕く。他の蛇はその毒の臭いだけで死に至り、その眼に睨まれれば如何なる生物も忽ち絶命する、御伽噺の幻想種。そんなものを呼び出せる魔法は最早─。
「─セイズ級の召喚魔法…あんた、エルフかよ」
「ふふ、ようやっと気付いたのね、お間抜け屋さん。お嬢さんではないと言ったでしょう」
「…なるほどなぁ。その歳でその魔力制御ってのは違和感があったんだが、エルフなら得心がいく」アレックスは余裕を装って言葉を続けた。しかし、内心では余裕は皆無だった。
エルフ相手では勝ち目はない。セイズ級の召喚魔法を笑顔で使ってくる相手に、こちらはあと大技一発分くらいしか魔力が残っていない。しかも、あれに通用する魔法があるのかどうかも分からない。勝算は絶望的だ。「だが、そんなもん出すために自分に猛毒を打ち込むたぁ、割にあってねぇんじゃねぇか」
「この状況で、まだあたしの心配をするの?」少女は血に染まった左手をひらひらとさせて見せた。「自分の眷属の毒くらい即時分解できなくて、どうするのかしら」
どうやら血ももう止まっているらしい。僅かな希望もねぇな。あー、どーすっかな、これ。
「─さて、遊んでくれてありがとう、お巡りさん。存外楽しめたわ。けれど、それもこれでおしまい。終わってしまうのは悲しいけれど、どうか泣かないで下さいな」そうして少女は蟒蛇に向かって手を差し出した。蟒蛇はそこに自らの顎を乗せるように頭を垂れた。
「リリィ、あれ、食べていいよ」
それを聞いた蟒蛇は首を擡げて後ろに引いた。─蛇のあの動きは。アレックスは咄嗟に足から“箱庭の城”に魔力を流した。
蟒蛇が目にも留まらぬ速さで噛み付いてきた。あの巨体には不可解な速度で、アレックスの居た箇所の地面に牙がめり込み、吹き飛んだ。噴煙が上がる。それをアレックスは少し離れたところから見た。“箱庭の城”で別の場所の地面と入れ替えたのだ。しかし、こんな戦い方がいつまでも続くはずはない。持久戦になればなるほど絶望は増していく。
蟒蛇が地面から頭を上げる。煙のせいで見えないが、黒い地面は抉れているようだ。
アレックスは踞って黒い地面に触れた。“箱庭の城”の空間が波打つ。蟒蛇は次の攻撃のためにまた、鎌首を擡げる。
不意に二擊目が放たれた。アレックスに狙いの定まった蛇の頭は、しかし突如として出現した毒沼に突っ込んだ。派手な飛沫と煙が上がる。アレックスはまた少し離れた位置で荒く息を吐いた。辺り一面に広がっていた毒の水溜まりは姿を消している。アレックスは先程の一瞬で水溜まりを全て纏めて沼に変え、更にそれと位置を入れ替えていた。
毒沼からはもくもくと煙が上がっている。あの沼の毒性は分からないが、溶けるとか、麻痺するとか、してくれないだろうか。アレックスの淡い希望は、毒沼の中から頭が持ち上げられたことで消え失せた。
雫を垂らす顔からは、相変わらず煙が煙が上がっているものの、表皮には傷一つなく艶やかなままだった。くそ、やっぱダメか。高い耐毒性か、あるいは─。
「ふふ。面白いことするのね。でもそのコにはその毒沼は効かないわ。バジリスクの鱗を貫通したかったら、最低でもセイズ級でないと」少女は親切にも、愉しげにレクチャーしてくれた。
─上級魔力耐性。そっちかよ、選りにも選って。
セイズ級なんて、ぽんぽん撃てるもんじゃねぇんだが。アレックスは内心で悪態を吐きながら、方針を決めた。あの化け物には俺の攻撃は通じねぇ。こうなりゃ、格好悪いが大元を叩くしかねぇか。
蟒蛇はちろちろと舌を揺らしながら、アレックスを見ていた。馬鹿の一つ覚えのように、突進ばかりを繰り返しては来ないらしい。
蟒蛇の出方が分からないアレックスも睨み返す。
蟒蛇の頭の向こうで何かが蠢いて見えた。ちらりと視線を動かすと、蟒蛇が頭の位置は動かさずに、体を引き寄せていた。デカすぎて全体の動きが見れねぇな。アレックスは蟒蛇の眼と尻尾を交互に見るしかなかった。そうしている間にも蟒蛇が距離を詰めてくる。
埒が開かねぇ。こっちから動くか。アレックスは全身に魔力を回し、呪文を唱えた。
『光れ、疾走れ、迸れ、コールスカーミネ!』
アレックスの体が光で燃えた。身体強化の中級魔法。そこに斜め右上から尻尾が落ちてきた。アレックスは腰につけたポーチに手を突っ込むと、“箱庭の城”で少女の目の前に移動した。
「あら─」突然アレックスが現れても、それも想定内というように、少女は笑った。
「あんたを逮捕する…!」アレックスはポーチから腕輪を取り出した。レイの手首に付いているものと同じ魔力抑制装具だ。抑えきれるかは分からないが、やってみる価値はある。
アレックスは空いている左手で、刃物を持った少女の腕を狙った。身体強化をしているため、尋常ではない速度で手が伸びる。しかし少女はそれを瞬発的に躱した。身体強化しているようには見えないが、アレックスと同程度の速度で体を右奥に捻り傾ける。
どうなってんだよ。体を傾けた拍子に上がった少女の左腕を目掛けて、アレックスは右手に持った腕輪を振った。
どんっと、地面が割れる音がしたと思ったら、急に左上から少女の右脚が斬り込んできた。「うおっ!?」アレックスは反射的に左腕で頭を守った。手首に痛みが走る。重っ。アレックスは体重を後ろに逃がして弾けるように後退した。
「上手く避けたじゃない」少女は余裕の笑みを見せる。
くそ、どうなってんだ!?アレックスの左腕がずきずきと疼いた。どう見ても身体強化魔法は使ってない。なのに俺よりも速い。
「どうしたの?来ないのかしら。では、こちらから─」
少女は特に構えない。しかし、突っ立ったままの体勢でとんでもない速度で飛んできた。遅れて地面の吹き飛ぶ音が聞こえる。
切っ先がアレックスの左頬に迫った。慌てて仰け反って避ける。体勢が崩れた。毒の刃先が鼻先で空を切った。今のは─、そうか。
こいつ、魔力を瞬間的に出してやがるのか。さっきは右肩から前に向かって魔力を出し、小さな爆発を起こして体を捻り、今度は足裏から出して高速の上段蹴りと移動。無茶苦茶しやがる。
少女は右足を前に出し一瞬ブレーキをかけると、地面を吹き飛ばし、また瞬発的に突進してきた。刃物は左手に持ち替え真っ直ぐにアレックスに向けている。アレックスはまだ体勢が崩れたままだ。
少女は腹を貫こうと刃を振った。しかしまた空を切った。少女の背後で音がする。振り返ると、アレックスが尻餅をついていた。
「…まったく。ちょこまかと忙しない。小鼠のようね」
「そういうあんたは蛇らしい。よくそんな動きで姿勢が維持できる」
「このくらいのことで褒められても嬉しくないわ。褒めるならもっとちゃんと褒めなさい」
「…何だよ、褒めて欲しかったのか」アレックスは少女を睨みながら立ち上がった。
すると少女は軽く笑い声を溢した。「そうね。例えば、もう王手をかけてしまっていることとか、かしら」
突然アレックスの左腕、上膊部に激痛が走った。その痛みに怯みつつも首だけ振り返って確認すると、そこには蟒蛇の巨大な顔があった。アレックスの腕を蟒蛇の牙が貫いている。
「ぐぁあああっ!!!」アレックスの体が持ち上げられ、地面から足が離れた。ヤバい、毒が!アレックスはすぐさま右手を左肩に当てると魔力を込めた。血と爆炎が舞い、アレックスは落下した。受け身も取れず、不格好に地面に落ちる。
「うっ…ぐうぅ…!」傷口からは血が、池を作ろうとするかのように、どくどくを溢れ出た。
「あら、左腕をもいでしまったの。大丈夫?お巡りさん」少女が茶化してくる。くそ、気付かなかった!あの巨体で音もなく近付いてくるとは!
左肩から下が酷く腫れ上がったかのような、ずきずきとした激痛に意識が飛びそうになる。痛む箇所を無意識に右手で押さえようとしたが、そこに左腕はもう無かった。
「でも、仕方ないことよね。人間風情がエルフ相手に単身で“逮捕する”だなんて。舐めすぎよ」少女は倒れたアレックスに近付くと、右手の刃物を振り下ろした。しかし、そこにはもうアレックスの姿はなく、刃先は地面に突き刺さる。少し遠くから呻き声がした。
「まだ動くのね。もう大人しくしていればいいのに」少女は呆れた声を出し、声の方を振り向く。アレックスが、のたうち回りながらもどうにか立ち上がろうとしていた。「往生際の悪いったらないわ」
アレックスは肩で息をした。激痛で視界が霞む。ぼんやりとした先に少女が蟒蛇と共に立っていた。これはダメだ、マジでヤバい。あいつの言う通り、生温いことではなぶり殺されるだけだ。
アレックスは不慣れな医療魔法でどうにか止血した。ふらふらとどうにか立ち上がる。どうやら毒が回る前に腕を吹き飛ばせたらしい。けれど、体調は最悪だ。
「…まだ立つの。そのまま座っていれば一思いに殺してあげるのに」
「…あ、生憎と…そういうわけに、は…いかねぇんでな」ソフィアの顔が浮かぶ。俺がレイを守らねぇと。俺は十課長だ。俺が守り切らなきゃいけねぇんだ。俺が…。
「素晴らしい愛国心ね。それとも別の理由かしら。まぁどれでもよいのだけれど。これ以上その醜態で、あたしの邪魔をしないでくれないかしら」
少女が右手を振る。それに呼応するように蟒蛇が俊敏に動いた。巨大な口がアレックスの視界を覆う。それが何だかとてもスローモーションに見えた。蟒蛇の、生臭い口臭が鼻を突く。アレックスは何故か冷静に状況が見えた。身体強化は─まだ機能している。だがこれで、少女のあの動きを追うのは無理だ。魔力はまだ─大技一発ぶん残ってる。蟒蛇が毒沼に頭を突っ込んだ時の事が思い出される。相手はもう勝利を確信している。まぁ、もうどうしようもねぇんだが。ただ、一矢くらいは報いねぇとな。
アレックスは地面を思い切り蹴って跳躍した。激痛が頭に響く。アレックスの真下では蟒蛇の牙が空振りした。少女は訝しげにアレックスを見上げた。蟒蛇は直ちに体勢を立て直して、空中のアレックスに狙いを定めた。蟒蛇がバネのように首を伸ばしてくる。大口を開けた。
アレックスは右手を引いて、拳に魔力を込めた。
あの時、蟒蛇が毒沼に突っ込んだ時、煙が上がっていたのは鱗からだけだった。口も開けていただろうに。少女は|バジリスクの鱗を貫通したかったら《●●●●●●●●●●●●●●●●》、と言っていた。毒沼の中で体内が無事だったのは、単に耐毒性が高かったということじゃないか。つまり─。
アレックスは呪文を唱えた。
『空絶の鏃を以てして、数多を塵芥と帰せ!ロシス・コルスカンス・サギッタ!』
アレックスの右拳の側面に沿って巨大な光の矢が現れた。蟒蛇のぱっくりと開いた口の中、喉を貫かんと構えられる。
「…!リリィ!」異変に気付いた少女の叫び声が聞こえた。
「口ん中なら…防げねぇだろ」アレックスは拳を振り抜いた。
アレックスは息も絶え絶えという状態だった。暗がりの中、まだ明かりも点けてないらしい。悠長だな、まったく。
「…アレックス?」レイが暗がりの先から心配そうに声をかけてきた。「どこに行っていたんですか?急に現れたと思ったらいなくなって…。何だか息も荒いけど、どうしたんですか?」
アレックスは足腰も立たない。さっき、着地に失敗し脚を痛めたらしい。
病院に張っていた結界もなくなっており、レイの場所が大まかにしか分からなかった。
「…とにかく…ここを、でねぇと…」
「な…何でですか?一体何があって…さっきの子は?」
「早く…!ヤツが来る…前に─」
その時、背中から衝撃があった。途端に息が出来なくなる。「…!かっ…あ……!」
「酷いわね。あたし一人置いていくだなんて」
アレックスの意識が胸の真ん中に集中する。そこから不意に刃物が抜かれた。急に身体中が弛緩し、右に倒れ込む。胸に開いた穴から血が、こぼこぼと流れ出た。
「さっきの滅矢の魔法、驚いたわ。リリィの口内を狙ってくるんだもの。あたしが気付くのがもう少し遅かったら、リリィが死んでたかもしれない」
意識が遠退く。アレックスは右手を必死に伸ばした。レイは確か…このベッドの上だ…。
「でも、あの空間魔法に閉じ込めるのは得策ではなかったわ。あれ、内側からだと結構簡単に開けれたもの」
「アレックス!どうしたんですか、アレックス!」
「呼んでも無駄よ、フレイヤ。この刃はバジリスクの牙。もうどう足掻いても助からない」
伸ばした手はもう動かない。ただその先に、アレックスの胸から流れ出た血が、細々と伸びていっていた。
もうレイの声も、少女の声もよく聞こえない。
「フレイヤ。あなたの騎士はもういないわ。これでおしまい」
ベッドの下に弱々しく歪な血の円が描かれた。アレックスはそこに最後の魔力を注ぎ込んだ。
警察舐めちゃあいけねぇな、お嬢ちゃん。
次の瞬間、少女のヒステリックな叫びが病室内に響いた。アレックスの身体をブーツで乱暴に仰向けにする。
「あんた!どこにやったの!|フレイヤをどこにやった《●●●●●●●●●●》!?」
少女は我武者羅にアレックスの胸を、腹を、首を、頭を蹴った。けれど、もうアレックスは痛みも感じない。ふわふわのクッションで叩かれているかのような、鈍い感触があるだけだった。
結局…逮捕も何も出来なかったな。…レイを逃がすので…精一杯。あいつ…怒るだろうな。…勝手に…送りつけて…。先に…謝っとか…ねぇと…。…使い…まで…れん……らく…を………。
少女の声かも分からないものが、ぼうぼうとこだましている。
薄ぼんやりとしたアレックスの視界に、ふとブーツの底のような黒い物が、降ってきた。